第36話 悪い噂
七月二日。
六月二十六日を何度も繰り返したのが嘘だったように、それからの日々は何事もなく進んでいた。
期末テストが近づいた教室では、休み時間になるたびに「全然勉強してない」「今回マジでやばい」といった声があちこちから聞こえてくる。
もっとも、本当に勉強していない奴がどれだけいるのかは怪しい。
「やばい」
隣から聞こえた声に顔を向ける。
清水が机の上に広げたプリントを見つめていた。
「どうした?」
「何も分かんない」
「まだ問題見たばっかりだろ」
「見た瞬間に分かんないって分かった」
「それはもう才能だな」
「うるさい」
清水がプリントを俺の方へ押してくる。
「教えて」
「はいはい」
少し前の俺なら、清水が詰まる前に教えようとしていたかもしれない。
今は違う。
本人が聞いてきた。
だから教える。
「ここは――」
「待って」
「何?」
「答えじゃなくて、最初だけ」
「最初?」
「どれ使うか分かったら自分でやる」
「……了解」
使う公式だけを教える。
清水はしばらく問題と睨み合い、途中で二度ほど式を書き直した。
それでも最後には答えまで辿り着く。
「できた」
「やればできるじゃん」
「最初からできる人みたいに言わないで」
「褒めたのに」
「上からなのがムカつく」
「難しいな……」
そんなやり取りをしていると、栗原がこちらへやってきた。
「千尋、勉強してんの?」
「してるけど」
「期末テストってそんなに大事?」
「赤点取ったら補習なんでしょ」
「……」
栗原の笑顔が消えた。
「矢城」
「何?」
「私にも教えて」
「お前も危ないのかよ」
「夏休みを補習で潰したくない!」
「そこが動機なんだ」
「十分でしょ!」
清水が呆れたように笑う。
少し前なら、この二人とこんなふうに話すことすら考えられなかった。
それが今では、特別なことでもなくなっている。
日付が進むことと同じように。
俺の学校生活も、少しずつ当たり前のものになり始めていた。
◇
昼休み。
俺は堀井、成瀬、高石と机を囲んで昼飯を食べていた。
「期末終わったら夏休みだな」
堀井が嬉しそうに言う。
「まだ三週間くらいあるだろ」
「高石、そういう現実的なこと言うなよ」
「現実だろ」
「気持ちはもう夏休みなんだよ」
「それ一番駄目なやつじゃん」
成瀬が笑う。
「矢城は夏休み何すんの?」
「まだ決めてない」
「部活あるだろ」
「それはあるけど」
夏休み。
その言葉を聞いて、少しだけ考える。
前の高校生活で、俺は夏休みに何をしていただろう。
たぶん家にいることが多かった。
友達と遊んだ記憶もほとんどない。
今年は違うのかもしれない。
そんなことを考えていると、少し離れたところから佐藤の声が聞こえてきた。
「マジらしいよ」
「何が?」
伊藤が聞き返している。
「タバコ」
「またその話?」
その単語が耳に入り、俺もそちらを見る。
「何の話?」
高石が聞くと、佐藤がこちらへ顔を向けた。
「知らない? 二年か三年の誰かが学校でタバコ吸ってるって噂」
「学校で?」
「そう」
堀井が眉をひそめる。
「普通に駄目じゃん」
「普通に駄目だよ」
成瀬が苦笑した。
「どこで吸ってるの?」
「それは知らない。トイレとか、校舎裏とか色々言われてるけど」
「先生にバレてないの?」
「何回か吸い殻見つかってるらしい」
「うわ……」
俺は思わず顔をしかめた。
伊藤はあまり興味がなさそうにパンを食べている。
「ほっときゃいいだろ」
「レオ、そういうの嫌いそうなのに」
佐藤が言う。
「嫌いだけど、わざわざ探して説教しに行くほど暇じゃねえよ」
「それはそう」
「てか、学校で吸う意味が分かんねえ」
「悪いことしてる俺カッケー、じゃない?」
「ダセえ」
伊藤が即答した。
