第45話 いつもの教室へ
翌日、俺は退院した。
煙を吸った影響も大きな問題はなく、体に残っているのは打撲による痛みが中心らしい。ただし、しばらく激しい運動は禁止で、バスケ部への復帰も体調を見ながらになると言われた。
病院を出た瞬間、夏の日差しと熱気が一気に押し寄せてきて、思わず顔をしかめる。
「暑っ……」
「病院の中が涼しかったから、余計に暑く感じるのよ」
隣を歩いていた母さんが、日差しを避けるように手を額へかざす。
「学校は?」
「今日はまだ休校。明日から再開だって」
「じゃあ、明日は行っていいんだよね?」
「先生は無理しなければいいって言ってたけど、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
そう答えた瞬間、母さんの目が少し細くなった。昨日から俺が何度も使っている言葉だから、もう信用されていないらしい。
「体育と部活は禁止。走らない。それから、しんどくなったらすぐ先生に言うこと」
「分かってるって」
「あと、窓から飛ばない」
「それはもういいだろ。学校生活で普通そこ注意されないから」
「勇真の場合は必要でしょ」
母さんはそう言って笑った。
昨日までの張り詰めた表情は、もうほとんど残っていない。それでも駐車場へ向かう途中、母さんは何度か俺の歩き方を横目で確認していた。
やっぱり、相当心配させたらしい。
家に帰れば、今度は父さんから何を言われるのか。そんなことを考えながら、俺は母さんと一緒に車へ向かった。
◇
「退院おめでとう!」
家に入った瞬間、パンッ、と目の前でクラッカーが鳴った。
「うわっ!」
反射的に肩をすくめたせいで背中に痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「痛っ!」
「あっ、ごめん!」
「何してんの、あなた!」
すぐ後ろから母さんの怒声が飛んだ。
玄関には、クラッカーを持った父さんが気まずそうな顔で立っている。
「いや、退院祝いをだな……」
「病院から帰ってきたばっかりの子を驚かせてどうするの!」
「俺も今、失敗したと思ってる」
「遅いわよ!」
昨日、病室であれだけ真剣な顔をしていた父さんはどこへ行ったんだ。
そう思いながらも、いつもの調子に戻った父さんを見ていると少し安心した。
「勇真、本当に大丈夫か?」
「背中ちょっと痛かった」
「すまん」
「珍しく素直だな」
「父さんも反省する時はする」
父さんはそう言いながら俺の荷物を受け取ると、今度はふざけることなく肩を軽く叩いた。
「まあ、とりあえず……おかえり」
「ただいま」
「もう飛ぶなよ」
「母さんにも言われた」
「じゃあ二度と飛ばないな」
「だから、そもそも普段飛ぶ機会ないって」
「人生、何があるか分からんぞ」
「今回で十分だよ」
父さんが笑い、俺もつられて笑った。
たった二日ほど家を空けただけなのに、自分の家が妙に懐かしい。病院ではずっと「大丈夫」と言っていたけれど、こうして帰ってきて初めて、本当に終わったんだという実感が湧いてきた。
◇
そして翌朝。
目を覚ますと、最初に見えたのは病院ではなく自分の部屋の天井だった。枕元のスマホへ手を伸ばして画面を確認すると、日付はまた一日進んでいる。
もう火事の前へ戻ることはない。そう分かっていても、目覚めるたびに日付を確認してしまうのは、これまで何度も同じ朝を経験してきたせいなのだろう。
制服に着替えて一階へ降り、いつものように朝食を食べていると、向かいに座った母さんが心配そうに俺を見る。
「本当に行くの?」
「行くよ」
「しんどくなったらすぐ先生に言うのよ。絶対だからね」
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい!」
「よろしい」
朝食を終えて玄関へ向かうと、今度は父さんが腕を組んで待っていた。
「勇真。今日の目標を発表する」
「何それ」
「普通に学校へ行って、普通に授業を受けて、普通に帰ってくる」
「小学生の目標みたいになってるけど」
「今のお前には重要だ。それと人命救助禁止」
「それは俺が決められないだろ」
「そこは決めろ!」
後ろにいた母さんが吹き出し、俺も笑いながら靴を履いた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人からほとんど同時に返事が返ってくる。
これまでなら何も考えなかったやり取りなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
ちゃんと帰ってくる。
誰かが自分の帰りを待っているなら、それも大事なことなんだろう。
◇
学校へ近づくにつれて、嫌でも火事のことを思い出した。
校門から見える校舎の一部にはまだ規制がかかっており、理科室のある辺りは使えないらしい。登校している生徒たちも、あちこちで火事について話していた。
「原因、やっぱ煙草らしいぞ」
「先輩がやったって聞いた」
「警察も来たんだろ?」
いろんな噂が飛び交っているものの、どこまで本当なのかは分からない。
俺はその会話には加わらず、そのまま教室へ向かった。
ところが扉の前まで来ると、なぜか少し緊張した。火事のあと初めて学校へ来たせいなのか、それとも昨日までみんなに心配され続けたせいなのか、自分でもよく分からない。
「……普通に入ればいいだろ」
誰に言うでもなく呟き、扉を開ける。
「おはよう」
その瞬間、さっきまで騒がしかった教室が一度静かになった。
「……え?」
何だ?
