第5話 戻る場所が変わった
四月九日。
矢城勇真はベッドの上で、スマートフォンの日付を見つめていた。
【4月9日】
昨日も四月九日だった。
眠るまでは確かに一日を過ごしたはずなのに、目を覚ませば同じ日の朝へ戻っている。
だが、以前とは一つだけ違う。
「四月八日じゃない……」
何度失敗しても、最初の入学式の日には戻されなかった。
一度四月八日を抜けたから、もう四月八日には戻らないのだろうか。
だとすれば、戻る場所にも何かしらの決まりがあることになる。
「……分かんねえな」
勇真は机へ向かい、ノートを開いた。
分からないからこそ、今分かっていることだけでも整理しておこうと思った。
一、眠ると同じ日に戻ることがある。
二、前の時間を覚えているのは自分だけ。
三、自分が違う行動をすれば、その後の出来事も変わる。
四、一度四月八日を抜けてからは、四月九日より前には戻っていない。
「これくらいか……」
文字にしてみても、肝心なことは何一つ分からない。
なぜ自分がこんな目に遭っているのか。
何をすれば先へ進めるのか。
そもそも誰かが意図的にやっていることなのか。
答えはない。
「でも……何かはあるんだよな」
林を助けたあと、四月九日へ進めた。
昨日は朝から人助けを繰り返したのに、四月九日へ戻された。
単純に「いいことをすれば進める」というわけではない。
そこまでは分かった。
「じゃあ、今日はどうするか……」
勇真はしばらく考えたあと、ノートを閉じた。
「普通にやるか」
昨日のように、正解らしきものを必死に探して一日を過ごすのはやめる。
どうせ何が正解なのか分からない。
それなら、自分が本当にやりたいと思ったことをやるしかなかった。
◇
教室へ入ると、昨日と同じようにクラスメイトたちが話していた。
「おはよう、矢城」
「おはよう、名取」
名取が勇真の机の上を見る。
「何それ?」
「何が?」
「ノート。朝からなんか書いてたでしょ」
「見てたのかよ」
「たまたま見えただけ。何書いてたの?」
「秘密」
「何それ。怪しい」
名取が笑う。
「もしかして彼女作るための作戦?」
「違うわ!」
「自己紹介で宣言してたもんね」
「それはもう忘れてくれ……」
勇真が顔をしかめると、名取は楽しそうに笑った。
こんなふうに名取と普通に話していること自体、元の高校生活ではほとんどなかった。
以前の自分なら、何か変なことを言わないか気にして、会話を早く終わらせようとしていただろう。
少しずつではある。
それでも、以前とは違う自分になれているのかもしれない。
「……悪くないな」
「何が?」
「何でもない」
「今日の矢城、秘密多くない?」
名取が不満そうに頬を膨らませる。
勇真は少し笑いながら、授業の準備を始めた。
◇
昼休み。
勇真が昼食を買いに行こうと立ち上がった時だった。
「堀井、パン買ってきて」
聞き覚えのある声に足が止まる。
真下だ。
その近くには川井と林剛もいる。
三人を見た瞬間、元の高校生活の嫌な記憶が蘇った。
勇真を何度も馬鹿にし、からかってきた連中。
その三人が今、堀井の机を囲んでいる。
「え……自分で行けばいいじゃん」
堀井が困ったように笑う。
「いいから。俺、焼きそばパン」
「俺カレーパン」
「俺もなんか適当に」
川井と林剛まで続く。
「いや、俺も昼飯食いたいんだけど」
「ついでだろ」
真下が笑う。
冗談のような口調だった。
けれど、堀井は明らかに嫌がっている。
勇真はその光景を見ながら考えた。
――これを止めたら、進めるんじゃないか?
