第46話 夏休みの始まり
学校が再開してから数日が経った。
火事の話はまだ校内のあちこちで聞こえてくるものの、最初の頃に比べれば随分と落ち着いてきた。立ち入り禁止になっている理科室周辺だけは今も物々しい雰囲気が残っているが、それ以外の場所では、期末試験を終えた生徒たちの関心はすでに目前の夏休みへ移りつつある。
俺の体も順調に回復していた。
まだ激しい運動は控えるように言われているため、バスケ部では見学や軽い手伝いばかりだったが、日常生活で痛みを感じることはほとんどなくなった。
「矢城、ボール」
「あいよ」
練習中、コートの外へ転がってきたボールを拾い、高石へ投げ返す。
「お前、もう普通に動けそうじゃね?」
「俺もそう思う」
「じゃあ入れよ」
「芹沢先生に殺される」
「それはそう」
高石は即座に納得すると、ボールを持ってコートへ戻っていった。
その直後、背後から低い声が聞こえる。
「矢城」
「はい!」
振り返ると、芹沢先生が腕を組んで立っていた。
「今、何の話をしてた?」
「高石が今日も元気だなって」
「そうか。私は『もう普通に動けそう』と聞こえたが」
「気のせいじゃないですか?」
「よし。じゃあ明日から追加で三日見学な」
「何で!?」
「口が元気だからだ」
「横暴だ!」
「五日にするか?」
「三日でお願いします」
近くにいた部員たちが笑っている。
俺も苦笑しながら椅子へ戻った。
火事の直後は、こうして体育館にいるだけでも周りから何度も体調を確認された。でも今では、高石も他の部員も以前と同じように接してくれている。
それがありがたかった。
心配してもらえることは嬉しい。
けれど、いつまでも「火事で人を助けた矢城勇真」として見られたいわけじゃない。
俺はただ、ここでバスケをしている一年生の一人でいたかった。
◇
そして、終業式の日。
体育館での長い話を終えて教室へ戻ると、クラス全体が朝から浮ついていた。
「今日で終わりだー!」
「夏休み!」
「海行こうぜ!」
「宿題とか九月でよくね?」
「それは手遅れになるやつだろ」
あちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。
前の人生でも夏休みは当然あった。
でも、こんなふうに楽しみだと思った記憶はほとんどない。
部活も途中で辞め、人付き合いも少なく、誰かと遊ぶ約束があるわけでもなかった。学校へ行かなくていいことだけは嬉しかったけれど、長い休みの大半を家で過ごし、気づけば新学期が始まっていた。
それが今回は違う。
バスケ部がある。
友達と遊ぶ予定もある。
そして――夏祭りの約束がある。
自然と林の方を見る。
林は少し離れた席で女子と話していた。
その横顔を見ただけで、病院で交わした指切りを思い出してしまう。
「……何見てんだ?」
「うわっ」
突然、横から声をかけられた。
堀井だった。
「びっくりさせんなよ」
「いや、普通に声かけただけだけど」
「急に来るからだろ」
「ふーん」
堀井が俺の視線の先を見る。
まずい。
「……林?」
「違う」
「まだ何も聞いてないぞ」
「……」
「分かりやすっ」
「うるさい」
堀井がニヤニヤし始める。
「何? お前、林のこと好きなの?」
「声でかい!」
反射的に堀井の口を塞ぎそうになった。
「冗談だって」
「そういう冗談やめろよ」
「じゃあ違うの?」
「……」
すぐに否定すればいい。
なのに、なぜか言葉が出なかった。
好き。
林のことを?
