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『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない』~間違った選択をすると、また今日が始まる~  作者: ダイヤマ
第3章 正解のない選択

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第40話 俺が行くしかない



 理科室へ近づくほど、焦げ臭さが強くなっていく。


「……っ」


 思わず口元を腕で覆った。


 廊下の奥には、さっきより明らかに濃い煙が漂っている。非常ベルは鳴り続け、遠くからは生徒たちが階段を下りていく足音や、誰かを呼ぶ声が聞こえていた。


 先生はまだ来ない。


 いや、この非常ベルを聞いて、もう動いているはずだ。職員室から誰かが向かっているかもしれない。


 それでも――今、ここにはいない。


「理科室……!」


 俺は煙の流れてくる方へ走った。


 けれど、理科室が近づいてくるにつれて、自然と足が鈍っていく。


 怖い。


 当たり前だ。


 こんなの、今まで経験したことがない。


 何度同じ日を繰り返してきたって、学校が火事になったことなんて一度もなかった。この先で何が起きるのか、今回は何一つ分からない。


 しかも――。


「……待て。理科室って……」


 嫌な考えが浮かんだ。


 普通の教室じゃない。


 授業で使う薬品がある。ガラス器具も並んでいるし、ガスを使う設備だってあったはずだ。


 何に火がつけば危険なのか。


 熱されたらどうなるのか。


 煙に何が混じっているのか。


 そんなこと、俺には分からない。


 だからこそ怖かった。


 理科室と火事。


 その組み合わせが普通の教室よりヤバそうだということくらい、高校生の俺にだって分かる。


 理科室の前まで来ると、焦げ臭さはさらに強くなった。


「おい!」


 扉の窓から中を覗き込む。


「誰かいるのか!」


 返事はない。


 煙のせいで奥まではよく見えなかった。目を細め、必死に中を探す。


 机。


 椅子。


 その向こうに――。


「……いた」


 人影が見えた。


 女子生徒だ。


 床に倒れている。


「おい!」


 扉を叩く。


「聞こえるか!」


 反応がない。


「おい!!」


 もう一度叫んでも、女子生徒の体は動かなかった。


 その向こうでは炎が上がっている。


 まだ理科室全体が燃えているわけじゃない。それでも火は確実に広がっていて、廊下から煙に気づいた時より明らかに状況が悪くなっていた。


「……まずい」


 火だけじゃない。


 あの子は、この煙の中でいつから倒れている?


 ただ気を失っているだけなのか。それとも煙を吸ったせいなのか。


 俺には判断できない。


 ただ、このまま放っておいていい状態じゃないことだけは分かった。


「先生……!」


 廊下を振り返る。


 誰も来ない。


 非常ベルだけが鳴り続けている。


 待つか?


 先生が来るまで待つ。


 本当なら、それが一番正しい。


 ハマヤンからも言われた。危険なことがあれば、自分たちでどうにかしようとせず先生に知らせろ、と。


 父さんにも言われた。


『人を助けるのはいいことだと思う。でもな……無茶だけはするなよ』


 分かってる。


 俺だって入りたくない。


 怖いに決まってる。


 しかも、ここは理科室だ。


 何があるのか分からない。何かが突然割れるかもしれないし、火が一気に広がるかもしれない。


 俺には危険を全部予測できない。


 だったら、待つべきだ。


 先生を待つ。


 大人に任せる。


 それが正しい。


 ――でも。


 もう一度、扉の窓から中を見る。


 女子生徒は動かない。


 煙が、さっきより濃くなっている。


 炎も少しずつ広がっている。


 先生が来るまで何分だ?


 一分?


 二分?


 もっと早いかもしれない。


 でも。


「あの子に、その何分があるんだよ……」


 声が震えた。


 待つことだって、選択だ。


 何もしないことも、選択になる。


 ここで俺が先生を待って、その間に手遅れになったら。


 あの時なら、まだ助けられたんじゃないか。


 俺はきっと、一生そう考える。


「……くそっ」


 足が震えている。


 心臓もうるさい。


 それなのに、頭の中だけが妙に冷えていった。


 入る。


 そう決めるなら、ただ突っ込むだけじゃ駄目だ。


 助けたあと、どうやって出る?


