第49話 好きだと気づいたあと
俺は、林が好きだ。
そう気づいたからといって、何かが急に変わったわけじゃない。
隣を歩いているのはさっきまでと同じ林で、周りには大勢の人がいて、屋台から聞こえてくる威勢のいい声も祭囃子も変わらず続いている。
なのに、一度自覚してしまうと駄目だった。
握っている手が気になる。
林の歩く速さが気になる。
隣から聞こえる声も、時々こちらを見上げる横顔も、さっきまでとはまるで違って感じる。
いや、違うのは林じゃない。
俺の方だ。
「矢城くん?」
「え?」
「さっきから静かだから」
「ああ……ちょっと考え事」
「何考えてたの?」
「それは……」
言えるわけがない。
今まさに、お前のことが好きだと気づきました、なんて。
「大したことじゃないよ」
「そう?」
林は少し気になったようだったが、それ以上は追及してこなかった。
助かったような、少し残念なような。
自分でも面倒くさい。
そんなことを考えている間も、手は繋がったままだった。
最初は人混みではぐれないためだったはずなのに、もう周りにはさっきほど人がいない。それでも林は離そうとしないし、俺も離す理由を探す気にはなれなかった。
このまま歩いていたい。
そう思った。
◇
「あ」
しばらく歩いたところで、林が足を止めた。
視線の先には、小さな輪投げの屋台がある。景品にはお菓子や小さなぬいぐるみが並んでいた。
「やる?」
「え? ううん、見てただけ」
「そう言って、りんご飴も見てたよね」
「……そんなに分かりやすい?」
「結構」
俺が笑うと、林は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「じゃあ、一回だけ」
「俺もやろうかな」
「射的、一個も取れなかったのに?」
「それ今言う?」
「ごめん」
「笑ってるじゃん」
林は口元を押さえながら「ごめん」と繰り返している。
どうやら今日はよく笑う。
それが嬉しくて、俺まで笑ってしまった。
二人で代金を払い、輪を受け取る。
「よし」
今度こそ何か取る。
狙うのは手前にある小さなぬいぐるみだ。
一投目。
外れた。
二投目。
惜しい。
三投目。
輪が景品のすぐ横へ落ちる。
「……嘘だろ」
「惜しかったね」
「射的より向いてないかもしれない」
「じゃあ、私の番」
林が輪を構える。
正直、あまり期待していなかった。
ところが二投目で輪が綺麗に景品へ入った。
「え?」
思わず声が出る。
林自身も驚いていた。
「入った……」
「林、上手くない?」
「たまたまだよ」
「成瀬みたいなこと言うなよ」
「成瀬君?」
「今日、射的で同じこと言われた」
店の人から渡されたのは、手のひらに乗るくらいの小さな犬のぬいぐるみだった。
林はそれをしばらく眺めたあと、俺の方へ差し出した。
「はい」
「え?」
「矢城くんに」
「何で?」
「だって、矢城くん何も取れてないから」
「傷口えぐるなよ」
「そういう意味じゃないよ」
林が笑う。
「今日、りんご飴買ってくれたし」
「それのお返し?」
「それもあるけど……」
そこで言葉が止まる。
「けど?」
「……記念」
「記念?」
「今日の」
林はそれだけ言うと、ぬいぐるみを俺の手に押しつけた。
「いらなかった?」
「いや」
俺は慌てて首を横に振る。
「いる。もらう」
「本当?」
「うん。ありがとう」
たぶん、ただの安い景品だ。
でも今の俺には、妙に大事なものに思えた。
なくしたら普通にへこむ気がする。
「大事にする」
何気なく言ったつもりだった。
林が目を丸くする。
「そんな大げさなものじゃないよ」
「でも、林が取ってくれたんだろ?」
「……うん」
「じゃあ大事にするよ」
林は何も言わなくなった。
ただ、少しだけ嬉しそうに笑っていた。
◇
その後も二人で祭りを回った。
屋台を見たり、途中で飲み物を買ったり、何でもない話をしながら歩いたりした。
特別なことは何もしていない。
でも、楽しかった。
何か面白いことを言わなければならないわけでもないし、沈黙するたびに気まずくなるわけでもない。
話したい時に話して、目についたものがあれば一緒に見る。
林と二人でいる時間は、不思議なくらい落ち着いた。
「矢城くん」
「ん?」
「今日、誘ってくれてありがとう」
突然言われて、俺は林を見る。
「まだ祭り終わってないよ」
「そうだけど、言っておこうと思って」
林は少し前を見ながら歩いている。
「私、こういうのあんまり来ないから」
「人多いの苦手だもんな」
「うん。だから最初に誘われた時も、ちょっと迷った」
「やっぱり?」
「でも、来てよかった」
そこで林が俺を見る。
「すごく楽しい」
「……そっか」
「うん」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が温かくなる。
