第37話 夏の予定
七月七日。
期末テストまで、あと三日。
教室の空気は、体育祭前とはまるで違う意味で落ち着かなかった。
「終わった……」
朝から机に突っ伏している栗原の声には、すでに敗者のような響きがある。
「まだ始まってもないけど」
俺が言うと、栗原は顔だけをこちらへ向けた。
「矢城には分かんないよ。勉強できる人には、できない人の気持ちなんて分かんないんだよ」
「俺も勉強しないと点取れないよ」
「でも前のテスト四位でしょ?」
「そうだけど」
「敵じゃん」
「何の?」
「赤点回避を目指す者の敵」
「基準がおかしいだろ」
「友香、喋ってないでやるよ」
隣でプリントを広げていた清水が、呆れたように言った。
「千尋だって危ないじゃん」
「だからやってんでしょ」
「えらい!」
「うるさい」
栗原が笑いながら清水の肩にもたれかかる。
「ねえ矢城、ここ教えて」
「どこ?」
「全部」
「無理」
「即答!?」
「全部分からないなら、まず教科書読めよ」
「正論って人を傷つけるんだよ?」
「三島みたいなこと言うな」
名前を出した瞬間、近くで問題集を読んでいた三島が顔を上げた。
「私を何だと思ってるの?」
「正論で人を刺す人」
「間違ってないわね」
「認めるんだ」
三島は平然と答えると、また問題集へ目を落とした。
そのやり取りを見ていた清水が吹き出す。
朝から騒がしい。
でも、悪くない。
むしろ俺は、こんな時間が好きになっていた。
◇
昼休み。
「なあ、夏休みどっか行かね?」
佐藤の一言から、話が始まった。
俺と堀井、成瀬、高石、伊藤、佐藤。
そこへ名取と浅井まで加わり、机を囲んでいる。
「まだ期末終わってないけど」
高石が言う。
「だからこそだろ。楽しいこと考えないと勉強なんかやってらんねえって」
「拓哉、そんなに勉強してないじゃん」
名取が笑う。
「名取さん。世の中には心の勉強というものがあってね」
「ないよ」
「即答!?」
堀井が笑う。
「海とか?」
「暑い」
伊藤が却下した。
「夏に暑いって言ってたらどこも行けないだろ」
「涼しいとこ行こうぜ」
「どこ?」
「家」
「それ遊びに行ってないじゃん」
話がまとまらない。
「夏祭りあるよね」
浅井が言った。
「八月の最初の方に」
「ああ、あるな」
高石が頷く。
「去年行った」
「じゃあみんなで行く?」
「いいじゃん」
佐藤がすぐに乗る。
名取も「楽しそう」と笑った。
夏祭り。
浴衣。
屋台。
花火。
そこまで想像したところで、なぜか最初に林の顔が浮かんだ。
「……」
「矢城?」
名取に呼ばれて我に返る。
「何?」
「今、誰か誘おうとしてた?」
「何で分かるの?」
「顔」
「最近みんな俺の顔読みすぎじゃない?」
「分かりやすいんだよ」
佐藤が笑う。
「林さん?」
「まだ何も言ってないだろ!」
「当たりか」
「お前ほんとそういうのだけ鋭いな」
「そういうのだけは余計」
周りから笑いが起こる。
名取も笑っていた。
でも一瞬だけ、その笑顔が止まったように見えた。
ほんの一瞬だったから、俺の気のせいかもしれない。
「林も誘えばいいじゃん」
浅井が言う。
「みんなで行くなら人数多い方が楽しいし」
「そうだな」
俺も頷いた。
林が大人数の中に入るのが得意じゃないことは知っている。
でも、だからといって勝手に「行きたくないだろう」と決めるのも違う。
誘うだけ誘って、決めるのは林だ。
六月二十六日の繰り返しを経験してから、そう考えられるようになった。
◇
昼休みが終わる少し前。
飲み物を買うため、俺は一人で廊下を歩いていた。
窓から入ってくる風は生ぬるく、外では蝉の声が聞こえている。
「暑……」
自動販売機へ向かう途中、階段の方から何人かの男子生徒が上がってきた。
上履きの色を見る限り、上級生だ。
三人。
制服を少し着崩し、大きな声で話している。
「マジでバレそうだったじゃん」