俺、教室間違えた?
そう思った直後、高石が勢いよく立ち上がった。
「矢城! 生きてる!」
「昨日も連絡しただろ」
「実物確認」
「何だよそれ」
その一言をきっかけに教室の空気が一気に動き、何人ものクラスメイトが俺の周りへ集まってきた。
「大丈夫なの?」
「もう学校来ていいの?」
「怪我どうだった?」
「マジで二階から飛んだの?」
「待って、待って! 一人ずつ!」
こんなに一気に話しかけられた経験なんてない。
どう返せばいいのか分からず困っていると、人の輪の向こうから成瀬の声が飛んできた。
「お前ら、病み上がり囲むなよ。矢城も、とりあえず座れ」
「助かる」
成瀬のおかげでようやく人の間を抜け、自分の席へ向かう。
「矢城くん」
声をかけられて顔を向けると、林がいた。
「おはよう」
「おはよう。体、大丈夫?」
「うん。まだちょっと痛いけど」
「無理しないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「もう」
林が困ったように笑う。
その笑顔を見た瞬間、昨日の病室で交わした指切りを思い出し、なぜか小指の辺りがむずむずした。
以前から林とはよく話していたし、一緒に帰ることも増えている。それなのに、昨日から何かが少し違っていた。
何が変わったのか自分でもうまく説明できない。ただ、林の顔を見ると前より意識してしまう。
「……何?」
「え?」
「さっきから見てるから」
「いや、何でもない」
「変なの」
慌てて視線を逸らしたものの、今度は自分の顔が熱くなっている気がしてくる。
何やってるんだ、俺。
◇
「はいはい、席つけー」
しばらくしてハマヤンが教室へ入ってきた。
「久しぶりの学校だな。休校だったからって、夏休みが早く来たと勘違いしてる奴はいないだろうな」
「先生、もう夏休みでよくない?」
誰かがそう言うと、ハマヤンは即座に首を横へ振った。
「よくない。先生だって休みたいんだから、勝手なこと言うな」
「先生も休みたいんじゃん」
教室に笑いが起きる。
ハマヤンもいつもの調子に戻っているように見えたが、そのあと表情を少し引き締めた。
「まず、火事についてだ。詳しい原因は現在調査中だが、学校から正式な発表があるまでは噂を広げないように。それと、火災が起きた理科室周辺は立ち入り禁止になっている。絶対に近づくな。授業の教室変更については、その都度連絡する」
教室が静かになる。
そこでハマヤンの視線が俺へ向いた。
嫌な予感がする。
「あと矢城。立て」
「何で?」
「いいから」
仕方なく立ち上がると、クラス中の視線が集まった。
「昨日も本人には言ったが、念のためみんなにも言っておく。矢城が火事を知らせて避難を呼びかけたこと、それから取り残された生徒を助けたこと。これは立派な行動だ」
褒められているはずなのに、妙に居心地が悪い。
しかもハマヤンの顔を見る限り、これで終わるわけがない。
「ただし、燃えている部屋に入ることまで真似するな」
案の定だった。
何人かが笑ったが、ハマヤンはすぐに「笑い事じゃないぞ」と続けた。
「今回は結果として二人とも助かった。でも、矢城まで倒れていた可能性は十分あった。本人も反省してるな?」
「昨日から何回も怒られました」
「じゃあ、もう一回反省しとけ」
「はい……」
今度は教室中から笑いが起き、俺も少しだけ笑った。
これでいい。
英雄みたいに扱われるより、こうやって少し笑われるくらいの方がずっと楽だった。
◇
休み時間になると、名取が俺の席へやってきた。
「矢城、本当にもう大丈夫?」
「名取もそれ聞くの?」
「だって昨日も大丈夫って言ってたじゃん。病院のベッドに寝ながら」
「実際、大丈夫だったし」
「病院のベッドに寝ながら言っても説得力ないよ」
「それは……そうか」
名取は呆れたように息を吐くと、俺の体を確認するように視線を向けた。
「部活は?」
「しばらく休み。見学ならいいって」
