第48話 二人で歩く夏祭り
「……矢城くん?」
林に呼ばれて、ようやく我に返った。
「あ、ごめん」
「どうしたの?」
「いや、その……」
何か言わないといけない。せっかく浴衣を着てきたんだから、似合ってるとか、可愛いとか、それくらい普通に言えばいいだけだ。
頭では分かっているのに、いざ本人を目の前にすると口が動かない。
「……浴衣」
「え?」
「似合ってる。すごく」
結局出てきたのは、考えていたよりずっと短い言葉だった。
それでも林は一瞬目を丸くしたあと、自分の浴衣へ視線を落とした。薄暗くなり始めた夕方の光の中でも分かるくらい、頬が赤くなっている。
「……ありがとう」
「うん」
「矢城くんも、その……」
林が俺の服を見る。
「似合ってるよ」
「俺、普通の私服だけど?」
「それでも」
「……ありがとう」
何だ、この会話。
恥ずかしすぎる。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
「おーい」
少し離れたところから高石の声が飛んでくる。
「二人だけで始めんなよー」
「何をだよ!」
思わず振り返ると、高石が笑っていて、その横で成瀬が呆れたように肩をすくめている。
「高石、余計なこと言わないの」
名取がそう言って高石の腕を軽く叩いた。
「何で俺が怒られんの?」
「林さん困ってるでしょ」
「矢城も困ってるぞ」
「矢城はいいの」
「扱い違いすぎない?」
いつもの調子で言い合いが始まり、浅井が笑う。おかげでさっきまでの妙な緊張が少しだけ解けた。
俺はもう一度、隣に立った林を見る。目が合うと、林も少しだけ笑った。
それだけで、また心臓がうるさくなった。
◇
祭りの会場へ近づくにつれて、人の数が一気に増えていった。
通りの両側には屋台が並び、焼きそばやたこ焼きの匂いが入り混じっている。少し先からは祭囃子も聞こえてきて、まだ完全に日が沈んでいないのに提灯には明かりが灯り始めていた。
「まず何食べる?」
浅井が屋台を見回しながら聞くと、高石が即答する。
「焼きそば」
「さっき何か食べてきたって言ってなかった?」
「それとこれは別腹」
「男子が別腹って言う?」
「俺は言う」
高石が胸を張る。
結局、全員でまとまって一つの屋台へ行くのは難しいということで、それぞれ食べたいものを買いながら進むことになった。
俺は特に決めていなかったので林の隣を歩いていると、彼女がりんご飴の屋台を見ていることに気づいた。
「食べる?」
「え?」
「りんご飴。見てたから」
「あ……うん。でも、大きいのは食べきれないかも」
「じゃあ小さいやつにする?」
「あるの?」
「ほら」
指を差すと、小さめのりんご飴が並んでいる。
「本当だ」
林が嬉しそうに笑う。
「買ってくる」
「あ、待って。自分で払うよ」
「これくらいいいって」
「でも――」
「退院祝いのスポーツドリンクのお返し」
そう言うと、林は少し考えてから笑った。
「じゃあ……ありがとう」
俺はりんご飴を一つ買い、林へ渡した。
たったそれだけなのに妙に嬉しい。
前なら、こういうことをすれば「女の子に奢れる俺ってちょっと勝ち組っぽくないか」なんて考えていたかもしれない。でも今は、林が嬉しそうだから俺も嬉しい。
それだけだった。
◇
「矢城、勝負!」
しばらく歩いたところで、高石に突然腕を掴まれた。
「何の?」
「あれ」
指の先には射的の屋台がある。
「嫌だよ」
「逃げるのか?」
「何で射的でそんな煽られないといけないんだよ」
「負けるのが怖いんだろ」
「……やるよ」
「チョロいね、矢城」
名取が笑う。
「うるさい」
結局、成瀬まで巻き込んで三人で勝負することになった。
結果は――惨敗だった。
「嘘だろ……」
俺は倒れなかった景品を見る。
「矢城、下手すぎ!」
「高石も大して変わらなかっただろ!」
「俺、一個取ったから」
「お菓子一個じゃん」
「ゼロの人に言われたくねえ」
腹が立つ。
一方の成瀬は、何でもない顔で二つ取っていた。
「お前、何で射的までできるんだよ」
「たまたまだよ」
「その言葉が一番ムカつく」
俺が言うと、後ろで女子たちが笑っている。林も口元を押さえながら笑っていた。
「林まで笑う?」
「ご、ごめん。でも……矢城くん、すごく真剣だったから」
「真剣だったのに一個も取れなかったんだよ」
「もう一回する?」
「しない。傷を広げたくない」
林がまた笑う。
学校では、こんなふうに笑う姿をあまり見たことがなかった。教室の林はいつも少し控えめで、誰かが話している時には聞く側に回ることが多い。でも今日はいつもより表情が柔らかくて、楽しそうにしている。
それを見るたびに、誘ってよかったと思った。
いや。
俺がここへ連れてきたわけじゃない。
林は自分で「行きたい」と言って、ここへ来たんだ。
以前の俺なら、きっとそこまで考えなかった。自分が誘った、自分のおかげで来た。そんなふうに、自分を中心に考えていたかもしれない。
でも林には林の気持ちがあって、俺とは別の人生がある。
あの日を何度も繰り返したからこそ、それだけは忘れたくなかった。
◇
祭りを回り始めて一時間ほど経った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
提灯の明かりが並び、人混みもさっきより増えている。
「ちょっと休まない?」
名取の提案で、俺たちは屋台が並ぶ通りから少し外れた場所へ移動した。
高石は買ってきたたこ焼きを食べ、浅井は名取と一緒に撮った写真を確認している。成瀬はスマホを見ながら誰かに返信していた。