今まで考えたことがないわけじゃない。
可愛いとは思う。
一緒にいると落ち着く。
話していて楽しいし、一緒に帰れる日は嬉しい。
病院へ一人で見舞いに来てくれた時も、本当に嬉しかった。
でも、それが「好き」ということなのか。
前の人生では、まともに恋愛なんてしたことがない。女子と付き合った経験もなければ、誰かとここまで近い距離になったこともない。
だから、自分の気持ちなのに判断がつかなかった。
「……分からん」
正直に答えると、堀井の笑顔が消えた。
「え?」
「だから、分からん」
「そこ普通、『違う』って言うところじゃないの?」
「知らんよ」
「矢城、お前……」
「何だよ」
「思ったより青春してんな」
「うるさい」
堀井は楽しそうに笑った。
俺はもう一度林を見る。
今度は、ちょうど向こうもこちらを見た。
目が合う。
林が少し笑って、小さく手を振った。
俺も反射的に手を上げる。
「……」
「……」
横を見る。
堀井が満面の笑みで俺を見ていた。
「何も言うな」
「何も言ってない」
「顔がうるさい」
「無茶言うなよ」
その時、教室の前方からハマヤンの声が飛んできた。
「お前ら席つけー。夏休みだからって、今から頭の中まで休みにするなよ」
クラスメイトたちがそれぞれの席へ戻っていく。
俺も座りながら、もう一度だけ林の方を見た。
さっきまでと同じはずなのに、堀井に言われたせいで妙に意識してしまう。
好き、か。
まだ分からない。
でも、完全に違うとも言えなかった。
◇
「というわけで、夏休みだからといって羽目を外しすぎないこと。事故、喧嘩、飲酒、喫煙。全部駄目だからな」
ハマヤンが教壇から話している。
「特に今年は、もう学校で大きな事故が起きてる。お前らも分かってると思うが、ちょっとした行動が大きなことにつながる場合がある」
教室が少し静かになった。
火事について、学校から詳しい話はまだ出ていない。ただ、原因について調査が進んでいることと、複数の生徒から事情を聞いていることだけは知らされていた。
俺が見た三人の上級生についても、先生には全部話してある。
それ以上は、俺が考えることじゃない。
「それと矢城」
「何で俺だけ名指しなんですか」
教室から笑いが起きる。
「夏休み中に人命救助するなとは言わん」
「父さんと同じこと言ってる……」
「ただし、まず大人を呼べ。警察、消防、救急。状況に合わせて頼れ」
「はい」
「あと二階から飛ぶな」
「先生まで!」
また笑いが起きた。
俺も笑った。
火事を笑い話にしていいとは思わない。
でも、俺自身の無茶については、これくらいの方がありがたかった。
ハマヤンは少し笑ったあと、教室全体を見回した。
「まあ、何だ。二学期に全員ちゃんと戻ってこい。それが一番だ。じゃあ、良い夏休みを」
その言葉と同時に、教室の空気が一気に弾けた。
◇
ホームルームが終わっても、すぐに帰る生徒は少なかった。
夏休みにどこへ行くか、誰と遊ぶか、部活は何日あるか。あちこちで予定を確認する声が聞こえている。
「矢城!」
名取に呼ばれた。
「何?」
「夏祭りのこと、覚えてる?」
「もちろん」
名取のそばには浅井もいる。
「みんなで行くやつだよ。夕方に駅前集合でどうかなって話してるんだけど」
「俺は大丈夫」
「よかった。成瀬たちにも聞いてるところ」
どうやら最初に話していた通り、何人かで集まって行くことになりそうだ。
「林さんにも聞いた?」
「うん。行くって」
「ああ、それなら――」
言いかけて、止まる。
名取が俺を見ていた。
「何?」
「いや、何でもない」
「……ふーん」
何だ、その反応。
「何?」
「別に?」
「絶対何かあるだろ」
「ないよ」
名取は笑っている。
でも、少しだけ目が笑っていないような気がした。
隣の浅井が名取と俺を交互に見て、何かに気づいたような顔をする。
「桃香」
「何?」
「いやぁ……夏祭り、楽しみだね」
「何その言い方」
「別にぃ?」
今度は名取が浅井を睨んだ。
何なんだ、この二人。
「じゃあ詳しい時間決まったら連絡するね、矢城」
「了解」
名取たちが離れていく。
