第40話 俺が行くしかない
理科室へ近づくほど、焦げ臭さが強くなっていく。
「……っ」
思わず口元を腕で覆った。
廊下の奥には、さっきより明らかに濃い煙が漂っている。非常ベルは鳴り続け、遠くからは生徒たちが階段を下りていく足音や、誰かを呼ぶ声が聞こえていた。
先生はまだ来ない。
いや、この非常ベルを聞いて、もう動いているはずだ。職員室から誰かが向かっているかもしれない。
それでも――今、ここにはいない。
「理科室……!」
俺は煙の流れてくる方へ走った。
けれど、理科室が近づいてくるにつれて、自然と足が鈍っていく。
怖い。
当たり前だ。
こんなの、今まで経験したことがない。
何度同じ日を繰り返してきたって、学校が火事になったことなんて一度もなかった。この先で何が起きるのか、今回は何一つ分からない。
しかも――。
「……待て。理科室って……」
嫌な考えが浮かんだ。
普通の教室じゃない。
授業で使う薬品がある。ガラス器具も並んでいるし、ガスを使う設備だってあったはずだ。
何に火がつけば危険なのか。
熱されたらどうなるのか。
煙に何が混じっているのか。
そんなこと、俺には分からない。
だからこそ怖かった。
理科室と火事。
その組み合わせが普通の教室よりヤバそうだということくらい、高校生の俺にだって分かる。
理科室の前まで来ると、焦げ臭さはさらに強くなった。
「おい!」
扉の窓から中を覗き込む。
「誰かいるのか!」
返事はない。
煙のせいで奥まではよく見えなかった。目を細め、必死に中を探す。
机。
椅子。
その向こうに――。
「……いた」
人影が見えた。
女子生徒だ。
床に倒れている。
「おい!」
扉を叩く。
「聞こえるか!」
反応がない。
「おい!!」
もう一度叫んでも、女子生徒の体は動かなかった。
その向こうでは炎が上がっている。
まだ理科室全体が燃えているわけじゃない。それでも火は確実に広がっていて、廊下から煙に気づいた時より明らかに状況が悪くなっていた。
「……まずい」
火だけじゃない。
あの子は、この煙の中でいつから倒れている?
ただ気を失っているだけなのか。それとも煙を吸ったせいなのか。
俺には判断できない。
ただ、このまま放っておいていい状態じゃないことだけは分かった。
「先生……!」
廊下を振り返る。
誰も来ない。
非常ベルだけが鳴り続けている。
待つか?
先生が来るまで待つ。
本当なら、それが一番正しい。
ハマヤンからも言われた。危険なことがあれば、自分たちでどうにかしようとせず先生に知らせろ、と。
父さんにも言われた。
『人を助けるのはいいことだと思う。でもな……無茶だけはするなよ』
分かってる。
俺だって入りたくない。
怖いに決まってる。
しかも、ここは理科室だ。
何があるのか分からない。何かが突然割れるかもしれないし、火が一気に広がるかもしれない。
俺には危険を全部予測できない。
だったら、待つべきだ。
先生を待つ。
大人に任せる。
それが正しい。
――でも。
もう一度、扉の窓から中を見る。
女子生徒は動かない。
煙が、さっきより濃くなっている。
炎も少しずつ広がっている。
先生が来るまで何分だ?
一分?
二分?
もっと早いかもしれない。
でも。
「あの子に、その何分があるんだよ……」
声が震えた。
待つことだって、選択だ。
何もしないことも、選択になる。
ここで俺が先生を待って、その間に手遅れになったら。
あの時なら、まだ助けられたんじゃないか。
俺はきっと、一生そう考える。
「……くそっ」
足が震えている。
心臓もうるさい。
それなのに、頭の中だけが妙に冷えていった。
入る。
そう決めるなら、ただ突っ込むだけじゃ駄目だ。
助けたあと、どうやって出る?
