第41話 助かったんだよな
窓枠を蹴った瞬間、足の裏から支えが消えた。
「――っ!」
体が宙に浮き、地面が一気に近づいてくる。
二階なんて大した高さじゃない。地上から見上げているだけなら、そう思ったかもしれない。
でも、実際に飛んでみれば全然違った。
怖い。
頭に浮かんだのは、それだけだった。
腕の中には、意識のない女子生徒がいる。自分の体がどうなるかよりも、この子だけは絶対に離すな、下にするなと、それだけを考えて強く抱きしめた。
「矢城!!」
下から誰かの叫び声が聞こえた直後――。
ドンッ!!
背中から強い衝撃が走り、肺の中の空気が一気に押し出された。
「ぐっ……!」
一瞬、何も考えられなくなる。
視界が揺れ、背中から全身へ鈍い痛みが広がった。
それでも、俺たちを受け止めたのは硬い地面じゃない。
マットだ。
「矢城!」
「大丈夫か!?」
「先生呼べ!」
「救急車!」
周囲からいくつもの声が飛んでくる。
体を起こそうとしたけれど、うまく力が入らない。背中も腕も痛いし、喉は焼けるように熱く、息をするたびに咳が込み上げてくる。
「ゲホッ……ゲホッ!」
「矢城、動くな!」
成瀬の声が聞こえた。
俺はそれでも顔を上げ、最初に腕の中を確認した。
「……あの子」
「え?」
「あの子……」
俺が抱えていた女子生徒へ、先生や周囲の生徒たちが駆け寄ってくる。
「矢城、もう離していい! 先生が見るから!」
「救急車は呼んである!」
「意識がないぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が強く鳴った。
「……息は」
「矢城、今は喋るな!」
「中では……息、してた……」
「分かった。こっちは先生に任せろ」
成瀬が俺の肩に手を置いた。
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ力が抜ける。
間に合った。
まだ無事だと決まったわけじゃない。それでも、少なくともあの理科室から連れ出すことはできた。
「よかっ――ゲホッ、ゲホッ!」
最後まで言えず、激しく咳き込んだ。
さっきより息がしづらい。頭の奥もぼんやりしていて、周りの音が少し遠く感じる。
「矢城?」
高石が俺の顔を覗き込んだ。
「おい、顔色悪くないか?」
「大丈夫……ちょっと煙吸っただけだから」
「ちょっとじゃねえだろ!」
高石が怒鳴った。
いつもなら何か言い返しているところなのに、今はその声さえ遠くから聞こえてくるようだった。
◇
校庭には、すでに大勢の生徒が避難していた。
鳴り続ける非常ベルの中、教師たちがクラスごとに人数を確認し、生徒たちは何が起きているのか分からないまま不安そうに校舎を見上げている。
その人混みの中で、林円花は青ざめた顔のまま理科室の方を見つめていた。
「矢城くん……」
少し前、勇真から「先に行って」と言われた。
『俺もすぐ行くから!』
そう言われたから、円花は階段を下りた。
でも、勇真は来なかった。
代わりに成瀬と高石が体育館の方へ走っていき、そのあと何人もの男子生徒が大きなマットを抱えて校舎の外へ飛び出していった。
嫌な予感がした。
何のためのマットなのか分からなかったのに、胸の奥が急に冷たくなった。
そして、理科室の窓に人影が現れた。
「……嘘」
煙の中、誰かを抱えている。
遠くからでも、それが誰なのかは分かった。
「矢城くん……?」
勇真が窓枠に足をかける。
その姿を見た瞬間、円花の顔から血の気が引いた。
「やだ……」
声が震える。
窓から離れて。
誰か来るまで待って。
そんなことを思っても、ここからでは何もできない。
「やだ、待って……!」
届くはずもないのに、円花は一歩前へ出た。
「矢城くん!!」
勇真が飛んだ。
「……っ!」
円花は両手で口を覆った。
マットへ落ちたのは見えた。
けれど、すぐに周囲の生徒たちが駆け寄り、勇真の姿が見えなくなる。
「矢城くん……矢城くん……!」
確かめたい。
無事なのか、自分の目で見たい。
前へ出ようとしたところで、腕を掴まれた。
「林!」
名取だった。
「待って。先生たちが行ってるから」
「でも、矢城くんが……!」
「分かってる。でも今行ったら、先生たちの邪魔になる」
「……っ」
