第38話 夏休みまで、あと少し
七月十日。
「終わったああああ!」
最後のテストが終わった瞬間、栗原の叫び声が教室に響いた。
「栗原、まだ答案回収してるから静かにしろー」
教卓からハマヤンに注意される。
「先生! 私、自由です!」
「答案返ってくるまではな」
「現実を突きつけないで!」
教室のあちこちから笑いが起こった。
三日間の期末テスト。
俺自身の手応えは、悪くない。
ただ、入学して最初に受けた学力確認テストとは違って、今回は範囲も広かった。部活が始まってからは家に帰る時間も遅くなり、以前ほど勉強だけに時間を使っているわけでもない。
それでも、やるからには少しでも上へ行きたい。
「矢城」
名前を呼ばれて振り向く。
名取がこちらを見ていた。
「どうだった?」
「まあまあ」
「何それ」
「名取は?」
「できたよ」
迷いなく答える。
「相変わらずだな」
「今回は何位狙い?」
「できれば前より上」
「前って四位だっけ?」
「うん」
「じゃあ三位以内?」
「簡単に言うなよ」
名取が笑う。
「でも狙うんでしょ?」
「まあね」
「じゃあ頑張って」
「もうテスト終わったんだけど」
「あ、そっか」
「適当だな」
「じゃあ、結果を祈ってあげる」
「もっと適当になったな」
笑いながら言ったものの、三位以内というのは簡単じゃない。
名取と三島は、明らかに勉強ができる。
成瀬も普段は勉強ばかりしているようには見えないのに、成績はいつも上位だ。
本宮だってそうだ。
あいつは授業も真面目に聞いているし、テスト前になるとかなり勉強している。
俺も勉強は苦手じゃない。
でも、あいつらを簡単に抜けるほど頭がいいとも思っていなかった。
◇
テストが終われば、学校の空気は一気に夏休みへ向かう。
部活も通常通りに戻り、昼休みには夏休みの予定ばかりが話題に上がるようになった。
そして数日後。
「……八位か」
廊下に貼り出された順位表の前で、俺は呟いた。
一位、名取桃香。
二位、三島由香。
三位、成瀬健太。
四位、本宮健吾。
そこから何人かの名前が続き――
八位、矢城勇真。
「矢城、八位?」
隣から高石が順位表を覗き込む。
「うん」
「十分じゃん」
「いや、前が四位だったからな」
「悔しい?」
「そりゃ悔しいよ」
もう少しいけると思っていた。
三位以内。
そこまで届かなくても、せめて前回と同じくらいには残れると思っていた。
だから、八位という数字を見て何とも思わないわけじゃない。
「勉強不足だったかな……」
「部活も始まったしな」
「それ言い訳にしたくないんだよな」
「真面目か」
「高石は?」
「聞くな」
「何位?」
「聞くなって」
「俺より下?」
「矢城」
「はい」
「友達やめるぞ」
「ごめんなさい」
高石が俺の肩を小突く。
思わず笑った。
もう一度、順位表を見る。
八位。
入学して最初の学力確認テストでは四位だった。
順位だけを見れば、落ちている。
それでも、あの頃の俺と今の俺では、学校で過ごしている時間が全然違う。
バスケ部に入った。
放課後は体育館で走り回っている。
堀井や成瀬、高石たちと話す時間も増えた。
林と一緒に帰る日もある。
休日にみんなで遊びにも行った。
勉強以外に使う時間は、間違いなく増えている。
もちろん、それを理由に成績が落ちてもいいとは思わない。
次はもっと勉強したいし、八位より上へ行きたい。
でも。
全部を捨てて勉強だけして、一位になればそれでいいのかと言われると――今は違うと思える。
勉強も頑張りたい。
部活も頑張りたい。
友達とも遊びたい。
林との時間だって大切にしたい。
全部で一番にならなければ、勝ち組じゃない。
以前の俺なら、そんなふうに考えていたかもしれない。
でも今は、自分が大切にしたいものを全部大切にしながら、その中で頑張ればいいんじゃないかと思う。
「次は上がる」
「まだ狙うの?」
高石が笑う。
「当たり前だろ」
「八位でも十分じゃん」
「十分なのと、悔しくないのは別」
「なるほどね」
その時、後ろから声がした。
「矢城」
振り返る。
名取だった。
「八位だったね」
「見た」
「残念でした」
「ちょっと嬉しそうじゃない?」
「気のせい」
「絶対嬉しそう」
「だって矢城、三位以内狙うって言ってたから」
「次は狙う」
「また?」
「次こそ」
名取が笑う。
「じゃあ頑張って」
「名取も一位おめでとう」
「ありがとう」
一位。
普通なら、もっと喜んでもよさそうなものだ。
でも名取は、順位表を見上げてもそれほど嬉しそうには見えなかった。
「名取?」
「何?」
「いや……一位なのに、あんまり喜ばないんだなと思って」
今回は聞いてみた。
名取は少し驚いた顔をする。
「嬉しいよ?」
「そう?」
「一位だもん」
「ならいいけど」
「何それ」
笑っている。
でも、その笑顔の奥に何かがあるような気がした。