入った時には使えた廊下側の扉が、火の広がり方次第では使えなくなるかもしれない。
俺は理科室の位置を頭の中で思い浮かべる。
二階。
廊下と反対側には窓がある。
もし扉から戻れなくなれば、残るのはあそこしかない。
でも二階だ。
そのまま飛び降りるなんて危険すぎる。まして意識のない人を抱えていれば、まともに着地できるとは思えない。
「……マット」
体育の授業が頭に浮かんだ。
最近やっている走り高跳び。
体育館の器具庫には、大きなマットがある。
もしもの時、あれを窓の下へ運べれば――。
もちろん、安全になるわけじゃない。
二階から飛ぶなんて最後の手段だ。
それでも、逃げ道が一つしかない状態で中へ入るよりはマシだった。
「矢城!」
声が聞こえた。
振り返る。
「成瀬!」
成瀬と高石がこちらへ走ってくる。
「何してるんだ! 早く逃げるぞ!」
「中に人がいる!」
「え?」
成瀬の表情が変わった。
「理科室の中に一人いる。呼んでも反応しない」
高石が扉の向こうを覗き込み、息を呑んだ。
「マジかよ……」
「先生は?」
「まだ来てない」
成瀬が周囲を見る。
「じゃあ職員室に――」
「成瀬」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「説明はあと。頼みがある」
「何だ?」
「体育館の器具庫にマットがある。走り高跳びで使ってる大きいやつ」
「マット?」
「できるだけ男子を集めて、理科室の窓の下まで持ってきて」
成瀬が俺を見る。
その視線が理科室へ向かい、次に窓のある方へ動いた。
数秒で、俺が何を考えているのか理解したのだろう。
「……分かった」
成瀬が走り出そうとする。
「待って!」
高石が俺を見た。
「お前はどうするんだよ」
答えなかった。
「矢城」
「高石も成瀬と行って」
「お前、まさか中に入る気か?」
「早く!」
思わず怒鳴った。
高石が言葉を止める。
「時間ないんだよ!」
煙は増えている。
中の女子生徒は、まだ動かない。
高石が唇を噛んだ。
「……絶対無茶すんなよ」
「分かってる」
口ではそう答えた。
でも、これからやろうとしていることが無茶じゃないなんて、俺自身思っていなかった。
「行くぞ、高石!」
成瀬が走る。
「……くそっ!」
高石もその後を追った。
二人の背中が遠ざかる。
俺は再び理科室へ向き直った。
非常ベルだけが、耳が痛くなるほど鳴り響いている。
◇
扉の向こうを見る。
怖い。
逃げたい。
先生が来るまで待ちたい。
そもそも、理科室なんかに入って本当に大丈夫なのか。
薬品。
ガラス。
ガス。
何がどこにあるのか、全部を把握しているわけじゃない。何が燃えているのかさえ分からない。
煙だって、何が混じっているのか俺には判断できない。
入らない方がいい。
そんなことは分かっている。
それでも。
煙の向こうに、女子生徒の足が見えた。
動かない。
「……待ってろ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
扉へ近づく。
熱気が伝わってくる。
手が震える。
心臓がうるさい。
それでも扉に手をかけた。
開ける。
「っ……!」
煙が一気に廊下へ流れ出した。
熱い。
想像していたより、ずっと熱い。
「ゲホッ……!」
思わず咳き込み、一歩下がる。
無理だ。
一瞬、本気でそう思った。
ここに入ったら、俺まで倒れるかもしれない。
助けるどころか、救助される人間が一人増えるだけかもしれない。
それでも、煙の向こうには倒れたままの女子生徒がいる。
「……行け」
足が動かない。
「動けよ……!」
自分に言い聞かせる。
できるだけ煙を吸わないよう姿勢を低くして、俺は理科室へ踏み込んだ。
◇
中へ入った瞬間、廊下から見ていた時とはまるで違う場所になった。
目が痛い。
喉も痛い。
熱気と煙のせいで、ほんの数メートル先さえ見えづらい。
「おい!」
姿勢を低くしたまま進む。
机の脚が邪魔になる。
「聞こえるか!」
返事はない。
炎からできるだけ距離を取りながら進み、ようやく女子生徒のそばまでたどり着いた。
「おい!」
肩に触れる。
反応がない。
頬を軽く叩く。
「起きろ!」
駄目だ。
「……息」
顔を近づける。
呼吸はある。
「よかった……」
胸の奥から息が漏れた。
でも安心している場合じゃない。
ここから出さないと。
脇の下に腕を入れ、体を起こそうとする。
「重っ……!」
当たり前だ。
意識のない人間は、自分で立ってくれない。
どうにか背負い、足に力を入れる。
「くそ……!」
膝が震えた。
それでも立ち上がる。
「行くぞ……」
入ってきた扉へ戻る。
そう思って振り返った時だった。
「……え?」
炎が大きくなっている。
ほんの少し前まで通ってきた場所。
そこへ火が広がり始めていた。
「嘘だろ……」
早すぎる。
こんなに早く広がるのか?