昨日、人助けをしても駄目だった。
なら、今日は真下たちを止める。
それが正解かもしれない。
一歩踏み出そうとして――勇真は止まった。
「……違う」
小さく呟く。
また同じだ。
明日に進むために助ける。
昨日の朝からやっていたことと何も変わらない。
その時、ふと卒業式の日の光景が浮かんだ。
『矢城』
高校生活最後の日。
誰ともろくに話さず、一人で帰ろうとしていた自分に声をかけてきた男。
『卒業、おめでとう』
堀井だった。
たった一言。
それだけだった。
けれど、誰からも声をかけられないと思っていた勇真にとって、その言葉は意外なほど記憶に残っている。
「……そうだよな」
正解だから助けるんじゃない。
嫌がっている奴がいる。
それだけで十分だ。
「真下」
「あ?」
三人が振り返る。
「嫌がってるだろ」
「何が?」
「堀井。自分で買いに行けよ」
真下が眉をひそめる。
「別にパシらせてるわけじゃねえよ。な?」
堀井を見る。
堀井は困ったように黙った。
「嫌がってんじゃん」
「お前に関係なくね?」
真下の声が少し低くなる。
以前の勇真なら、それだけで引いていた。
揉めたくない。
目をつけられたくない。
そう考えて黙っていたはずだ。
胸が少しだけ速く鳴る。
それでも勇真は引かなかった。
「嫌がってる奴にしつこくするの、ダサいだろ」
「は?」
「だから、自分で買ってこいって言ってんの」
空気が張りつめる。
やばい。
言いすぎたかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった時だった。
「矢城の言う通りじゃね?」
別の声が飛んできた。
伊藤だった。
「嫌がってんだから、自分で行けよ」
「……レオには関係ないだろ」
「俺もそう思ったから言っただけ」
伊藤はそれだけ言うと、佐藤のところへ戻っていく。
真下は不満そうな顔をしたものの、伊藤にまで言われて続ける気は失せたらしい。
「行こうぜ」
川井たちを連れ、その場を離れていった。
「…………」
勇真は息を吐く。
「こっわ……」
「矢城」
「ん?」
堀井がこちらを見ていた。
「ありがとう」
「ああ」
「でも大丈夫だったのに」
「めっちゃ嫌そうな顔してたぞ」
「マジ?」
「マジ」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
「矢城、昼飯まだ?」
「まだだけど」
「じゃあ一緒に食わない?」
その言葉に、勇真は一瞬だけ驚いた。
「……いいの?」
「何で俺が誘ってんのに聞くんだよ」
「ああ……そうだよな」
勇真は笑う。
「食おう」
元の高校生活では、堀井とまともに昼食を食べた記憶などほとんどない。
だが、この日はくだらない話をしながら二人で昼を食べた。
好きなゲーム。
中学時代の話。
部活をどうするか。
どれも大した話ではない。
それなのに勇真は、時間が過ぎるのを早く感じた。
◇
放課後。
「じゃあな、矢城」
「ああ」
堀井が手を上げる。
「また明日」
「……また明日」
勇真も手を上げた。
少し離れたところでは、名取と浅井がこちらを見ていた。
「矢城、もう友達できてるじゃん」
「ほんとだね」
名取が笑う。
そのさらに向こうには清水と栗原もいる。
清水と一瞬だけ目が合った。
「何?」
勇真が聞くと、清水はすぐに目を逸らす。
「別に」
「またそれかよ」
「うるさい」
清水は栗原と一緒に歩いていった。
勇真は首を傾げながら、その背中を見送る。
「……やっぱ俺、あいつに嫌われてるよな」
「清水?」
堀井が聞く。
「たぶん」
「何したんだよ」
「それが分からないから困ってんだよ」
二人は笑いながら校門を出た。
◇
その夜。
勇真は昨日ほど緊張せず、ベッドへ入った。
今日は誰かを助けるために動いた。
だが、明日に進むためではない。
少なくとも堀井の前へ出た時には、そんなことは考えていなかった。
「これで駄目なら……また考えればいいか」
少しずつだが、ループそのものに慣れ始めている自分がいる。
勇真は目を閉じた。
◇
ピピピピピピッ――!
