第43話 消えない一日
みんなが帰ったあと、病室は急に静かになった。
少し前まで成瀬や高石の声が響いていたせいか、余計にそう感じる。
窓の外は、いつの間にか夕方になっていた。薄いオレンジ色の光が病室へ差し込み、白い壁をぼんやりと染めている。
「疲れた?」
母さんが椅子に座りながら聞いてきた。
「ちょっと」
「そりゃそうよ。あれだけ一気に来たらね」
「母さんが入れたんじゃん」
「まさか全員来ると思わないでしょ。お見舞いって普通、もうちょっと人数考えるものよ」
「追い返せばよかったのに」
「できるわけないでしょ。みんな、あんたの顔見るまで帰りそうになかったんだから」
「……そっか」
何気なく返したあと、その言葉が少し遅れて胸に残った。
俺の顔を見るまで帰りそうになかった。
成瀬も、高石も、堀井も。
名取も、林も。
清水たちも。
前の人生では、俺が学校を休んだところで、こんなふうに大勢が心配して病院まで来ることなんてなかった。
そもそも、休んだことに気づく人間がどれだけいただろう。
「……変わったな」
「何が?」
「いや、何でもない」
「そう?」
母さんは不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞いてこなかった。
俺は枕に頭を預けたまま、さっきまでみんながいた場所を見る。
特に、林の言葉が残っていた。
『矢城くん、『俺もすぐ行く』って言った』
『私、だから先に行ったのに』
あの時は、林を避難させることしか考えていなかった。
嘘をつこうと思ったわけじゃない。
でも結果として、俺は林に嘘をついた。
そして、あいつを怖がらせた。
父さんから言われたことも同じだ。
誰かを助ける。
それだけを見れば、間違ったことをしたとは思わない。
もし同じ状況になったとして、何もせずに待てたかと聞かれれば、おそらく無理だ。
それでも、自分が危険なことをすれば、自分だけで終わるわけじゃない。
心配する人がいる。
怖がる人がいる。
それを、今日初めて実感した気がした。
「……難しいな」
「だから何が?」
「母さん、まだ聞いてたの?」
「独り言が大きいのよ」
「ごめん」
母さんが笑った。
いつもの笑い方だった。
それを見て、少し安心する。
俺はもう一度、天井を見上げた。
勝ち組になりたい。
高校生活を変えたい。
友達を作って、部活もやって、恋愛だってして、前の人生とは違う自分になる。
それは今も変わらない。
でも最近、その「勝ち組」という言葉の意味が、少しずつ分からなくなってきていた。
テストで一番になることでもない。
何でも失敗せずにできることでもない。
全員から好かれることでもない。
じゃあ、何なんだろう。
まだ答えは出ない。
ただ、今日みたいなことまで「正解だった」「不正解だった」の二つに分けるのは、何か違う気がした。
◇
日が落ちた頃、病室を訪ねてきたのは学校の先生だった。
「失礼します」
「あ」
入ってきたのはハマヤンだった。
普段の教室では気の抜けた顔をしていることが多いのに、今日は妙に真面目な顔をしている。
「浜田先生」
母さんが立ち上がる。
「今日は本当に……」
「いえ。こちらこそ、学校でこのような事故が起きてしまい、申し訳ありませんでした」
ハマヤンは母さんへ深く頭を下げた。
その姿を見ていると、いつもの「ハマヤン」と呼ぶ空気じゃない。
「矢城」
「はい」
「体調は?」
「大丈夫です。今日は様子見るために泊まるだけみたいです」
「そうか」
ハマヤンは俺の顔をじっと見た。
それから椅子を一つ借り、ベッドのそばへ座る。
「まず」
「はい」
「助けた生徒は無事だ」
「……よかった」
「意識も戻っている。しばらく治療は必要だが、命に別状はないと聞いてる」
改めて先生の口から聞いて、胸の奥に残っていた不安が少し消えた。
「で、ここからは別の話だ」
声の調子が変わった。
嫌な予感がする。
「矢城」
「……はい」
「お前、馬鹿か?」
「先生?」
母さんが驚く。
「すみません、お母さん。でも担任として、これは言わせてください」
ハマヤンは俺から目を逸らさない。
「人を助けたことは立派だ。あの状況で動けたことも、俺には簡単にできるなんて言えない」
「……」
「でも、お前まで死んだら何にもならないだろ」
父さんとほとんど同じことを言われた。
思わず苦笑する。
「何笑ってる」
「いや……父さんにも同じこと言われたんで」
「じゃあ二回聞け」
「はい」
「三回でも聞け」
「はい……」
ハマヤンは大きく息を吐いた。
「火事を見つけて非常ベルを押した。生徒に避難するよう声をかけた。そこまではいい。むしろ、よくやった」
そこで一度言葉を切る。
「だが、燃えている理科室に入るのは別だ。しかも理科室だぞ。何があるかも分からない場所に、高校生が一人で入っていいわけがない」
「……はい」
「お前が窓から飛んだと聞いた時、俺は本気で血の気が引いた」
いつものハマヤンなら、最後に何か冗談を入れる。
でも今日はなかった。
「助かったから結果オーライ、にはするなよ」
その言葉が胸に残った。
「……はい」
「ただ」
ハマヤンの表情が少しだけ緩む。
「お前が先に窓から逃げる可能性まで考えて、成瀬たちにマットを運ばせたことは聞いた」
「あ……」
「何も考えずに突っ込んだわけじゃないことも分かってる」
ハマヤンは少し黙ったあと、俺の頭を軽く叩いた。
「だから余計に言ってるんだ。考えられる頭があるなら、自分の命も計算に入れろ」
「……分かりました」
「本当に分かったか?」
「たぶん」
「そこは『はい』って言えよ」