「俺も楽しいよ」
「本当?」
「本当。というか、俺もこういうの慣れてないし」
「そうなの?」
「前は友達と祭りなんて、ほとんど来なかったから」
前の人生の話だ。
もちろん林には、そんなことは分からない。
「じゃあ、一緒だね」
「何が?」
「慣れてない同士」
「そうかも」
二人で笑う。
それでいいのかもしれない。
無理に格好よく振る舞わなくても、恋愛に慣れているふりをしなくてもいい。
俺は俺のまま、林と一緒にいればいい。
そう思えた。
◇
遠くで大きな音が響いた。
「えっ?」
林が空を見る。
少し遅れて、夜空に光が広がった。
花火だ。
「あ、今日上がるんだ」
「知らなかったの?」
「知らなかった」
「私も」
どうやら俺たち二人とも、祭りについてろくに調べていなかったらしい。
周囲の人たちが一斉に空を見上げる。
次の花火が上がると、林の横顔が一瞬だけ明るく照らされた。
「綺麗……」
「うん」
花火を見に来たはずなのに、俺は一瞬、空ではなく林を見ていた。
慌てて視線を戻す。
危ない。
好きだと気づいた途端、本当におかしくなっている。
何発か続けて花火が上がった。
少し人が増えてきたので、俺たちは通りの端へ移動する。
「ここなら見えるかな」
「うん」
並んで空を見上げる。
ふと手に何かが触れた。
林の指だった。
さっきまで繋いでいた手は、輪投げをする時に一度離していた。
今は触れただけだ。
林も気づいたらしく、一瞬こちらを見る。
俺も見る。
お互いに何も言わない。
でも今度は、俺から手を伸ばした。
林の手に触れ、そのまま握る。
「……」
拒まれたらどうしよう。
一瞬そんな不安が浮かんだ。
けれど林は手を引かなかった。
それどころか、ゆっくりと指を絡めるように握り返してくる。
心臓が跳ねた。
さっきは俺が危ないと思って掴んだ。
でも今は違う。
俺が繋ぎたかったから、繋いだ。
林も、それに応えてくれた。
また花火が上がる。
その光を見ながら、俺は思う。
告白しようか。
言えば、もしかしたら――。
そこまで考えたところで、俺は口を閉じた。
違う。
今すぐ答えが欲しいわけじゃない。
好きだと気づいたから、すぐに付き合わなければならないわけでもない。
前の俺なら、ここで「彼女を作る」という結果を欲しがったかもしれない。
でも今は、この時間を結果へ変えるために急ぎたくなかった。
林がどう思っているのか。
俺がこれからどうしたいのか。
それをちゃんと大事にしたい。
「林」
「ん?」
「来年もさ」
言ってから、少し気が早すぎると思った。
それでも続ける。
「また来ない?」
林は驚いたように俺を見る。
「来年?」
「うん。まだ一年先だけど」
「……気が早いね」
「俺も今思った」
林が笑う。
それから、繋いだ手に少し力が入った。
「いいよ」
「本当?」
「うん」
林は夜空へ視線を戻す。
「また一緒に来たい」
胸の奥が、強く鳴った。
告白はしなかった。
付き合ったわけでもない。
それでも俺には、その言葉が十分すぎるほど嬉しかった。
◇
花火が終わり、俺たちはみんなとの待ち合わせ場所へ戻った。
「お、帰ってきた」
高石が俺たちを見つける。
「遅かったな」
「普通だろ」
「二人で何してたんだよ?」
「祭り回ってただけ」
「本当に?」
「お前は何を期待してんだよ」
高石が笑う。
成瀬は俺の手にある小さなぬいぐるみに気づいた。
「それ取ったの?」
「ああ」
「矢城が?」
「……林が」
「やっぱり」
「何でだよ!」
また笑われた。
林も隣で笑っている。
名取と浅井もこちらへ来る。
「楽しかった?」
浅井が林に聞く。
「うん」
林は迷わず答えた。
「すごく楽しかった」
その言葉を聞いて、俺まで嬉しくなる。
名取は俺と林を交互に見たあと、いつものように笑った。
「よかったね」
「うん」
林が答える。
名取の笑顔は自然に見えた。
それでも、ほんの少しだけ何かを飲み込んだようにも見えた。
俺には、その意味までは分からなかった。
◇
帰り道。
みんなと別れ、一人になってからも祭りの余韻が残っていた。
ポケットから小さな犬のぬいぐるみを取り出す。
『今日の記念』
林の言葉を思い出す。
俺はそれをしばらく眺めてから、大事にポケットへ戻した。
今日、初めてはっきり分かった。
俺は林が好きだ。
でも、それと同じくらい大事なことも少しだけ分かった気がする。
好きになったからといって、相手が自分のものになるわけじゃない。
告白すれば正解でもないし、付き合えれば成功でもない。
林には林の気持ちがある。
俺は、その気持ちごと大事にしたい。
そう思えることが、以前の俺とは少し違う気がした。
家へ向かって歩きながら、俺はふと笑った。
来年も一緒に来たい。
そんな約束を、一年前の俺なら想像すらできなかっただろう。
俺の夏休みは、まだ始まったばかりだった。