「ちゃんと休んだ方がいいよ」
「分かってる」
「本当に?」
「林にも同じこと言われた」
何気なく答えた瞬間、名取の表情がほんの少しだけ止まった。
「……林さん?」
「うん。みんなで来てくれた次の日も、一人で見舞いに来てくれたし」
「……そうなんだ」
声も笑顔もいつも通りだった。
それなのに、何となく空気が変わった気がして、俺は名取の顔を見る。
「名取?」
「何?」
「いや……何でもない」
「変な顔」
「名取に言われたくない」
「私、変な顔してないけど?」
「じゃあ俺もしてない」
「してるよ」
名取が笑う。
やっぱり、いつもの名取だ。
気のせいかと思っていると、少し離れた席から三島の声が飛んできた。
「名取。次の授業、移動教室。そろそろ行かないと遅れる」
「あ、ほんとだ。じゃあ行こっか、矢城」
「うん」
立ち上がろうとした瞬間、背中に鈍い痛みが走った。
「痛っ……」
「ほら!」
「いや、これは大丈夫」
「だから、その『大丈夫』が信用できないの!」
名取は俺の鞄をさっと持ち上げる。
「え、いいって。自分で持てるから」
「持つ」
「いや、自分で――」
「持つ」
「……はい」
有無を言わせない名取の横で、三島が小さくため息をついた。
「矢城、今は素直に持ってもらいなさい。怪我人が意地張る方が面倒だから」
「三島まで……」
「それと」
三島はそこで一度俺を見た。
「無事でよかったわ」
「……ありがとう」
「以上」
それだけ言うと、三島は何事もなかったように先に歩いていく。
「三島らしいな」
「ふふっ、そうだね」
名取が笑い、俺たちもそのあとを追った。
◇
昼休み、俺は堀井や高石と話していた。
「で、ジュース」
「何が?」
「お前、退院したら奢るって言っただろ」
「覚えてたの!?」
堀井が本気で驚いた顔をする。
「当然」
「命助かった人間がジュース一本を取り立てるなよ!」
「命とジュースは別だろ」
「じゃあ明日な!」
「今日じゃないの?」
「財布に小銭がない!」
「百円ちょいだぞ」
横で聞いていた高石が吹き出した。
俺も笑いながら、ふと教室を見回す。
「……平和だな」
「何だよ急に」
「いや、何となく」
本当にそう思った。
友達とくだらない話をして、少し離れたところでは栗原が笑い、清水が何かを言い返している。名取と浅井も話しているし、成瀬は別の男子に呼ばれていた。
火事が起きる前と同じ教室の風景。
もちろん、完全に同じではない。あの出来事は消えていないし、みんな覚えている。俺だって忘れることはない。
それでも、日常はこうして戻ってくる。
「矢城」
不意に声をかけられた。
「ん?」
振り返ると、清水が立っていた。
「ちょっといい?」
「珍しいな。清水から来るの」
「うるさい。ちょっとだけ」
いつもより少し真剣な表情をしている。
俺は堀井たちに断ってから、清水と一緒に教室の端へ移動した。
「何?」
清水はすぐには話さなかった。
何かを聞こうとして迷っているように見える。
「……あんたさ。怖くなかったの?」
何の話かは聞かなくても分かった。
「火事?」
「うん」
「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった」
即答すると、清水は少し驚いたように俺を見る。
「扉を開けた時、一回本気で入りたくないって思ったし。煙もすごかったし、理科室だから何が燃えてるのかも分からなかった」
「じゃあ、何で入ったの」
「中に人がいたから」
「それだけ?」
「それだけっていうか……先生が来るまで待とうとも思った。でも、あの子がそれまで大丈夫か分からなかったんだよ」
今思い返しても、あの時の判断が完全に正しかったとは言えない。
それでも、あの瞬間の俺には待つ方が怖かった。
「だから行った。それだけ」
清水は何も言わず俺を見ていた。
「何?」
「別に」
「清水から聞いたんだろ」
「分かってる」
