第44話 ありがとうの重さ
朝になっても、病室の景色は昨日とほとんど変わっていなかった。
白い天井に白い壁。窓から差し込む夏の日差しと、廊下を行き交う看護師の足音。体を起こすと背中や肩に鈍い痛みが残っていて、昨日の出来事が夢ではなかったことを嫌でも実感させられる。
そして何より、スマホの日付はちゃんと一日進んでいた。
昨日は消えていない。
俺が理科室へ入ったことも、窓から飛んだことも、みんなを心配させたことも、全部この世界に残っている。
以前なら、日付が進んだことを確認した瞬間に「正解だった」と考えていたかもしれない。
でも、今は少し違う。
昨日の俺の行動が正しかったのかと聞かれても、簡単には答えられなかった。
あの子を助けられたことはよかった。
それでも、俺自身が危険な目に遭ったことまで正しかったとは思えない。
たぶん、どちらも本当なんだ。
それでいいのかもしれない。
「……腹減った」
考えていたら、急に現実へ引き戻された。
人間、どれだけ大変な目に遭っても腹は減るらしい。
朝食が来るまでスマホでも見るかと画面を開いた瞬間、通知の数に目を疑った。
「……何これ」
クラスのグループ。
バスケ部。
個別メッセージ。
普段なら絶対に来ない量の通知が並んでいる。
最初に目に入ったのは高石だった。
『生きてるか』
その数分後。
『返事しろ』
さらに。
『寝てるなら起きろ』
「無茶言うなよ……」
入院してる人間に何を求めてるんだ。
『生きてる』
それだけ返すと、ほとんど間を置かず既読がついた。
『ならいい』
「何なんだよ」
思わず笑った。
堀井からも来ていた。
『昨日マジでビビった。退院したらジュース奢る』
何で俺が助けた側なのにジュース一本なんだと思ったけれど、堀井らしい気もする。
成瀬からは少し長かった。
『体調どうだ? 昨日の女子も無事だって先生から聞いた。マットのことは気にするな。みんな自分で手伝ってくれたから』
最後の一文で、指が止まった。
みんな自分で手伝ってくれた。
「……そっか」
俺が頼んだのは成瀬と高石だ。
でも、あの大きなマットを二人だけで運べるわけがない。
成瀬たちは途中で他の生徒に声をかけた。
そして、そいつらも自分で判断して手伝った。
昨日の避難も同じだった。
俺が全部やったわけじゃない。
名取も、成瀬も、高石も、清水も、他のみんなも、それぞれ自分で動いていた。
少し前の俺なら、自分が未来を知っているからと全部を先回りしていた。
でも昨日は違った。
俺にできないことを成瀬に頼んだ。
成瀬は高石や他の生徒と動いた。
先生たちも、そのあとすぐに来た。
誰か一人が全部やる必要なんてない。
『ありがとう。マジで助かった』
そう返した。
しばらくして成瀬から届いたのは、
『こっちの台詞だ』
それだけだった。
◇
昼前。
診察を終えて病室へ戻ると、母さんが来ていた。
「勇真、先生なんて?」
「今のところ問題ないって。今日一日様子見て、何もなかったら退院できるかもって」
「そう。よかった」
母さんは安心したように笑ったあと、すぐに俺の顔をじっと見る。
「何?」
「いやあ、本当にこの子、昨日二階から飛んだのよねって」
「やめて。俺も思い出すと怖いから」
「じゃあ次から飛ばないで」
「努力します」
「そこは『もうしません』でしょ」
「父さんにも似たようなこと言われた」
「親の気持ちを何だと思ってるの」
そう言いながらも、母さんの表情は昨日よりずっと柔らかかった。
俺も少し安心していると、病室の扉がノックされた。
「はい」
母さんが返事をする。
扉が開き、知らない男女が入ってきた。
四十代くらいだろうか。
二人とも緊張したような顔をしていて、女性の方は俺を見るなり目を赤くした。
「……矢城君、ですか?」
「はい」
誰だ?