「お前がビビりすぎなんだよ」
「いや、あれは普通に焦るだろ」
俺は特に気にせず、横を通り過ぎようとした。
「次どこ行く?」
「知らね。あそこもう無理じゃね?」
「じゃあ別のとこ探すか」
何の話かは分からない。
ただ、なんとなく。
数日前に聞いた噂が頭をよぎった。
校内でタバコを吸っている上級生がいる。
でも、証拠なんて何もない。
ただ制服を着崩しているだけで、勝手に決めつけるのも違う。
俺はそのまま通り過ぎた。
「……」
一度だけ振り返る。
三人は俺のことなど気にした様子もなく、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
それだけだった。
◇
放課後。
「矢城くん」
昇降口で林が待っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところ」
二人で学校を出る。
日差しはまだ強く、アスファルトから熱気が上がっていた。
「暑いね」
「暑い」
「夏ってこんな暑かったっけ」
「毎年言ってる気がする」
「私も」
林が笑う。
しばらく歩いたところで、昼休みの話を思い出した。
「林」
「ん?」
「八月の最初くらいに夏祭りあるじゃん」
「うん」
「みんなで行こうって話してて」
林の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。
「みんな?」
「成瀬とか高石とか、名取とか浅井とか。たぶん他にも増えると思う」
「そうなんだ」
「林もどう?」
「……私?」
「うん」
林は少し迷っているようだった。
やっぱり大人数は苦手なのかもしれない。
以前の俺なら、ここで「無理しなくていい」と先回りしていた気がする。
でも、今は待つ。
「行きたい」
やがて林が言った。
「ほんと?」
「うん。でも……」
「でも?」
「人多いの、ちょっと苦手だから」
「知ってる」
「……うん」
「俺もいるし」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
林がこちらを見る。
「……うん」
小さく笑った。
「じゃあ行く」
「決まりだな」
「楽しみ」
「俺も」
夏祭り。
前の高校生活では、クラスメイトと行った記憶なんてない。
今年は違う。
それだけで、八月が少し楽しみになった。
◇
家へ帰ると、リビングから父さんの声が聞こえた。
「勇真ー!」
「何?」
「ちょっと来い!」
何事かと思って行くと、父さんがスマホを持って待っていた。
「これ見ろ」
「何?」
画面には、通販サイトの商品ページが表示されていた。
「育毛剤?」
「違う」
「書いてるけど」
「これは未来への投資だ」
「気にしてるじゃん」
「気にしてない!」
「買えば?」
「お前、簡単に言うなよ。高いんだぞ」
「じゃあやめれば」
「息子が冷たい!」
母さんが台所から言う。
「あなた、この前『まだハゲてない』って言ってなかった?」
「ハゲてないから守るんだよ!」
「何を?」
「残された仲間たちを」
「髪を仲間って呼ぶなよ……」
くだらない。
でも、笑ってしまう。
学校では夏祭りの予定ができて、家へ帰れば父さんが育毛剤で騒いでいる。
そんな何でもない一日だった。
◇
夜。
机に向かい、期末テストの勉強をしていると、昼休みに見た三人の上級生をふと思い出した。
『マジでバレそうだったじゃん』
『次どこ行く?』
もしかしたら、タバコの噂と関係があるのかもしれない。
でも、それだけだ。
実際に吸っているところを見たわけでもない。
ハマヤンも言っていた。
変に首を突っ込まず、見つけたら先生に言え。
「……まあ、いいか」
考えるのをやめて、問題集へ目を戻した。
証拠もないのに疑う必要はない。
少なくとも、その時の俺には。
あの三人を気に留める理由なんて、それ以上なかった。




