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『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない』~間違った選択をすると、また今日が始まる~  作者: ダイヤマ
第3章 正解のない選択

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第44話 ありがとうの重さ



 朝になっても、病室の景色は昨日とほとんど変わっていなかった。


 白い天井に白い壁。窓から差し込む夏の日差しと、廊下を行き交う看護師の足音。体を起こすと背中や肩に鈍い痛みが残っていて、昨日の出来事が夢ではなかったことを嫌でも実感させられる。


 そして何より、スマホの日付はちゃんと一日進んでいた。


 昨日は消えていない。


 俺が理科室へ入ったことも、窓から飛んだことも、みんなを心配させたことも、全部この世界に残っている。


 以前なら、日付が進んだことを確認した瞬間に「正解だった」と考えていたかもしれない。


 でも、今は少し違う。


 昨日の俺の行動が正しかったのかと聞かれても、簡単には答えられなかった。


 あの子を助けられたことはよかった。


 それでも、俺自身が危険な目に遭ったことまで正しかったとは思えない。


 たぶん、どちらも本当なんだ。


 それでいいのかもしれない。


「……腹減った」


 考えていたら、急に現実へ引き戻された。


 人間、どれだけ大変な目に遭っても腹は減るらしい。


 朝食が来るまでスマホでも見るかと画面を開いた瞬間、通知の数に目を疑った。


「……何これ」


 クラスのグループ。


 バスケ部。


 個別メッセージ。


 普段なら絶対に来ない量の通知が並んでいる。


 最初に目に入ったのは高石だった。


『生きてるか』


 その数分後。


『返事しろ』


 さらに。


『寝てるなら起きろ』


「無茶言うなよ……」


 入院してる人間に何を求めてるんだ。


『生きてる』


 それだけ返すと、ほとんど間を置かず既読がついた。


『ならいい』


「何なんだよ」


 思わず笑った。


 堀井からも来ていた。


『昨日マジでビビった。退院したらジュース奢る』


 何で俺が助けた側なのにジュース一本なんだと思ったけれど、堀井らしい気もする。


 成瀬からは少し長かった。


『体調どうだ? 昨日の女子も無事だって先生から聞いた。マットのことは気にするな。みんな自分で手伝ってくれたから』


 最後の一文で、指が止まった。


 みんな自分で手伝ってくれた。


「……そっか」


 俺が頼んだのは成瀬と高石だ。


 でも、あの大きなマットを二人だけで運べるわけがない。


 成瀬たちは途中で他の生徒に声をかけた。


 そして、そいつらも自分で判断して手伝った。


 昨日の避難も同じだった。


 俺が全部やったわけじゃない。


 名取も、成瀬も、高石も、清水も、他のみんなも、それぞれ自分で動いていた。


 少し前の俺なら、自分が未来を知っているからと全部を先回りしていた。


 でも昨日は違った。


 俺にできないことを成瀬に頼んだ。


 成瀬は高石や他の生徒と動いた。


 先生たちも、そのあとすぐに来た。


 誰か一人が全部やる必要なんてない。


『ありがとう。マジで助かった』


 そう返した。


 しばらくして成瀬から届いたのは、


『こっちの台詞だ』


 それだけだった。


     ◇


 昼前。


 診察を終えて病室へ戻ると、母さんが来ていた。


「勇真、先生なんて?」


「今のところ問題ないって。今日一日様子見て、何もなかったら退院できるかもって」


「そう。よかった」


 母さんは安心したように笑ったあと、すぐに俺の顔をじっと見る。


「何?」


「いやあ、本当にこの子、昨日二階から飛んだのよねって」


「やめて。俺も思い出すと怖いから」


「じゃあ次から飛ばないで」


「努力します」


「そこは『もうしません』でしょ」


「父さんにも似たようなこと言われた」


「親の気持ちを何だと思ってるの」


 そう言いながらも、母さんの表情は昨日よりずっと柔らかかった。


 俺も少し安心していると、病室の扉がノックされた。


「はい」


 母さんが返事をする。


 扉が開き、知らない男女が入ってきた。


 四十代くらいだろうか。


 二人とも緊張したような顔をしていて、女性の方は俺を見るなり目を赤くした。


「……矢城君、ですか?」


「はい」


 誰だ?