俺も飲み物を買おうと立ち上がったところで、名取が声をかけてきた。
「矢城」
「ん?」
「楽しんでる?」
「うん。名取は?」
「楽しいよ。高石君がうるさいけど」
「それはいつも通りだろ」
「確かに」
名取が笑う。
それから俺の少し後ろへ視線を向けた。そこには浅井と話している林がいる。
「林さん、楽しそうだね」
「うん」
「矢城も楽しそう」
「俺?」
「うん」
何か含みがあるように聞こえて、俺は名取を見る。
「何?」
「いや……」
名取は一瞬だけ言葉を止めたあと、首を横に振った。
「ちゃんと楽しみなよ」
「そのつもりだけど」
「ならいい」
そう言って笑った名取の表情が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
理由を聞こうか迷ったが、その前に浅井が「桃香、写真撮ろう」と呼び、名取はそちらへ行ってしまった。
俺はその背中を見送る。
何だったんだろう。
「矢城くん」
今度は後ろから呼ばれた。
振り返ると、林が立っている。
「どうしたの?」
「ううん。飲み物買いに行くのかなって」
「ああ。一緒に行く?」
「うん」
二人で自動販売機の方へ歩き出す。
数歩進んだところで、ふと思い出した。
いや、忘れていたわけじゃない。
むしろ、ずっと頭の片隅にあった。
「林」
「ん?」
「このあとさ」
林も気づいたらしい。少しだけ歩く速度が遅くなる。
「約束しただろ?」
「……うん」
「二人で回るって」
林が小さく頷く。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないだろ」
答えた瞬間、林がこちらを見る。
しまった。
何か恥ずかしいことを言った気がする。
「いや、違う。違わないけど……」
「どっち?」
「俺にも分からん」
林がくすっと笑った。
「矢城くん、今日ちょっと変」
「林のせいだよ」
「私?」
「……何でもない」
危ない。
今日の俺は口が滑りすぎる。
林は不思議そうにしていたが、それ以上は聞いてこなかった。
◇
みんなのところへ戻り、林と少し二人で回ってくることを伝えた。
「了解」
成瀬はそれだけだった。
「おー、ついに――」
「高石」
名取が笑顔で遮る。
「何?」
「余計なこと言ったら、たこ焼き一個もらうから」
「何で!?」
「じゃあ黙ってて」
「横暴!」
高石の抗議を無視して、名取が俺たちを見る。
「行ってきたら?」
「ああ」
「林さん、人多いから気をつけてね」
「うん。ありがとう」
浅井も林に何か耳打ちした。
「えっ」
林の顔が一気に赤くなる。
「浅井さん……!」
「何言ったの?」
俺が聞くと、浅井は笑って首を横に振った。
「内緒」
「絶対ろくなことじゃないだろ」
「失礼だなあ」
みんなに見送られ、俺と林は再び屋台が並ぶ通りへ歩き出した。
さっきまでと同じ祭りのはずなのに、急に周囲の音が遠く感じる。隣にいるのも同じ林なのに、二人きりになったというだけで妙に意識してしまう。
「……何か見たいのある?」
「矢城くんは?」
「俺は林が行きたいところでいいよ」
「それだと困る」
「何で?」
「私も、矢城くんが行きたいところに行きたいから」
「……じゃあ二人とも決まらないじゃん」
「そうだね」
顔を見合わせて笑った。
結局、近くにあった金魚すくいを覗いて、その次にかき氷を買うことにした。
一つずつ買おうとしたが、林が「そんなに食べられない」と言うので、一つだけ買う。
「何味?」
「矢城くん決めて」
「また俺?」
「さっき私に合わせてくれたから」
「じゃあ……いちご」
「私もいちごがよかった」
「最初から決まってたじゃん」
また二人で笑う。
俺が一口食べてから林へ渡すと、受け取った林の動きが一瞬止まった。
「どうした?」
「……何でもない」
「溶けるよ」
「う、うん」
林が少しだけ顔を赤くしながら、かき氷を口に運ぶ。
その様子を見て、数秒遅れて俺も気づいた。
これって。
同じスプーン……。
「……」
「……」
目が合う。
二人とも何も言わない。
ただ、さっきまでより少しだけ歩く距離が離れた。
何で離れるんだよ。
いや、俺も離れたけど。
恥ずかしさをごまかすように前を見ると、人の流れが急に詰まった。向こうから来た集団を避けようとして、林が後ろへ押される。
「危ない」
考えるより先に、俺は林の手を掴んだ。
「……!」
「こっち」
人の流れから外れるまで、そのまま手を引く。
数メートル進み、少し人の少ない場所まで来たところで立ち止まった。
「大丈夫?」
「……うん」
「よかった」
そこで気づく。
まだ手を握っている。
「あ、ごめん」
慌てて離そうとした。
でも、林の指がほんの少しだけ俺の手を握り返した。
「……このままでも、いいよ」
小さな声だった。
祭囃子と人の声に紛れれば、聞き逃していたかもしれない。
俺は林を見る。
林は俺を見ていなかった。顔を赤くして、前を向いたまま俯き気味に歩き始める。
それでも、手だけは離れない。
「……うん」
俺も、それ以上何も言わなかった。
人混みの中を、二人で歩く。
林の手は思っていたより小さくて、少しだけ冷たかった。でも、その感触を意識するほど、俺の方はどんどん熱くなっていく。
高石に聞かれた。
『林のこと好きなの?』
あの時は、まだ「分からない」と答えた。
でも今は、隣を歩く林を見て、もう同じ答えは出てこなかった。
俺は林が好きだ。
ようやく、自分でもはっきり分かった。