少し苛立ったように返されたものの、その怒りが俺に向いているようには見えなかった。
やがて清水は視線を少し落とし、もう一度口を開いた。
「じゃあさ……もし、助けられなかったら?」
「え?」
「自分はちゃんと助けようとしたんだから、自分のせいじゃないって思う?」
さっきまでとは明らかに違う質問だった。
どうしてそんなことを聞くのか分からない。
「……何でそんなこと聞くの?」
「いいから」
清水の顔から、いつもの軽い雰囲気が消えていた。
適当に答えていい質問ではない気がして、俺は少し考えてから口を開く。
「分かんない」
「……何それ」
「だって、本当にそうなってたら自分がどう思うかなんて、今の俺には分からないし。でも、たぶん考えると思う。もっとできることなかったのかなって」
清水の表情がわずかに揺れた。
「自分のせいじゃなかったとしても?」
「それと後悔するかどうかは別じゃない?」
清水は黙ったままだった。
俺も、どう言えばいいのか考えながら続ける。
「もちろん、何でも自分のせいだって思い込むのも違うと思う。起きたことによるし、本当に自分に責任があるなら謝らないといけない。逆に責任がないなら、全部背負えばいいって話でもないと思う」
そこまで言ってから、少し迷った。
でも、今の俺が思っていることをそのまま言えばいい。
「ただ、その人が苦しんでるなら、『俺のせいじゃない』って言うだけで終わらせるのは……何か違う気がする」
清水が目を見開いた。
何か変なことを言っただろうか。
「清水?」
「……何よ、それ」
「え?」
「今さら……」
小さすぎて、最後まで聞き取れなかった。
「何?」
「何でもない!」
急に強い声を出すと、清水は俺から顔を背けた。
「え、ちょっと」
「もういい」
「何なんだよ」
「うるさい!」
そのまま栗原のところへ戻っていく。
俺はしばらくその背中を見送った。
「……マジで何だったんだ?」
清水が何を考えてあんな質問をしたのか、今の俺には分からない。
ただ、最後に見せたあいつの顔だけが、妙に頭から離れなかった。
◇
その日の放課後、俺はまだ部活に出られないため、そのまま帰ることになった。
校門を出て少し歩いたところで、後ろから聞き慣れた声がする。
「矢城くん!」
振り返ると、林が小走りで近づいてきた。
けれど途中で何かに気づいたように「あ」と声を漏らし、急に歩き出す。
「ごめん。走っちゃった」
「何で林が謝るの?」
「矢城くん走れないのに、私だけ走ったから」
「関係ないだろ」
「そう?」
「そう」
俺たちは自然に並んで歩き始めた。
いつもの帰り道のはずなのに、昨日病室で交わした約束のせいか、隣にいる林を以前より意識してしまう。
「もうすぐ夏休みだね」
「うん」
「夏祭り、行けそう?」
「行くよ。その頃にはさすがに治ってるって」
「本当に?」
「絶対」
そう答えると、円花が俺の顔をじっと見た。
「今度は嘘じゃない?」
「それ、ずっと言うつもり?」
「しばらくは」
「勘弁してよ」
円花が楽しそうに笑い、俺もつられて笑った。
火事があって、病院にも運ばれた。それでも夏休みは来るし、約束した夏祭りの日も近づいている。
俺の高校生活は止まっていない。
そう思いながら隣を歩く円花を見ると、ちょうど目が合った。
「何?」
「いや……」
まただ。
最近、林を見ると変な感じがする。病室で指切りをした時のことまで思い出してしまい、何でもないはずの帰り道なのに妙に落ち着かない。
「何でもない」
「またそれ?」
「本当に何でもないって」
「変な矢城くん」
円花はそう言って、少し楽しそうに笑った。
俺はその横顔から目を逸らし、前を向く。
今はまだ、この気持ちが何なのか自分でもよく分からない。
ただ、夏祭りへ行く約束をした時よりも、その日が来るのを楽しみにしている自分がいる。
そして、その理由の中心に林がいることだけは、もう何となく気づき始めていた。