目覚まし時計を止め、スマートフォンを見る。
【4月10日】
「…………」
数秒、画面を見つめる。
「よし!」
思わず拳を握った。
「進んだ……!」
四月十日。
二日目を抜けた。
勇真はベッドから起き上がる。
「やっぱり……何かある」
林を助けた四月八日。
堀井の前に立った四月九日。
どちらにも共通するものがある気がする。
ただ、まだ言葉にはできない。
「俺がどう動くか……なのか?」
誰かを助ければいいわけではない。
何か決まった行動をすればいいわけでもない。
もっと別の何か。
「……まあ、いい」
今はそれよりも――。
「四月十日だ」
また一日、先へ進めた。
◇
それから数日間、時間は普通に流れた。
四月十日。
体育の時間、久しぶりにバスケットボールをした。中学まで続けていたこともあり、思った以上に身体が動く。
「矢城、結構うまいじゃん」
成瀬に言われ、素直に嬉しかった。
四月十一日。
堀井と昼飯を食べた。
今度は向こうからではなく、勇真から声をかけた。
四月十二日。
成瀬や高石と休み時間に話した。
以前なら遠くから眺めているだけだった相手と、普通に笑っている自分がいる。
四月十三日。
林とも少し話した。
以前プリントを拾ったことを覚えている林は、勇真を見ると自然に笑ってくれるようになっていた。
四月十四日。
「矢城」
「何?」
「……やっぱ何でもない」
「お前、それ多すぎない?」
「うるさい」
清水との会話も、以前とはほんの少しだけ変わってきた気がする。
毎日が新鮮だった。
そして何より――眠っても戻らない。
朝になれば、ちゃんと次の日が来る。
勇真は少しずつ、同じ日を繰り返す恐怖を忘れ始めていた。
◇
放課後。
「矢城、また明日な」
「おう」
堀井と別れ、勇真は一人で廊下を歩いていた。
以前とは違う。
友達ができた。
名取とも普通に話せる。
成瀬や高石とも会話するようになった。
林とも少しずつ話すようになっている。
「結構……順調なんじゃないか?」
まだ彼女はいない。
クラスの中心人物になったわけでもない。
それでも、元の高校生活と比べれば十分すぎるほど変わっている。
そんなことを考えながら階段を下りた時だった。
「返せよ」
女子生徒の声が聞こえた。
勇真は足を止める。
廊下の先。
真下が女子生徒のスマートフォンを持っていた。
隣には川井と林剛もいる。
「ちょっと見せろって」
「嫌だって言ってるじゃん」
「何見られたら困るんだよ」
「返して!」
女子生徒が手を伸ばす。
真下は笑いながらスマートフォンを高く上げた。
「…………」
勇真はその場に立ち止まった。
止めた方がいい。
すぐにそう思った。
堀井の時と同じだ。
嫌がっている。
だったら声をかければいい。
分かっている。
それなのに、足が動かなかった。
――また真下と揉めるのか?
