第42話 怒られる理由
「勇真!」
誰かに名前を呼ばれた。
聞き慣れた声だった。
けれど、すぐには誰なのか分からない。
重たいまぶたをゆっくり開くと、最初に目に入ったのは白い天井だった。
「……ここ……」
声を出した途端、喉にひりつくような痛みが走った。
「起きた!」
今度は、はっきり分かった。
母さんだ。
顔を横へ向けると、ベッドのそばに母さん――矢城七海が座っていた。いつもの明るい表情はどこにもなく、目元は少し赤くなっている。
「母さん……?」
「母さんじゃないわよ、もう……!」
怒っているような声なのに、途中から震えていた。
俺が何か言うより早く、母さんは俺の手を握った。
「どれだけ心配したと思ってるの」
「……ごめん」
「本当にね」
そう言いながら、母さんは俺の手を握ったまま離さなかった。
少しずつ記憶が戻ってくる。
非常ベル。
理科室。
倒れていた女子生徒。
煙。
窓。
下に運ばれてきたマット。
そして――飛んだ。
「……っ」
思い出した瞬間、体を起こそうとした。
「ちょっと、動かない!」
母さんに肩を押さえられる。
「待って、あの子は?」
「え?」
「理科室にいた子」
喉が痛むのも構わず聞いた。
「助かった?」
母さんは一瞬だけ俺を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「大丈夫だって。あなたより少し前に意識も戻ったそうよ」
「……そっか」
体から力が抜け、枕へ頭を戻した。
「よかった……」
本当に、それしか出てこなかった。
助かった。
あの子は生きている。
窓から飛んだ時も、意識を失う直前も、それだけが気になっていた。
母さんはそんな俺をしばらく見つめていたが、やがて困ったように眉を下げた。
「まったく……誰に似たのかしらね」
「母さんじゃない?」
「今だけは冗談言わないの」
「はい……」
素直に謝ると、母さんはまた深く息を吐いた。
その時。
「起きたか」
部屋の隅から低い声が聞こえた。
「……父さん?」
気づかなかった。
父さん――矢城進が、窓際の椅子に座っていた。
いつもの父さんなら、俺が目を覚ました瞬間に「いやあ、うちの息子は空も飛べるようになったか!」くらい言いそうなのに。
何も言わない。
笑ってもいない。
その顔を見た瞬間、なぜか胸の奥が痛くなった。
「父さん……」
「……」
父さんは立ち上がり、ゆっくりベッドの横まで来た。
そして俺の顔を見下ろす。
「覚えてるか?」
「何を?」
「この前、俺がお前に言ったこと」
すぐに分かった。
『人を助けるのはいいことだと思う。でもな……無茶だけはするなよ』
「……覚えてる」
「そうか」
父さんはそれだけ言って黙った。
怒鳴られると思った。
馬鹿野郎、と言われるかもしれない。
でも、父さんは何も言わなかった。
その沈黙の方が、ずっと怖かった。
「父さん……ごめん」
「何で謝る」
「だって……」
「助けに行ったことか?」
答えられなかった。
父さんは俺から視線を外し、しばらく床を見ていた。
「俺はな、勇真。お前が人を助けたことを怒ってるわけじゃない」
いつもの冗談交じりの声じゃなかった。
「目の前で人が倒れてて、誰もいなかった。お前なりに考えて、助けに行ったんだろ。それを全部間違いだったなんて、俺には言えない」
「……うん」
「でもな」
父さんが俺を見る。
「お前まで死んだら、何にもならないだろ」
言葉が出なかった。
「お前が助けた子にも家族がいる。だから助かって、本当によかった。俺だってそう思う」
父さんの声が、ほんの少し震えた。
「でも、お前にも家族がいるんだぞ」
「……」
「窓から飛んだって聞いた時、俺が何考えたと思う?」
分からない。
いや。
分かりたくなかった。
父さんは大きく息を吐くと、俺の頭に手を置いた。
「お前が死んだら、父さんも母さんも一生立ち直れない」
「……ごめん」
「だから、それを簡単に『ごめん』で済ませるな」
強い言葉だった。
でも、怒鳴ってはいない。
「次に同じようなことがあったら、ちゃんと考えろ。助けるなって言ってるんじゃない。自分が帰ってくる方法まで考えろ」
俺は少し黙った。
「……一応、考えたんだけどな」
「何を?」
「マット」
「……」
「廊下から出られなくなるかもしれないと思って、成瀬たちに先に運んでもらった」
父さんが固まった。
母さんも俺を見る。
「だから、その……何も考えずに飛び込んだわけじゃなくて」
「勇真」
「はい」
「それを聞いて少し安心した俺と、それでもお前をぶん殴りたい俺が今、心の中で喧嘩してる」
「殴るのはやめて」
「病人だから今日はやめとく」
「今日は?」
「元気になったら考える」
「やめてよ」
ようやく、父さんの口元が少しだけ緩んだ。
母さんが呆れたようにため息をつく。
「あなたも勇真も、こういう時まで何やってるの」
「いや、七海。こういう時だからこそだ」
「さっきまで一言も喋らなかったくせに」
「……それは言うな」
父さんが少し気まずそうに頭を掻いた。
いつもの父さんが、ほんの少し戻ってきた。
そのことに俺は安心した。
けれど同時に、さっきまで黙っていた父さんがどれほど心配していたのかも分かってしまった。
◇
その後、医師からも説明を受けた。
俺は煙を吸った影響もあってしばらく様子を見る必要があるらしく、今日はこのまま病院にいることになった。体のあちこちも痛むけれど、今のところ大きな怪我はないらしい。
理科室にいた女子生徒も治療を受けていて、意識は戻っている。
その話を聞くたび、胸の奥が軽くなった。
火事の原因については、まだ調べている最中だという。
あの三人の上級生のことが頭に浮かんだ。
理科室へ入っていった三人。
『ここなら大丈夫だろ』
『昼休み誰も来ねえって』
『鍵は?』
『開いてる』
そして、少し前から聞いていた校内での喫煙の噂。
偶然なのか?