 入った時には使えた廊下側の扉が、火の広がり方次第では使えなくなるかもしれない。


 俺は理科室の位置を頭の中で思い浮かべる。


 二階。


 廊下と反対側には窓がある。


 もし扉から戻れなくなれば、残るのはあそこしかない。


 でも二階だ。


 そのまま飛び降りるなんて危険すぎる。まして意識のない人を抱えていれば、まともに着地できるとは思えない。


「……マット」


 体育の授業が頭に浮かんだ。


 最近やっている走り高跳び。


 体育館の器具庫には、大きなマットがある。


 もしもの時、あれを窓の下へ運べれば――。


 もちろん、安全になるわけじゃない。


 二階から飛ぶなんて最後の手段だ。


 それでも、逃げ道が一つしかない状態で中へ入るよりはマシだった。


「矢城!」


 声が聞こえた。


 振り返る。


「成瀬!」


 成瀬と高石がこちらへ走ってくる。


「何してるんだ! 早く逃げるぞ!」


「中に人がいる!」


「え?」


 成瀬の表情が変わった。


「理科室の中に一人いる。呼んでも反応しない」


 高石が扉の向こうを覗き込み、息を呑んだ。


「マジかよ……」


「先生は?」


「まだ来てない」


 成瀬が周囲を見る。


「じゃあ職員室に――」


「成瀬」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


「説明はあと。頼みがある」


「何だ?」


「体育館の器具庫にマットがある。走り高跳びで使ってる大きいやつ」


「マット?」


「できるだけ男子を集めて、理科室の窓の下まで持ってきて」


 成瀬が俺を見る。


 その視線が理科室へ向かい、次に窓のある方へ動いた。


 数秒で、俺が何を考えているのか理解したのだろう。


「……分かった」


 成瀬が走り出そうとする。


「待って!」


 高石が俺を見た。


「お前はどうするんだよ」


 答えなかった。


「矢城」


「高石も成瀬と行って」


「お前、まさか中に入る気か?」


「早く!」


 思わず怒鳴った。


 高石が言葉を止める。


「時間ないんだよ!」


 煙は増えている。


 中の女子生徒は、まだ動かない。


 高石が唇を噛んだ。


「……絶対無茶すんなよ」


「分かってる」


 口ではそう答えた。


 でも、これからやろうとしていることが無茶じゃないなんて、俺自身思っていなかった。


「行くぞ、高石!」


 成瀬が走る。


「……くそっ!」


 高石もその後を追った。


 二人の背中が遠ざかる。


 俺は再び理科室へ向き直った。


 非常ベルだけが、耳が痛くなるほど鳴り響いている。


     ◇


 扉の向こうを見る。


 怖い。


 逃げたい。


 先生が来るまで待ちたい。


 そもそも、理科室なんかに入って本当に大丈夫なのか。


 薬品。


 ガラス。


 ガス。


 何がどこにあるのか、全部を把握しているわけじゃない。何が燃えているのかさえ分からない。


 煙だって、何が混じっているのか俺には判断できない。


 入らない方がいい。


 そんなことは分かっている。


 それでも。


 煙の向こうに、女子生徒の足が見えた。


 動かない。


「……待ってろ」


 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


 扉へ近づく。


 熱気が伝わってくる。


 手が震える。


 心臓がうるさい。


 それでも扉に手をかけた。


 開ける。


「っ……!」


 煙が一気に廊下へ流れ出した。


 熱い。


 想像していたより、ずっと熱い。


「ゲホッ……!」


 思わず咳き込み、一歩下がる。


 無理だ。


 一瞬、本気でそう思った。


 ここに入ったら、俺まで倒れるかもしれない。


 助けるどころか、救助される人間が一人増えるだけかもしれない。


 それでも、煙の向こうには倒れたままの女子生徒がいる。


「……行け」


 足が動かない。


「動けよ……!」


 自分に言い聞かせる。


 できるだけ煙を吸わないよう姿勢を低くして、俺は理科室へ踏み込んだ。


     ◇


 中へ入った瞬間、廊下から見ていた時とはまるで違う場所になった。


 目が痛い。


 喉も痛い。


 熱気と煙のせいで、ほんの数メートル先さえ見えづらい。


「おい!」


 姿勢を低くしたまま進む。


 机の脚が邪魔になる。


「聞こえるか!」


 返事はない。


 炎からできるだけ距離を取りながら進み、ようやく女子生徒のそばまでたどり着いた。


「おい!」


 肩に触れる。


 反応がない。


 頬を軽く叩く。


「起きろ!」


 駄目だ。


「……息」


 顔を近づける。


 呼吸はある。


「よかった……」


 胸の奥から息が漏れた。


 でも安心している場合じゃない。


 ここから出さないと。


 脇の下に腕を入れ、体を起こそうとする。


「重っ……!」


 当たり前だ。


 意識のない人間は、自分で立ってくれない。


 どうにか背負い、足に力を入れる。


「くそ……!」


 膝が震えた。


 それでも立ち上がる。


「行くぞ……」


 入ってきた扉へ戻る。


 そう思って振り返った時だった。


「……え?」


 炎が大きくなっている。


 ほんの少し前まで通ってきた場所。


 そこへ火が広がり始めていた。


「嘘だろ……」


 早すぎる。


 こんなに早く広がるのか?