俺が母さんを見ると、母さんも知らないらしく首を横に振った。
男性が深く頭を下げる。
「昨日、理科室にいた娘の父です」
「……あ」
そこでようやく分かった。
二人は、俺が助けた女子生徒の両親だった。
「娘を助けていただいて、本当に……本当にありがとうございました」
二人が揃って頭を下げる。
「いや、ちょっと待ってください」
慌てて体を起こそうとして、背中に痛みが走った。
「痛っ……」
「勇真、無理に起きない」
母さんに止められる。
「でも……」
どうすればいいんだ、これ。
俺はただ、あの時やるしかないと思ったからやっただけだ。
こんなふうに頭を下げられることなんて想像していなかった。
「顔を上げてください」
ようやくそれだけ言うと、二人はゆっくり顔を上げた。
母親の目には涙が浮かんでいる。
「娘からも、意識が戻ってから少し話を聞きました。まだ本人はここへ来られる状態ではないんですけど……」
「大丈夫なんですか?」
反射的に聞いた。
「はい。先生からも、もう命に関わる状態ではないと言われています」
「……よかった」
昨日から何度この言葉を口にしただろう。
でも、何度聞いても安心する。
父親が俺を見つめる。
「あなたが助けに入ってくれなければ、どうなっていたか分からないと聞きました」
「いや……」
違う。
俺一人じゃない。
「俺だけじゃないです」
「え?」
「火事に気づいたあと、みんな避難を手伝ってました。俺が窓から出られたのも、友達がマットを運んでくれたからで……先生たちもすぐ来てくれたし」
うまく説明できているか分からない。
それでも、俺一人だけに感謝されるのは何か違う気がした。
「だから、その……俺だけじゃないです」
二人は少し驚いたように俺を見ていた。
やがて父親が、もう一度頭を下げる。
「それでも、娘のところまで行ってくれたのは君です」
「……」
「本当にありがとう」
今度は何も言えなかった。
ありがとう。
たった五文字なのに、思っていたよりずっと重い。
「……はい」
結局、俺に言えたのはそれだけだった。
◇
二人が帰ったあと、俺はしばらく黙っていた。
母さんも何も言わない。
「……何か変な感じ」
先に口を開いたのは俺だった。
「何が?」
「俺、感謝されたくてやったわけじゃないし」
「うん」
「ヒーローになりたかったわけでもない」
「うん」
「なのに、あんなふうに頭下げられると……何て言えばいいか分からん」
母さんは少し考えてから笑った。
「別に、何も言わなくていいんじゃない?」
「そうなの?」
「ありがとうって言われたら、受け取っとけばいいのよ」
「受け取る?」
「相手が言いたくて言ってるんだから。勇真が『そんな大したことしてません』って全部返しちゃったら、あの人たちも困るでしょ」
「……なるほど」
「でも、調子には乗らない」
「乗ってないよ」
「『俺、学校救っちゃったわ』とか言い出したら叩くから」
「言わないって」
「ならよし」
母さんは満足そうに頷いた。
簡単な話なのかもしれない。
俺がどういうつもりだったかと、相手がどう感じたかは別だ。
俺が感謝されるために助けたんじゃなくても、助けられた人が感謝するのは、その人の気持ちだ。
それまで俺が決めることじゃない。
「……何か最近、そればっかだな」
「何が?」
「人のことは人が決めるっていうか」
「当たり前じゃない」
「ですよね」
母さんからすれば、何を今さらという話なんだろう。
でも俺にとっては、その当たり前を覚えるのに随分時間がかかっていた。
◇
午後になって、母さんが一度家へ戻った。
一人になった俺は、ベッドの上でぼんやりスマホを眺めていた。
クラスのグループには、学校から連絡が来たとか、火事の原因は何だったんだとか、いろいろな話が流れている。
その中には当然、噂も混じっていた。
『上級生がタバコ吸ってたらしい』
『三年じゃね?』
『停学とかじゃ済まんやろ』
まだ何も発表されていない。
俺は画面を閉じた。
昨日、ハマヤンに話した。
俺が見たことは、それだけだ。
あとは学校や警察が調べる。
俺が噂に加わる必要はない。