「いや、同じ状況になったら絶対行かないって約束はできないんで」
ハマヤンの眉が動いた。
怒られる。
そう思った。
けれど先生は、しばらく俺を見つめたあと、小さくため息をついた。
「……そういうところなんだろうな、お前は」
「え?」
「何でもない」
ハマヤンは椅子から立ち上がった。
「それと、もう一つ確認したいことがある」
さっきまでとは違う声だった。
「今日の火事が起きる前、何か気になることを見なかったか?」
来た。
俺は少しだけ姿勢を正した。
「……見ました」
「何を?」
「上級生三人が、理科室に入っていくところです」
ハマヤンの表情が変わった。
「何時頃だ?」
「昼休みが終わる少し前です」
「その三人、知ってる生徒か?」
「名前は知りません。でも、前にも何度か見てます」
「どこで?」
「校内です。この前は、三人で『バレそうだった』とか『次どこ行く』みたいな話をしてました」
ハマヤンは黙って聞いている。
「それと今日、理科室に入る前に『ここなら大丈夫』とか『昼休み誰も来ない』って話してました」
「……煙草を吸っていたところは見たか?」
「見てません」
すぐに答えた。
「火をつけたところも?」
「見てないです」
「じゃあ、お前が実際に見たのは?」
「その三人が理科室に入ったところまでです」
ハマヤンは数秒、俺を見つめた。
「……分かった」
「たぶん、あの三人が――」
そこまで言いかけて、やめた。
たぶん。
状況だけを考えれば、そう思う。
でも、俺は見ていない。
「いや」
言い直す。
「俺が見たのは、それだけです」
ハマヤンの目が少し細くなった。
「それでいい」
「え?」
「見たことと、自分がそう思ってることは別だ。学校側でも確認するし、必要なら警察にも話すことになる。矢城は見たことだけ話せばいい」
「……はい」
少し前の俺なら、もっと踏み込んでいたかもしれない。
あいつらが犯人だ。
煙草が原因だ。
そう決めつけて、自分で答えまで出そうとしていたかもしれない。
でも、それは俺が決めることじゃない。
俺が知らないところで何が起きたのかは、調べる人たちに任せればいい。
「じゃあ今日は休め」
ハマヤンが病室の出口へ向かう。
「あ、先生」
「ん?」
「学校、明日どうなるんですか?」
「そこ心配するのか?」
「いや、テスト終わったばっかだし」
「安心しろ。少なくとも明日は休校だ」
「マジですか」
「そこで嬉しそうな顔するな。火事のせいだからな」
「してないですよ」
「してた」
ようやく、少しだけいつものハマヤンに戻った。
「じゃあな、矢城」
「はい」
「……ちゃんと帰ってこいよ」
「え?」
「退院して学校に、だよ。変な意味に取るな」
「ああ……はい」
ハマヤンはそれだけ言って病室を出ていった。
閉まった扉を見ながら、俺は少しだけ首を傾げる。
変な言い方だな。
そう思ったけれど、すぐに気にするのをやめた。
◇
その夜。
消灯後の病室で、俺はなかなか眠れなかった。
体が痛いせいもある。
昼間のことが頭から離れないせいもある。
そして、もう一つ。
眠るのが、少し怖かった。
これまで何度も経験してきた感覚だった。
目を閉じる。
眠る。
そして朝になれば、その日の選択がどうだったのかが分かる。
今日、俺は燃えている理科室に入った。
命を危険にさらした。
林との約束も破った。
父さんと母さんを心配させた。
ハマヤンからも怒られた。
もし。
これが間違った選択だったら?
朝になったら、火事が起きる前へ戻っているんだろうか。
「……」
戻ったら。
どうする?
火事が起きることを知っている。
上級生が理科室へ入ることも。
あの女子生徒が中にいることも。
今度はもっと早く先生へ知らせればいい。
そもそも上級生を理科室へ行かせなければ、火事自体を防げるかもしれない。
今日より完璧にできる。
誰も怪我をしない一日に変えられる。
そこまで考えて。
「……違うな」
小さく呟いた。
また同じことを考えている。
未来を知っているから、全部自分で正しくしようとする。
少し前、それで失敗したばかりじゃないか。
そもそも、戻ると決まったわけでもない。
俺は目を閉じた。
今日のことが正しかったのか。
間違っていたのか。
今の俺には分からない。
助けた女子生徒は生きている。
でも、俺は周りの人を怖がらせた。
その両方が、本当だ。
どちらか一つだけを見て、今日を正解か不正解かに決めることなんてできない。
やがて眠気が強くなってきた。
何度経験しても、この瞬間だけは少し緊張する。
俺はそのまま、ゆっくりと意識を手放した。
◇
目を開ける。
最初に見えたのは、白い天井だった。
「……」
一瞬、何も考えられなかった。
それから体を動かそうとして、背中に鈍い痛みが走る。
「痛っ……」
病室。
昨日と同じベッド。
窓から朝の光が差し込んでいる。
枕元に置かれたスマホへ手を伸ばし、画面を見る。
日付は――進んでいた。
「……進んだ」
火事は消えていない。
俺が理科室へ入ったことも。
窓から飛んだことも。
林を怖がらせたことも。
父さんと母さんを心配させたことも。
全部、昨日の出来事として残っている。
それなのに。
今日が来た。
「そっか……」
胸の奥に、不思議な感覚が広がっていく。
今日の俺の行動が、全部正しかったからなのか。
それとも、そもそも正解とか不正解とか、そんな単純な話じゃないのか。
分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
昨日は消えなかった。
失敗も。
怖かったことも。
誰かを心配させたことも。
全部抱えたまま。
俺の人生は、また一日先へ進んだ。