いや。
さすがに、もう偶然とは思えなかった。
でも、俺が実際に見たのは三人が理科室へ入っていくところまでだ。
火をつけたところを見たわけじゃない。
ここで決めつけるのは違う。
聞かれたら、見たことだけを話そう。
それ以上は先生や警察が調べることだ。
そう考えていると、病室の外が急に騒がしくなった。
「ちょっと待ってください! 一気に入らないで!」
母さんの声だ。
その直後。
「矢城!」
扉が開いた。
「……成瀬?」
最初に入ってきたのは成瀬だった。
その後ろから高石、堀井、名取、林、清水、栗原まで顔を覗かせる。
「多くない?」
思わず言うと、高石が眉を吊り上げた。
「誰のせいだと思ってんだよ!」
「俺?」
「お前以外に誰がいるんだよ!」
いつもの高石だった。
少し笑いそうになったけれど、咳が出そうになってやめる。
「矢城、大丈夫なの?」
名取がベッドのそばまで来た。
「うん。大丈夫みたい」
「……そう」
名取は笑った。
でも、その笑顔はいつもより明らかに固かった。
「本当に?」
「え?」
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
「そうじゃなくて!」
珍しく強い声だった。
病室が静かになる。
名取自身も声が大きくなったことに気づいたのか、一瞬だけ目を伏せた。
「……窓から飛んだって聞いたんだよ」
「マットあったから」
「そういう問題じゃないでしょ」
「……はい」
何も言い返せない。
名取は少し唇を噛んでから、「でも」と小さく続けた。
「無事でよかった」
「……ありがと」
その隣で、林は何も言わなかった。
「林?」
声をかける。
ようやく顔を上げた。
目が赤い。
「……嘘ついた」
「え?」
「矢城くん、『俺もすぐ行く』って言った」
胸が詰まった。
「あ……」
「私、だから先に行ったのに」
「ごめん」
「ずっと待ってた」
責めるような言い方ではなかった。
だからこそ、余計に苦しくなる。
「ごめん、林」
「……怖かった」
円花の目に、また涙が浮かぶ。
「窓から飛んだ時、本当に……」
そこで言葉が止まった。
俺は何も言えなかった。
円花は泣きそうな顔のまま、それでも無理に笑おうとした。
「でも……よかった」
「……うん」
「本当に、よかった」
今度は俺から目を逸らさなかった。
その顔を見て、父さんの言葉を思い出す。
『お前にも家族がいるんだぞ』
家族だけじゃない。
俺が危ないことをすれば、心配する人がいる。
当たり前のことなのに。
前の人生の俺には、こんな光景を想像することすらできなかった。
◇
「で?」
少し離れたところから声がした。
見る。
清水だった。
「……何?」
「助けた子」
「え?」
「どうだったの?」
「ああ。意識戻ったって」
「……そう」
清水は短く答えた。
その表情が、いつもと少し違う気がした。
「よかった」
「うん」
「本当に……よかったね」
妙に静かな声だった。
俺は少し不思議に思いながらも頷いた。
「目覚めて最初にそれ聞いたよ」
「……何を?」
「あの子、助かったのかって」
清水の動きが止まった。
「俺、途中からほとんど覚えてなくてさ。起きたら病院だったから、気になって」
「……」
「清水?」
返事がない。
清水は俺を見ていた。
驚いているような。
怒っているような。
それとも、何か別のものを見ているような。
「……あんた」
「ん?」
清水が何かを言いかける。
でも、結局その言葉を飲み込んだ。
「……何でもない」
「何だよ」
「別に」
いつもの清水らしい返しだった。
でも。
その手は、制服のスカートを強く握っていた。
◇
――まただ。
清水千尋は、勇真から目を逸らした。
自分が煙を吸って倒れたのに。
二階から飛び降りたのに。
目を覚まして最初に確認したのが、自分の体じゃない。
助けた相手が無事だったかどうか。
胸の奥に、ずっと閉じ込めていた光景が一瞬だけ浮かびかける。
昔。
まだ今より幼かった矢城勇真。
必死な顔。
誰かを助けようとしていた姿。
そして――。
「……っ」
千尋は爪が食い込むほど手を握った。
思い出すな。
今は。
それ以上、思い出したくない。
なのに。
目の前の勇真と、記憶の中にいる勇真が重なってしまう。
あの頃とは違うと思っていた。
高校に入ってからのこいつは、自分の知っている矢城勇真とは違う。
そう思い始めていた。
でも。
違わないところもあった。
誰かが困っている時。
誰かが危険な時。
こいつは昔から――。
「清水?」
勇真の声で、千尋は我に返った。
「さっきからどうした?」
「……うるさい」
「えぇ……」
「病人は黙って寝てなさい」
「急に厳しくない?」
「うるさいって言ってるでしょ」
いつもの調子で言い返す。
それでいい。
今はまだ。
これ以上、考えたくない。
千尋は顔を背けた。
けれど胸の奥に浮かんだ疑問だけは、どうしても消えてくれなかった。
私は、本当に。
こいつのことを、ちゃんと知っていたんだろうか。




