第39話 火事
終業式まで、あと数日。
期末テストも終わり、学校全体が少しずつ夏休みの空気に変わり始めていた。
「暑い……」
昼休み。
俺は廊下の窓を開けながら、思わず呟いた。
風は入ってくる。
でも、涼しくはない。
むしろ外の熱気がそのまま流れ込んできたような気さえする。
「閉めた方が涼しいんじゃない?」
後ろから声をかけられて振り返ると、名取がいた。
「風入るかなと思って」
「熱風じゃん」
「確かに」
窓を閉める。
「名取、どこ行くの?」
「職員室。先生に頼まれたもの届けに」
「また?」
「また」
「断ればいいのに」
「別にこれくらいいいよ」
「そっか」
以前の俺なら、そこで「持つよ」と言っていたかもしれない。
でも名取は困っていない。
だから、そのまま見送った。
「じゃあね」
「うん」
名取と別れ、俺も教室へ戻ろうとする。
その時だった。
階段を上がってくる三人組が目に入った。
「……あ」
見覚えがある。
この前から何度か見かけている上級生たちだ。
三人は周囲を気にしながら、小声で何かを話している。
「ここなら大丈夫だろ」
「マジで?」
「昼休み誰も来ねえって」
「鍵は?」
「開いてる」
俺の横を通り過ぎていく。
そのまま少し先まで歩いた三人が、廊下の角を曲がった。
何となく気になった。
少し遅れて角まで歩く。
三人が入っていったのは――理科室だった。
「理科室……?」
昼休みに何の用だろう。
校内でタバコを吸っている生徒がいるという噂が頭をよぎった。
ただ、吸っているところを見たわけじゃない。
三人で理科室へ入った。
それだけだ。
ハマヤンからも、もし実際に見つけたら自分たちで注意せず先生へ知らせろと言われている。
でも今の俺には、先生へ伝えられるほどの確証がなかった。
「……まあ、いいか」
俺はその場を離れた。
◇
「矢城、遅かったな」
教室へ戻ると、堀井がパンを食べながら言った。
「ちょっと廊下にいただけ」
「何してたの?」
「別に」
自分の席に座る。
少しだけ理科室のことが気になった。
でも、すぐに別の話題に流された。
「なあ矢城」
「何?」
「夏祭りさ」
「うん」
「俺、私服でいいよな?」
「好きにすれば?」
「みんな浴衣だったら浮かない?」
「男で浴衣着てくる奴、そんなにいる?」
「成瀬なら着そうじゃん」
少し離れた席にいる成瀬を見る。
「成瀬!」
「何?」
「夏祭り浴衣?」
「まだ決めてないけど」
「ほら!」
「何がほらなんだよ」
堀井が真剣な顔をする。
「俺、浴衣持ってないんだよ」
「俺も持ってない」
「よかった」
「何が?」
「仲間」
「そんなことで安心するなよ」
そのまま話題は夏祭りへ移った。
佐藤が女子の浴衣がどうとか言い始め、浅井に「下心しかないじゃん」と笑われる。
伊藤は「歩きにくそうだから普通の服でいい」と興味を示さない。
「私は浴衣着るけど」
清水が普通に言った。
「マジ?」
佐藤が反応する。
「何よ」
「いや、似合いそうだなと思って」
「当然でしょ」
「自分で言う?」
栗原が笑う。
「友香も着るでしょ?」
「着る着る!」
教室がいつも通り騒がしい。
俺も笑いながら話を聞いていた。
その時にはもう、昼休みに理科室へ入っていった三人のことは、ほとんど頭から消れていた。
◇
理科室では、三人の上級生が窓際に集まっていた。
「だからここ穴場だって言っただろ」
「マジで誰も来ねえな」
「昼休みに理科室来る奴なんていねえよ」
一人が窓を少しだけ開ける。
もう一人がポケットからタバコを取り出した。
「早くしろよ。昼休み終わるぞ」
「分かってるって」
火をつける。
細い煙が上がった。
「これバレたら停学?」
「知らね」
「お前ら先生来ても俺の名前出すなよ」
「全員ここにいる時点で無理だろ」
三人が小さく笑う。
しばらくして。
廊下から足音が聞こえた。
「……おい」
「何?」
「誰か来る」
三人の表情が変わった。
「先生じゃね?」
「マジ?」
「消せ消せ!」
一人が慌ててタバコを手から離した。
「どこ捨てんだよ!」
「知らねえよ!」
「臭いどうすんの?」
「窓開けろ!」
慌てて窓を大きく開ける。
誰かが廊下を歩いてくる音は、少しずつ近づいていた。
「もう出るぞ!」
「まだ臭うって」
「ここにいる方がやべえだろ!」
三人は荷物を持ち、急いで理科室を出た。
だが、足音の主は別の教室へ入っていった。
「なんだよ……先生じゃねえじゃん」
「戻る?」
「もう昼休み終わるだろ」
「行こうぜ」
三人はそのまま自分たちの教室へ戻っていく。
床の隅。
誰にも気づかれない場所で、小さな火種だけが残されていた。
◇
昼休みも、残りわずか。
一人の女子生徒が理科室へ入ってきた。
次の授業が理科室で行われるため、少し早く移動してきたのだ。
「まだ誰も来てないか……」
教科書とノートを机に置く。
教室へ戻るほどの時間でもない。
「眠……」
昨夜は遅くまで起きていた。