スマホを枕元へ置いたところで、病室の扉が控えめにノックされた。
「はい」
返事をすると、少しだけ扉が開く。
「……入っても大丈夫?」
「林?」
顔を覗かせたのは円花だった。
昨日もみんなと一緒に来ていたのに、今日は一人だ。
「どうしたの?」
「その……お見舞い」
「昨日来てくれたじゃん」
「昨日はみんないたから」
「ああ……」
「迷惑だった?」
「いや、全然。入って」
円花が病室へ入ってくる。
手には小さな袋を持っていた。
「これ」
「何?」
「ゼリー。病院だから、食べられるか分からないけど」
「ありがとう」
「食べちゃ駄目だったら持って帰って」
「そこまで?」
「だって怒られたら嫌だし」
「じゃあ看護師さんに聞くよ」
「うん」
円花が椅子に座る。
二人きりになった途端、妙に静かになった。
普段なら一緒に帰ることもある。
二人で話すことだって珍しくない。
なのに今日は、いつもと空気が違った。
「……昨日、ごめん」
俺から言った。
円花が顔を上げる。
「何が?」
「先に行ってって言った時。俺もすぐ行くって言っただろ」
「……うん」
「あの時は、林を逃がすことしか考えてなかった。だから……結果的に嘘ついた」
円花は何も言わない。
「怖がらせて、ごめん」
しばらく沈黙が続いた。
それから円花が、小さく息を吐く。
「……怒ってるよ」
「うん」
「すごく怒ってる」
「はい」
「昨日、全然眠れなかったし」
「……ごめん」
「窓から飛ぶところ、何回も思い出した」
円花の声が少し震えた。
俺は言葉を挟めなかった。
「矢城くんがあの子を助けたことは、すごいと思う。私だったら、怖くて何もできなかったかもしれない」
「俺も怖かったよ」
「うん。でも行ったでしょ」
「……うん」
「だから、助かってよかったって思ってる。あの子も、矢城くんも」
そこで円花は一度俯いた。
「でも、それと怖かったのは別だから」
父さんの言葉が頭に浮かんだ。
人を助けたこと。
周りを怖がらせたこと。
どちらか片方だけが本当なんじゃない。
両方、本当なんだ。
「……うん」
今度は言い訳をしなかった。
「本当にごめん」
「もういい」
「許してくれる?」
「まだちょっと怒ってる」
「じゃあ、どうしたら許してくれる?」
軽い気持ちで聞いた。
円花は少し考える。
そして。
「夏祭り」
「え?」
「約束したでしょ」
「ああ」
「ちゃんと来て」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「退院して、ちゃんと元気になって」
円花が俺を見る。
「それで、一緒に行って」
「……うん」
「絶対?」
「絶対」
「今度は嘘つかない?」
胸に刺さった。
「それ言う?」
「言う」
円花が少しだけ笑った。
俺も笑う。
「分かった。今度は嘘つかない」
「約束ね」
「約束」
その瞬間。
円花が小指を出した。
「え?」
「約束だから」
「指切り?」
「……嫌ならいいけど」
「いや、する」
俺も小指を出す。
触れる。
ただそれだけなのに、妙に緊張した。
円花の指は細くて、少し冷たかった。
「……絶対だよ」
「うん」
すぐに離れると思っていた。
でも円花は、ほんの少しだけ長く指を絡めたままだった。
俺も、なぜか自分から離せなかった。
昨日、窓から飛んだ時とは全然違う意味で、心臓が速くなる。
やがて円花の方から、そっと指を離した。
「じゃあ、私帰るね」
「もう?」
「病人は休まないと」
「まだ病人扱いされるほどでもないんだけど」
「入院してる人が言わないの」
円花が立ち上がる。
扉の前まで行ったところで、一度振り返った。
「矢城くん」
「ん?」
「……無事で、本当によかった」
今度は笑っていた。
「うん。ありがとう」
扉が閉まる。
一人になった病室で、俺は自分の右手を見る。
さっきまで円花の小指が触れていた。
「……何だこれ」
頬が少し熱い。
火事のせいじゃない。
そんなことくらい、俺にも分かった。
夏祭り。
少し前までは、みんなで遊びに行く予定の一つだった。
なのに今は。
その日が来るのが、前よりずっと楽しみになっていた。