煙もさらに濃くなっている。
「ゲホッ……ゲホッ!」
咳が止まらない。
頭も少しぼんやりしてきた。
まずい。
ここに長くいたら、俺も動けなくなる。
その時だった。
パキンッ!
乾いた音が響いた。
「……っ!」
反射的に女子生徒を庇う。
何かのガラスが割れた。
どこだ?
何が割れた?
煙で見えない。
続いて、棚の方から何かが床へ落ちる音がした。
心臓が跳ねる。
そうだ。
ここは理科室なんだ。
何が熱せられているのか分からない。
どの容器に何が入っているのかも知らない。
次に何が起きるのか、俺には予測できない。
「やばい……」
廊下側を見る。
火。
背中には意識のない女子生徒。
そして反対側には窓。
頭の中で選択肢を並べる。
扉へ強引に向かうか。
でも、この子を背負ったまま炎の近くを通れるのか?
途中で俺が倒れたら終わる。
だったら――。
「成瀬……!」
窓だ。
女子生徒を背負ったまま、窓へ向かう。
開ける。
外の空気が流れ込んできた。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
咳き込みながら下を見る。
二階。
地面が遠い。
当然、そのまま飛び降りるなんてできない。
「……まだか」
マットはない。
成瀬たちの姿も見えない。
「頼む……」
背中の女子生徒は動かない。
炎は広がっている。
また、何かが割れる音がした。
ビクッと体が反応する。
怖い。
次に何が起きる?
火がもっと広がる?
何かが破裂する?
それとも、その前に煙で俺が意識を失う?
分からない。
分からないことが、一番怖い。
「早く……!」
窓から身を乗り出す。
「早く来てくれ……成瀬!」
その時だった。
「矢城――!!」
下から声がした。
「……!」
見る。
成瀬だ。
高石もいる。
他にも何人もの男子生徒がいた。
そして、みんなで大きなマットを運んでいる。
「来た……」
全身から力が抜けそうになった。
「矢城! 待ってろ!」
成瀬たちがマットを窓の下へ運ぶ。
「そこ!」
俺は叫ぶ。
「もう少し右!」
「右だ! 動かせ!」
成瀬が周囲へ指示する。
何人もの生徒がマットを動かす。
「もう少し!」
その時。
背後から、今までとは違う音がした。
ミシッ――。
「……何だ?」
振り返る。
火の向こう。
何かが熱せられている。
何なのかは分からない。
でも。
嫌な予感がした。
「矢城!」
高石の声が飛んでくる。
「もうちょいだから待て!」
「……」
待つ?
あと何秒?
十秒?
二十秒?
女子生徒を抱きしめる。
その瞬間。
奥で何かが弾けた。
「うわっ!」
反射的に女子生徒へ覆いかぶさる。
大きな爆発ではない。
でも何かが破裂し、破片が床を叩く音がした。
「くそっ……!」
もう待てない。
次も同じ程度だなんて保証はない。
そもそも、何が起きているのか俺には分からない。
「成瀬!」
下を見る。
「いけるか!?」
成瀬がマットの位置を確認する。
高石たちも必死に押さえている。
「もう少し――」
成瀬が一瞬だけ後ろを見る。
そして、理科室の窓から漏れ出す煙を見た。
表情が変わる。
「……来い!!」
女子生徒を抱き直す。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
二階だ。
下にマットがあるからって、安全だなんて保証はない。
飛び方を間違えたら。
位置がずれたら。
俺だけじゃない。
この子まで怪我をする。
でも、後ろに戻る道はもうない。
待っていれば安全になるわけでもない。
むしろ時間が経つほど危険になる。
選べる道は、もう一つしかなかった。
「……絶対、離さないからな」
意識のない女子生徒へ呟く。
窓枠に足をかける。
下には成瀬たちがいる。
マットがある。
後ろには炎。
理科室の中では、今も何が起きるか分からない。
心臓が痛いほど鳴っていた。
父さん。
ごめん。
これ、多分。
「めちゃくちゃ無茶だわ……」
自分でも笑えない。
それでも、女子生徒を強く抱きしめた。
「行くぞ……!」
息を止める。
そして。
俺は二階の窓から飛んだ。