なんとなく笑いが起きる。
俺もそれ以上気にしなかった。
学校でタバコを吸っている上級生がいる。
ただ、それだけの話だった。
◇
午後のホームルーム。
ハマヤンが教卓の前に立つと、出席簿を置いた。
「連絡するぞー。まず期末テストについて」
「聞きたくないでーす」
誰かが言う。
「先生も言いたくありませーん」
「じゃあやめよう!」
「それ採用すると俺が怒られるから却下」
教室に笑いが起きる。
「赤点取った奴には楽しい楽しい補習が待ってるからな」
「楽しくない!」
「俺は楽しいぞ。夏休みまでお前らと会える」
「先生だけじゃん!」
「愛されてるな、お前ら」
ハマヤンが笑う。
いつもの調子だった。
でも、そのあと少しだけ声が変わった。
「それと、もう一個」
教室が静かになる。
「最近、校内でタバコの吸い殻が何度か見つかってる」
昼休みに聞いた話だ。
何人かが「あー」と声を上げた。
「噂になってるから知ってる奴もいると思うけど、先生たちも確認してる」
ハマヤンは教室を見渡した。
「お前ら一年が関係してるとは思ってない。でも、もし吸ってる奴を見かけても、自分たちで注意しに行くなよ」
「なんで?」
誰かが聞く。
「揉めたら面倒だから。特に相手が上級生ならなおさらだ」
ハマヤンは軽い口調を保ちながらも、はっきりと言った。
「見つけたら先生に言え。それでいい」
「チクったって言われません?」
「その時は先生がチクったことにする」
「どうやって?」
「そこは大人の力で何とかする」
「便利だな、大人!」
「便利だぞ。お前らも早くなれ」
また笑いが起こった。
ハマヤンも笑っていたが、最後にもう一度だけ念を押した。
「冗談抜きで、変に首突っ込むなよ。分かったな?」
「はーい」
クラス全体から返事が上がる。
俺もその中に混じっていた。
◇
放課後。
部活へ向かおうとしていると、廊下で林と会った。
「矢城くん」
「林」
「今日も部活?」
「うん」
「そっか」
「明日は?」
「明日?」
「一緒に帰らない?」
林が少し驚いたあと、すぐに笑った。
「うん」
「じゃあ明日」
「約束ね」
「うん」
林の鞄には、今日もペンギンのキーホルダーが揺れている。
それを見ると、少しだけ嬉しくなる。
「そういえば」
林が声を落とした。
「さっき先生が言ってたタバコの話、ちょっと怖いね」
「まあね」
「矢城くん、見つけても注意しに行ったりしないでね」
「俺?」
「なんか……行きそうだから」
「行かないよ」
本当にそう思った。
わざわざ上級生の喫煙を止めに行く理由なんてない。
「先生に言う」
「ならいいけど」
林が少し安心したように笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
手を振って別れる。
俺はそのまま体育館へ向かった。
◇
「矢城、遅い」
体育館へ入った瞬間、芹沢先生に言われた。
「まだ時間前です!」
「準備してないでしょ」
「それ込みですか?」
「当然」
「厳しくないですか?」
「あとで走る?」
「準備します!」
急いで更衣室へ向かうと、高石が笑っていた。
「お前、よく毎回突っ込めるよな」
「俺も最近そう思う」
「学習しろよ」
「高石もこの前言い返してたじゃん」
「あれは事故」
「言い訳するな」
着替えてコートへ向かう。
いつもの体育館。
いつもの部活。
いつもの声。
外では蝉が鳴き始めていた。
夏が近づいている。
期末テストが終われば、夏休み。
その前に林と一緒に帰って、みんなで遊ぶ約束だってするかもしれない。
今年の夏は、前とは違う。
そんなことを考えながら、俺はボールを追いかけた。
昼休みに聞いたタバコの噂なんて、その頃にはもう頭から消えていた。