その背中を見送っていると、後ろから声をかけられた。
「矢城くん」
「林」
振り返ると、林が鞄を持って立っていた。
「帰る?」
「うん。一緒に帰ろう」
最近では、それが当たり前のようになっていた。
◇
外へ出ると、真夏のような熱気が押し寄せてきた。
「暑いね」
「夏休み初日からこれか」
「まだ今日、夏休みじゃないよ」
「気分はもう夏休みだろ」
「それはそうかも」
林が笑う。
俺たちはいつもの道を歩いた。
「夏祭り、みんなで行くんだね」
「名取から聞いた?」
「うん」
「林も来るんだろ?」
「行くよ。約束したから」
その言葉で、また病院でのやり取りを思い出した。
「矢城くんも、ちゃんと来てね」
「行くって。もう普通に歩けるし」
「走るのは?」
「もうちょっと」
「じゃあ、祭りで走らないでね」
「祭りで走る予定ないよ」
「何があるか分からないでしょ?」
「父さんみたいなこと言い出したな」
「ふふっ」
笑いながら歩いていると、少し先に自動販売機が見えた。
「何か飲む?」
「え?」
「暑いし」
「うん」
二人で自動販売機の前に止まる。
俺が財布を出していると、林が先に小銭を入れた。
「何飲む?」
「いや、自分で買うよ」
「お見舞いの続き」
「もう退院したけど」
「じゃあ退院祝い」
「父さんみたいにクラッカー鳴らさない?」
「何それ?」
「こっちの話」
林は不思議そうにしながらも笑っている。
「じゃあ、スポーツドリンク」
「はい」
ボタンを押すと、ガコン、と音を立ててペットボトルが落ちてきた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
近くの日陰へ移動して、二人で飲み物を飲む。
蝉の声がうるさい。
車が何台か目の前を通っていく。
別に特別な場所じゃない。
いつもの帰り道の途中だ。
なのに、今日は妙にこの時間が心地よかった。
「林」
「ん?」
「夏祭りさ」
「うん」
そこまで言って、言葉に詰まった。
何を言おうとしたんだ、俺。
みんなで行く。
それは分かっている。
でも、なぜかそれだけでは少し物足りないような気がした。
「……何?」
「いや、その……」
林が俺を見る。
堀井に言われた言葉が頭をよぎる。
『お前、林のこと好きなの?』
違う、と即答できなかった。
今も答えは分からない。
それでも、今ここで言いたいことだけは何となく分かった。
「祭り、みんなで行くだろ?」
「うん」
「その……途中でさ」
心臓が少し速くなる。
「二人でも、ちょっと回らない?」
言った。
言ってから、自分で恥ずかしくなった。
何だこれ。
ほとんどデートに誘ってるみたいじゃないか。
林は一瞬、目を丸くした。
「……二人で?」
「いや、嫌なら全然いいんだけど。みんなで行くのはもちろんそのままで、ちょっと屋台見るとか……そのくらい」
自分でも分かるくらい言い訳が増えていく。
格好悪い。
もっと普通に言えばいいのに。
林はしばらく黙っていた。
やっぱり変だったか。
そう思った時。
「……うん」
「え?」
「回りたい」
林は少し俯きながら答えた。
耳が赤くなっている。
「本当?」
「うん。でも……」
「でも?」
「矢城くんから言ったんだから、途中でやっぱりなしとか駄目だからね」
「言わないよ」
「本当に?」
「本当」
「約束?」
「約束」
林が顔を上げた。
目が合う。
どちらからともなく、少し笑った。
その瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。
前の人生では、夏休みなんてただ学校へ行かなくていい期間だった。
誰かと会う約束もなく、楽しみに待つ日なんてほとんどなかった。
でも今は違う。
夏祭りの日が来るのが待ち遠しい。
みんなと行くから。
それももちろんある。
でも、それだけじゃない。
林と二人で歩ける時間がある。
そのことを考えただけで、自然と気持ちが浮き立っている。
もしかしたら。
堀井に聞かれた質問の答えを、俺はもう半分くらい分かっているのかもしれなかった。