今はうまくいっている。
友達もできた。
クラスでも少しずつ居場所ができてきた。
ここで真下たちと本格的に揉めたら、面倒なことになるかもしれない。
以前のように、自分が標的になるかもしれない。
「…………」
怖かった。
だから、勇真は動けなかった。
「何してんの?」
鋭い声が響いた。
清水だった。
「は?」
真下が振り返る。
「嫌がってんじゃん。返しなよ」
「清水には関係ねえだろ」
「関係あるとかないとかじゃないでしょ」
清水は真下の前まで歩いていく。
「ダサいよ、それ」
「……チッ」
真下はスマートフォンを女子生徒へ返した。
「冗談だろ」
「面白くないけど」
清水に睨まれ、真下たちはその場を離れていった。
「大丈夫?」
「う、うん。ありがとう、清水さん」
女子生徒も去っていく。
勇真は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
清水が振り返る。
目が合った。
「……見てたよね」
「…………」
「矢城」
「見てた」
「何で何も言わなかったの?」
答えられなかった。
「堀井の時は言えたじゃん」
「それは……」
「今日は?」
清水の声に責め立てるような強さはなかった。
だからこそ、言い訳ができなかった。
「……怖かった」
勇真は正直に答えた。
「真下と揉めたら、また面倒になるかもしれないって思った」
「ふーん」
清水はしばらく勇真を見る。
「怖いのは別にいいんじゃない?」
「え?」
「私だって怖い時くらいあるし」
清水は少しだけ目を細めた。
「でも、怖いのと、見て見ぬふりするのは別でしょ」
「…………」
何も言い返せなかった。
「じゃ」
清水はそのまま去っていく。
勇真は一人、廊下に残された。
『怖いのと、見て見ぬふりするのは別でしょ』
その言葉が、頭から離れなかった。
◇
夜。
勇真はベッドに横になりながら、天井を見つめていた。
友達ができた。
クラスメイトとも話せるようになった。
以前より、ずっと楽しい。
「なのに……」
失うのが怖くなった。
ようやく手に入れた居場所を守りたいと思った。
その結果、目の前で困っている人がいるのに動けなかった。
「結局……同じじゃん」
以前の自分もそうだった。
面倒なことに巻き込まれたくない。
嫌われたくない。
自分が標的になるのが怖い。
そうやって何度も見て見ぬふりをしてきた。
人生を変える。
そう決めたはずなのに。
「友達が増えただけじゃ、意味ないのか……」
勇真は目を閉じた。
清水の言葉が、最後まで頭に残っていた。
◇
ピピピピピピッ――!
「……ん」
スマートフォンへ手を伸ばす。
【4月10日】
「…………え?」
眠気が一瞬で消えた。
勇真は身体を起こす。
「四月……十日?」
昨日は四月十四日だった。
なのに、四日前へ戻っている。
「なんで……?」
四月八日ではない。
四月九日でもない。
四月十日。
「待てよ……」
勇真は必死に記憶をたどる。
四月八日を何度も繰り返し、林を助けたあと四月九日へ進んだ。
四月九日も繰り返し、堀井を助けたあと四月十日へ進んだ。
その後は何日も普通に進んだ。
だが――戻された先は四月十日。
「……もしかして」
胸が高鳴る。
「戻る場所……決まってる?」
ただ前日に戻っているわけではない。
失敗するたびに最初へ戻るわけでもない。
何かを乗り越えた時、その場所が新しい始まりになる。
「まるで……セーブみたいだな」
ゲームで、一度到達した場所からやり直すように。
四月八日。
四月九日。
そして四月十日。
自分は少しずつ、戻る場所そのものを前へ進めているのではないか。
「じゃあ……昨日の俺は」
何かを間違えた。
だから、最後に進んだ地点まで戻された。
そんな仕組みなのかもしれない。
「誰が……こんなことしてんだよ」
その瞬間だった。
「――っ!」
頭の奥に鋭い痛みが走った。
「いっ……!」
勇真は頭を押さえる。
突然、知らない光景が脳裏をよぎった。
――校門。
違う。
高校生活最後の日。
卒業式。
スマートフォンの画面。
何かのメッセージ。
『矢城』
女の声。
誰だ?
『来て』
「…………っ」
景色が揺らぐ。
夕暮れ。
誰かが立っている。
顔が見えない。
女だ。
手元で――何かが光った。
「……!」
勇真は息を呑んだ。
そこで記憶は途切れた。
「何……だよ、今の」
額に汗が浮かんでいる。
夢ではない。
どこかで見た。
いや――自分が実際に経験した光景のような気がした。
「卒業式……」
高校を卒業した日。
人生を変えると決意した。
そこまでは覚えている。
だが、そのあと。
「俺は……」
勇真は震える手で頭を押さえる。
「卒業式のあと、何があった?」
答えは出ない。
ただ、ぼやけた女の声だけが、いつまでも頭の奥に残っていた。