 俺が母さんを見ると、母さんも知らないらしく首を横に振った。


 男性が深く頭を下げる。


「昨日、理科室にいた娘の父です」


「……あ」


 そこでようやく分かった。


 二人は、俺が助けた女子生徒の両親だった。


「娘を助けていただいて、本当に……本当にありがとうございました」


 二人が揃って頭を下げる。


「いや、ちょっと待ってください」


 慌てて体を起こそうとして、背中に痛みが走った。


「痛っ……」


「勇真、無理に起きない」


 母さんに止められる。


「でも……」


 どうすればいいんだ、これ。


 俺はただ、あの時やるしかないと思ったからやっただけだ。


 こんなふうに頭を下げられることなんて想像していなかった。


「顔を上げてください」


 ようやくそれだけ言うと、二人はゆっくり顔を上げた。


 母親の目には涙が浮かんでいる。


「娘からも、意識が戻ってから少し話を聞きました。まだ本人はここへ来られる状態ではないんですけど……」


「大丈夫なんですか?」


 反射的に聞いた。


「はい。先生からも、もう命に関わる状態ではないと言われています」


「……よかった」


 昨日から何度この言葉を口にしただろう。


 でも、何度聞いても安心する。


 父親が俺を見つめる。


「あなたが助けに入ってくれなければ、どうなっていたか分からないと聞きました」


「いや……」


 違う。


 俺一人じゃない。


「俺だけじゃないです」


「え?」


「火事に気づいたあと、みんな避難を手伝ってました。俺が窓から出られたのも、友達がマットを運んでくれたからで……先生たちもすぐ来てくれたし」


 うまく説明できているか分からない。


 それでも、俺一人だけに感謝されるのは何か違う気がした。


「だから、その……俺だけじゃないです」


 二人は少し驚いたように俺を見ていた。


 やがて父親が、もう一度頭を下げる。


「それでも、娘のところまで行ってくれたのは君です」


「……」


「本当にありがとう」


 今度は何も言えなかった。


 ありがとう。


 たった五文字なのに、思っていたよりずっと重い。


「……はい」


 結局、俺に言えたのはそれだけだった。


     ◇


 二人が帰ったあと、俺はしばらく黙っていた。


 母さんも何も言わない。


「……何か変な感じ」


 先に口を開いたのは俺だった。


「何が?」


「俺、感謝されたくてやったわけじゃないし」


「うん」


「ヒーローになりたかったわけでもない」


「うん」


「なのに、あんなふうに頭下げられると……何て言えばいいか分からん」


 母さんは少し考えてから笑った。


「別に、何も言わなくていいんじゃない?」


「そうなの?」


「ありがとうって言われたら、受け取っとけばいいのよ」


「受け取る?」


「相手が言いたくて言ってるんだから。勇真が『そんな大したことしてません』って全部返しちゃったら、あの人たちも困るでしょ」


「……なるほど」


「でも、調子には乗らない」


「乗ってないよ」


「『俺、学校救っちゃったわ』とか言い出したら叩くから」


「言わないって」


「ならよし」


 母さんは満足そうに頷いた。


 簡単な話なのかもしれない。


 俺がどういうつもりだったかと、相手がどう感じたかは別だ。


 俺が感謝されるために助けたんじゃなくても、助けられた人が感謝するのは、その人の気持ちだ。


 それまで俺が決めることじゃない。


「……何か最近、そればっかだな」


「何が?」


「人のことは人が決めるっていうか」


「当たり前じゃない」


「ですよね」


 母さんからすれば、何を今さらという話なんだろう。


 でも俺にとっては、その当たり前を覚えるのに随分時間がかかっていた。


     ◇


 午後になって、母さんが一度家へ戻った。


 一人になった俺は、ベッドの上でぼんやりスマホを眺めていた。


 クラスのグループには、学校から連絡が来たとか、火事の原因は何だったんだとか、いろいろな話が流れている。


 その中には当然、噂も混じっていた。


『上級生がタバコ吸ってたらしい』


『三年じゃね?』


『停学とかじゃ済まんやろ』


 まだ何も発表されていない。


 俺は画面を閉じた。


 昨日、ハマヤンに話した。


 俺が見たことは、それだけだ。


 あとは学校や警察が調べる。


 俺が噂に加わる必要はない。


 スマホを枕元へ置いたところで、病室の扉が控えめにノックされた。


「はい」


 返事をすると、少しだけ扉が開く。