 煙もさらに濃くなっている。


「ゲホッ……ゲホッ!」


 咳が止まらない。


 頭も少しぼんやりしてきた。


 まずい。


 ここに長くいたら、俺も動けなくなる。


 その時だった。


 パキンッ!


 乾いた音が響いた。


「……っ!」


 反射的に女子生徒を庇う。


 何かのガラスが割れた。


 どこだ?


 何が割れた?


 煙で見えない。


 続いて、棚の方から何かが床へ落ちる音がした。


 心臓が跳ねる。


 そうだ。


 ここは理科室なんだ。


 何が熱せられているのか分からない。


 どの容器に何が入っているのかも知らない。


 次に何が起きるのか、俺には予測できない。


「やばい……」


 廊下側を見る。


 火。


 背中には意識のない女子生徒。


 そして反対側には窓。


 頭の中で選択肢を並べる。


 扉へ強引に向かうか。


 でも、この子を背負ったまま炎の近くを通れるのか?


 途中で俺が倒れたら終わる。


 だったら――。


「成瀬……!」


 窓だ。


 女子生徒を背負ったまま、窓へ向かう。


 開ける。


 外の空気が流れ込んできた。


「ゲホッ、ゲホッ……!」


 咳き込みながら下を見る。


 二階。


 地面が遠い。


 当然、そのまま飛び降りるなんてできない。


「……まだか」


 マットはない。


 成瀬たちの姿も見えない。


「頼む……」


 背中の女子生徒は動かない。


 炎は広がっている。


 また、何かが割れる音がした。


 ビクッと体が反応する。


 怖い。


 次に何が起きる?


 火がもっと広がる?


 何かが破裂する?


 それとも、その前に煙で俺が意識を失う?


 分からない。


 分からないことが、一番怖い。


「早く……!」


 窓から身を乗り出す。


「早く来てくれ……成瀬!」


 その時だった。


「矢城――!!」


 下から声がした。


「……!」


 見る。


 成瀬だ。


 高石もいる。


 他にも何人もの男子生徒がいた。


 そして、みんなで大きなマットを運んでいる。


「来た……」


 全身から力が抜けそうになった。


「矢城! 待ってろ!」


 成瀬たちがマットを窓の下へ運ぶ。


「そこ!」


 俺は叫ぶ。


「もう少し右!」


「右だ! 動かせ!」


 成瀬が周囲へ指示する。


 何人もの生徒がマットを動かす。


「もう少し!」


 その時。


 背後から、今までとは違う音がした。


 ミシッ――。


「……何だ?」


 振り返る。


 火の向こう。


 何かが熱せられている。


 何なのかは分からない。


 でも。


 嫌な予感がした。


「矢城!」


 高石の声が飛んでくる。


「もうちょいだから待て!」


「……」


 待つ?


 あと何秒?


 十秒?


 二十秒?


 女子生徒を抱きしめる。


 その瞬間。


 奥で何かが弾けた。


「うわっ!」


 反射的に女子生徒へ覆いかぶさる。


 大きな爆発ではない。


 でも何かが破裂し、破片が床を叩く音がした。


「くそっ……!」


 もう待てない。


 次も同じ程度だなんて保証はない。


 そもそも、何が起きているのか俺には分からない。


「成瀬!」


 下を見る。


「いけるか!?」


 成瀬がマットの位置を確認する。


 高石たちも必死に押さえている。


「もう少し――」


 成瀬が一瞬だけ後ろを見る。


 そして、理科室の窓から漏れ出す煙を見た。


 表情が変わる。


「……来い!!」


 女子生徒を抱き直す。


 怖い。


 めちゃくちゃ怖い。


 二階だ。


 下にマットがあるからって、安全だなんて保証はない。


 飛び方を間違えたら。


 位置がずれたら。


 俺だけじゃない。


 この子まで怪我をする。


 でも、後ろに戻る道はもうない。


 待っていれば安全になるわけでもない。


 むしろ時間が経つほど危険になる。


 選べる道は、もう一つしかなかった。


「……絶対、離さないからな」


 意識のない女子生徒へ呟く。


 窓枠に足をかける。


 下には成瀬たちがいる。


 マットがある。


 後ろには炎。


 理科室の中では、今も何が起きるか分からない。


 心臓が痛いほど鳴っていた。


 父さん。


 ごめん。


 これ、多分。


「めちゃくちゃ無茶だわ……」


 自分でも笑えない。


 それでも、女子生徒を強く抱きしめた。


「行くぞ……!」


 息を止める。


 そして。


 俺は二階の窓から飛んだ。



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