言っていることは分かる。
今の自分が駆け寄っても、何もできないことも分かっている。
それでも足は動きそうになる。
円花は唇を噛み、見えなくなった勇真を探し続けた。
目には、いつの間にか涙が滲んでいた。
◇
「……バカじゃないの」
少し離れた場所では、清水千尋も同じ光景を見ていた。
隣にいる栗原は、青ざめた顔で千尋の腕を掴んでいる。
「千尋……矢城、大丈夫だよね?」
「……知らない」
「だって、あんなところから飛んで……」
「下にマットあったでしょ。ちゃんと落ちてたし、大丈夫だから」
自分でも驚くほど強い口調になった。
友香を安心させたかったのか。
それとも、自分に言い聞かせたかったのか。
千尋自身にも分からない。
ただ、理科室の窓に勇真が現れた瞬間から、心臓がずっと速く鳴っていた。
煙の中から誰かを抱えて出てきて、自分も逃げればいいのに、その人を離さずに窓から飛んだ。
「何やってんのよ……」
どうして、そこまでできるの。
自分とは関係のない相手だったはずなのに。
怖くなかったはずがない。あんな煙の中へ入れば、自分まで死ぬかもしれないことくらい、あいつにだって分かっていたはずだ。
それなのに、勇真は行った。
その姿を見ていると、胸の奥に押し込めていた何かがざわつき始める。
ずっと昔にも。
同じように――。
「……また……」
無意識に声が漏れた。
「え?」
栗原が千尋を見る。
「何でもない」
すぐに顔を背けた。
これ以上考えたくなかった。
思い出したくないものまで、引っ張り出されそうな気がした。
千尋は胸元を握りしめ、もう一度だけ勇真がいるはずの場所を見る。
「ほんと……バカ」
今度の声は、さっきよりずっと小さく震えていた。
◇
サイレンの音が近づいてくる。
消防車なのか、救急車なのか、それとも両方なのか。今の俺には聞き分ける余裕もなかった。
「矢城、聞こえるか?」
「……聞こえてる」
成瀬がすぐ横にいる。
高石も俺のそばから離れず、何度も先生の方を確認していた。
「女子は?」
「先生が見てる。救急隊ももう来るから」
「……そっか」
よかった。
その一言を聞いた途端、張り詰めていたものが少し緩んだ。
それと同時に、急に体が重くなる。
「矢城?」
「ちょっと……寝たい」
「寝るな」
「え?」
「今は寝るなって!」
高石の声が大きくなる。
「いや……眠いだけだから……」
「だから駄目なんだよ!」
何をそんなに慌ててるんだ。
俺は大丈夫だ。
ちゃんとマットに落ちた。
背中も腕も痛いけど、骨が折れたような感じはしない。
少し煙を吸って、喉が痛くて、頭がぼんやりしているだけ。
そう思おうとした。
でも、うまく頭が回らない。
「……あれ?」
成瀬の顔がぼやけて見える。
声も遠い。
自分が地面に寝ているのか、まだマットの上にいるのかさえ、よく分からなくなってきた。
「矢城!」
誰かが頬に触れた。
「おい、目開けろ!」
「開いてるって……」
そのつもりだった。
でも、まぶたが勝手に落ちてくる。
その向こうに、先生たちに囲まれている女子生徒の姿が見えた。
一瞬だけ。
腕が動いたような気がした。
「……成瀬」
「何だ?」
「あの子……」
「今は自分の心配しろ!」
「助かったんだよな……」
成瀬が言葉を止めた。
俺が何を聞きたいのか分かったのだろう。
少しだけ間を置いてから、肩を強く掴んでくる。
「ああ」
迷いのない声だった。
「助かった。だからもう喋るな」
「……そっか」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥に残っていた最後の力まで抜けていった。
よかった。
あの子を外へ出せた。
間に合った。
それなら――もういい。
「矢城?」
成瀬の声が聞こえる。
「おい、矢城!」
今度は高石。
返事をしようとしたけれど、口が動かなかった。
視界の端から、少しずつ暗くなっていく。
近づいてくるサイレンの音も、周囲の叫び声も、まるで水の中から聞いているように遠ざかっていった。
その中で、一つだけ。
「矢城くん!」
聞き覚えのある声がした気がした。
林……?
そう思ったところで、俺の意識は途切れた。
「勇真!」
次に聞こえた声が誰のものだったのか。
その時の俺には、まだ分からなかった。