「……入っても大丈夫?」


「林?」


 顔を覗かせたのは円花だった。


 昨日もみんなと一緒に来ていたのに、今日は一人だ。


「どうしたの?」


「その……お見舞い」


「昨日来てくれたじゃん」


「昨日はみんないたから」


「ああ……」


「迷惑だった?」


「いや、全然。入って」


 円花が病室へ入ってくる。


 手には小さな袋を持っていた。


「これ」


「何?」


「ゼリー。病院だから、食べられるか分からないけど」


「ありがとう」


「食べちゃ駄目だったら持って帰って」


「そこまで?」


「だって怒られたら嫌だし」


「じゃあ看護師さんに聞くよ」


「うん」


 円花が椅子に座る。


 二人きりになった途端、妙に静かになった。


 普段なら一緒に帰ることもある。


 二人で話すことだって珍しくない。


 なのに今日は、いつもと空気が違った。


「……昨日、ごめん」


 俺から言った。


 円花が顔を上げる。


「何が?」


「先に行ってって言った時。俺もすぐ行くって言っただろ」


「……うん」


「あの時は、林を逃がすことしか考えてなかった。だから……結果的に嘘ついた」


 円花は何も言わない。


「怖がらせて、ごめん」


 しばらく沈黙が続いた。


 それから円花が、小さく息を吐く。


「……怒ってるよ」


「うん」


「すごく怒ってる」


「はい」


「昨日、全然眠れなかったし」


「……ごめん」


「窓から飛ぶところ、何回も思い出した」


 円花の声が少し震えた。


 俺は言葉を挟めなかった。


「矢城くんがあの子を助けたことは、すごいと思う。私だったら、怖くて何もできなかったかもしれない」


「俺も怖かったよ」


「うん。でも行ったでしょ」


「……うん」


「だから、助かってよかったって思ってる。あの子も、矢城くんも」


 そこで円花は一度俯いた。


「でも、それと怖かったのは別だから」


 父さんの言葉が頭に浮かんだ。


 人を助けたこと。


 周りを怖がらせたこと。


 どちらか片方だけが本当なんじゃない。


 両方、本当なんだ。


「……うん」


 今度は言い訳をしなかった。


「本当にごめん」


「もういい」


「許してくれる?」


「まだちょっと怒ってる」


「じゃあ、どうしたら許してくれる?」


 軽い気持ちで聞いた。


 円花は少し考える。


 そして。


「夏祭り」


「え?」


「約束したでしょ」


「ああ」


「ちゃんと来て」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「退院して、ちゃんと元気になって」


 円花が俺を見る。


「それで、一緒に行って」


「……うん」


「絶対?」


「絶対」


「今度は嘘つかない?」


 胸に刺さった。


「それ言う?」


「言う」


 円花が少しだけ笑った。


 俺も笑う。


「分かった。今度は嘘つかない」


「約束ね」


「約束」


 その瞬間。


 円花が小指を出した。


「え?」


「約束だから」


「指切り?」


「……嫌ならいいけど」


「いや、する」


 俺も小指を出す。


 触れる。


 ただそれだけなのに、妙に緊張した。


 円花の指は細くて、少し冷たかった。


「……絶対だよ」


「うん」


 すぐに離れると思っていた。


 でも円花は、ほんの少しだけ長く指を絡めたままだった。


 俺も、なぜか自分から離せなかった。


 昨日、窓から飛んだ時とは全然違う意味で、心臓が速くなる。


 やがて円花の方から、そっと指を離した。


「じゃあ、私帰るね」


「もう?」


「病人は休まないと」


「まだ病人扱いされるほどでもないんだけど」


「入院してる人が言わないの」


 円花が立ち上がる。


 扉の前まで行ったところで、一度振り返った。


「矢城くん」


「ん?」


「……無事で、本当によかった」


 今度は笑っていた。


「うん。ありがとう」


 扉が閉まる。


 一人になった病室で、俺は自分の右手を見る。


 さっきまで円花の小指が触れていた。


「……何だこれ」


 頬が少し熱い。


 火事のせいじゃない。


 そんなことくらい、俺にも分かった。


 夏祭り。


 少し前までは、みんなで遊びに行く予定の一つだった。


 なのに今は。


 その日が来るのが、前よりずっと楽しみになっていた。



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