俺が八位を悔しいと思うのとは、少し違う何か。
「じゃあ次も負けないから」
名取が言う。
「俺も次はもっと上行くよ」
「まず七位?」
「刻むなよ!」
名取が笑いながら去っていく。
その横を三島が通った。
「三島、二位おめでとう」
「ありがとう」
「惜しかったな」
「別に」
「悔しくないの?」
三島は少し考えてから答える。
「悔しいけど、間違えたところは分かってるから。次に間違えなければいいでしょ」
「……強いな」
「何が?」
「いや、何でもない」
二位で悔しがっているのに、感情より先に次の改善点を考えている。
やっぱり三島は頭がいい。
俺とは少し種類が違う。
そう思った。
◇
「六十二点!」
教室へ戻ると、栗原が答案を掲げていた。
「勝った!」
「何に?」
清水が聞く。
「赤点に!」
「目標低すぎ」
「千尋何点?」
「……六十七」
「五点しか違わないじゃん!」
「五点も違うの」
「同じ仲間だと思ってたのに!」
「勝手に仲間にしないで」
「裏切り者!」
「何を裏切ったのよ」
俺は思わず笑った。
順位表の前では一位だ二位だと競っていたのに、教室へ戻れば六十二点を本気で喜んでいる奴もいる。
それぞれ目標が違う。
当たり前のことなのに、少し前の俺なら全員を同じ物差しで見ていたのかもしれない。
◇
昼休み。
俺と堀井は購買から戻る途中だった。
「夏祭り、結構な人数になりそうだな」
「そうだな」
「林さんも来るんだろ?」
「うん」
「へえ」
「何?」
「別に」
「その顔やめろ」
「何も言ってないじゃん」
「佐藤みたいになってきたぞ」
「それは嫌だな」
「本人に言うなよ」
二人で笑いながら階段を上がる。
その途中。
「……あ」
前方を歩いている三人組に気づいた。
見覚えがある。
この前、廊下ですれ違った上級生たちだ。
今日も三人で固まっている。
「どうした?」
堀井が聞く。
「いや、前に見たことあるなって」
「知り合い?」
「全然」
そのまま通り過ぎようとした時だった。
三人のうち一人が小さく言う。
「今日どこ行く?」
「いつものとこ無理だろ」
「昨日先生いたし」
「じゃあ、また探すしかねえじゃん」
また似たような話をしている。
俺は少しだけ歩く速度を落とした。
「矢城?」
「……何でもない」
上級生たちは階段を上がり、そのまま別の廊下へ消えていった。
「何?」
「前にさ、校内でタバコ吸ってる奴がいるって話あっただろ」
「ああ」
「あの人たち、もしかしたらそうなのかなって」
「見たの?」
「いや。吸ってるところは見てない」
「じゃあ分かんないな」
「そうなんだよな」
ただの会話かもしれない。
俺が噂を知っているから、それらしく聞こえているだけかもしれない。
それにハマヤンからも、見つけたら先生へ言えと言われている。
今のところ、俺が先生へ伝えられるようなものは何もなかった。
「行こうぜ。パンなくなる」
「もう買ってるだろ」
「あ、そうだった」
「大丈夫か?」
くだらない会話をしながら、俺たちは教室へ戻った。
◇
放課後。
体育館へ向かう途中、廊下の掲示板に夏休みの日程表が貼られていた。
終業式まで、あと一週間もない。
夏休み。
部活。
夏祭り。
林と出かけることだってあるかもしれない。
前の俺なら考えもしなかった予定が、少しずつ増えている。
「矢城!」
前から高石が走ってきた。
「急げ!」
「何?」
「芹沢先生、もう体育館いる」
「まだ時間あるだろ?」
「『時間があるなら練習できるわね』だって」
「横暴だ!」
「本人に言えよ!」
「言えるわけないだろ!」
二人で体育館へ急ぐ。
扉を開けると、芹沢先生が腕を組んで待っていた。
「遅い」
「まだ時間前です!」
「高石から聞きました!」
「矢城、お前!」
「仲間は売るものだ」
「最低だな!」
芹沢先生がため息をつく。
「元気そうね」
「はい!」
「じゃあアップ多めで」
「何で!?」
「元気だから」
「理不尽!」
「矢城、あと五本追加」
「まだ何も走ってないのに!」
高石が腹を抱えて笑っている。
その笑い声につられて、俺も笑った。
◇
練習が終わり、夕方。
体育館から校舎へ戻る途中で、ふと鼻を動かした。
「……ん?」
一瞬、何か焦げたような匂いがした気がした。
でも、すぐに消えた。
「どうした?」
高石が振り返る。
「いや、何か臭わなかった?」
「汗?」
「お前の?」
「お前だろ」
「違うわ」
高石が自分のシャツを嗅いで顔をしかめる。
「……俺かもしれない」
「認めるなよ」
「部活終わりなんだから仕方ないだろ」
二人で笑いながら歩く。
俺も、それ以上は気にしなかった。
校舎のどこかから漂ってきた匂いなのか。
外から流れてきたものなのか。
それとも、本当に高石の汗だったのか。
その時の俺には分からなかった。
ただ一つ確かなのは。
校内でタバコを吸っているという噂は、まだ消えていなかった。