椅子に座り、机に頬杖をつく。
「ちょっとだけ……」
目を閉じる。
部屋の隅では、ほんのわずかに煙が上がり始めていた。
女子生徒が一度だけ鼻を動かす。
「……何か臭う?」
顔を上げた。
しかし、はっきりとは分からない。
開け放たれた窓から外の匂いでも入ってきたのだろう。
そう思い、再び机に伏せる。
目を閉じた。
◇
「あとちょっとで授業か……」
堀井が時計を見て、面倒くさそうに呟いた。
「夏休み前なんだから、もう授業しなくてよくない?」
「先生に言ってみたら?」
「言えるわけないじゃん」
「じゃあ諦めろ」
「矢城、冷たくなったな」
「成長したと言ってくれ」
昼休み終了までもう少し。
教室では、席に戻り始めている奴もいれば、まだ友達同士で話している奴もいる。
先生はまだ来ていない。
俺も席へ戻ろうとした。
その時だった。
「……ん?」
何かが鼻についた。
焦げ臭い。
この前も嗅いだような匂い。
でも、今日は違う。
明らかに強い。
「堀井」
「ん?」
「何か臭わない?」
「臭い?」
堀井も鼻を動かした。
「……あ。何か焦げ臭い?」
俺は廊下へ出た。
何人かの生徒が同じように顔を出している。
「何この臭い?」
「どっかで何か燃やしてんの?」
「外じゃない?」
違う。
校舎の中だ。
そう思った瞬間。
廊下の向こうから、一人の生徒が走ってきた。
「煙!」
声が響く。
「向こう、煙出てる!」
俺はそちらを見る。
薄い。
でも確かに、廊下の奥に白っぽい煙が流れていた。
「……火事?」
誰かが呟く。
頭の中で、昼休みに見た光景が一気に繋がった。
三人の上級生。
『ここなら大丈夫だろ』
『昼休み誰も来ねえって』
そして。
理科室。
「まさか……」
考えている時間はなかった。
俺は廊下を走った。
「矢城!?」
堀井の声が後ろから聞こえる。
煙が流れてくる方向を確かめる。
理科室の方だ。
その途中、壁に赤い非常ベルがあった。
迷わず押す。
けたたましい音が校舎中に鳴り響いた。
「うわっ!」
「何!?」
「非常ベル!?」
教室から次々と生徒が顔を出す。
「火事だ!」
俺は叫んだ。
「外に出ろ!」
でも、すぐには動かない。
突然鳴った非常ベルに驚いて、何が起きたのか分からない奴もいる。
「マジで?」
「訓練?」
「誰か間違えて押したんじゃ――」
「逃げろ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ざわめきが止まる。
「本当に火事が起きてる! 早く外に出ろ!」
最初に動いたのは成瀬だった。
「みんな行こう! 荷物は置いていけ!」
名取もすぐに反応する。
「走らないで! 階段で押したら危ないから!」
「友香、行くよ!」
清水が栗原の腕を掴む。
「千尋、矢城は!?」
「今は先に行く!」
高石も堀井たちに声をかけ始めた。
俺一人が全部やる必要はない。
みんな、自分で動ける。
だったら。
俺が今やるべきことは――。
「先生は!?」
周囲を見回す。
いない。
昼休みが終わる直前。
次の授業を担当する教師たちは、まだ教室に来ていなかった。
職員室へ走るか?
いや。
非常ベルは押した。
これだけ鳴っていれば、すぐに先生たちも気づく。
まずは俺も避難するべきだ。
そう思って階段へ向かおうとした時だった。
「待って!」
廊下の向こうから女子生徒が走ってきた。
顔が真っ青だった。
「理科室……!」
俺は足を止める。
「何?」
「次の授業、理科室なの! それで……先に行った子がいる!」
「先に?」
「うん! まだ戻ってきてない!」
心臓が大きく鳴った。
煙の向こうを見る。
理科室。
火事。
その中に、人がいるかもしれない。
「先生!」
周囲を見回す。
いない。
非常ベルだけが鳴り続けている。
教師が来るまで、あと何分かかる?
一分?
二分?
分からない。
でも。
火は待ってくれない。
「矢城くん!」
林の声がした。
階段の近くで、林がこちらを見ていた。
「早く!」
「……林は先に行って!」
「え?」
「俺もすぐ行くから!」
嘘だった。
少なくとも、このまま外へ逃げるつもりはなかった。
理科室の方を見る。
煙は、さっきより濃くなっている。
怖い。
普通に怖い。
火事なんて入学してから一度も経験していない。
何が起きるのかも分からない。
それでも。
もし本当に中に誰かがいて。
俺がここで先生を待って。
その間に手遅れになったら――。
父さんの言葉が、一瞬だけ頭をよぎった。
『人を助けるのはいいことだと思う。でもな……無茶だけはするなよ』
分かってる。
無茶なんてしたくない。
できることなら、先生に任せたい。
でも今は、その先生がいない。
非常ベルは押した。
みんなの避難も始まっている。
大人が来るまで待つ時間があるのかどうかさえ分からない。
「……くそ」
足が震えた。
それでも、理科室へ向かって踏み出す。
俺が行くしかない。
そう判断した。




