第35話 父親という生き物
六月二十九日。
あれだけ俺を苦しめた六月二十六日を抜けてから、三日が経った。
二十七日、二十八日、そして今日。
朝を迎えるたび、日付は当たり前のように進んでいる。
だからといって、もう何も考えなくなったわけではない。清水が問題に悩んでいれば答えを教えたくなるし、伊藤と本宮の雰囲気が悪くなれば間に入りたくなる。
そんな時は、一度だけ考えるようになった。
本当に今、俺が何かする必要があるのか。
助けることと、相手の代わりにやることは違う。
たったそれだけのことなのに、意識してみると案外難しい。
それでも学校生活は平和だった。
部活へ行き、友達と話し、時々林と一緒に帰る。
そして今日は部活もなく、珍しく早い時間に家へ帰ってきていた。
◇
「ただいま」
「おかえりー」
リビングから母さんの声が返ってくる。
鞄を置いて冷蔵庫を開けると、麦茶を取り出した。
「勇真、今日早いね」
「部活ないから」
「林さんとは帰らなかったの?」
「ブッ!」
危うく麦茶を吹き出しかけた。
「なんでそこで林が出てくるんだよ」
「最近よく一緒に帰ってるんでしょ?」
「毎日じゃないって」
「でも仲いいんでしょ?」
「……まあ」
「へえ」
「何だよ」
「別に?」
絶対に別にじゃない。
母さんは楽しそうに笑いながら、夕飯の準備へ戻った。
最近、家で学校の話をすることが増えたせいで、母さんは俺のクラスメイトの名前をかなり覚えている。
林だけじゃない。
名取、成瀬、高石、堀井、伊藤、清水。
俺が何気なく話した名前まで覚えているから、時々驚かされる。
前の俺は、そもそも家で学校の話なんてほとんどしなかった。
聞かれても「普通」とか「別に」と答えて終わり。
だから母さんにとっても、今の俺はかなり変わって見えるのかもしれない。
麦茶を飲み終え、自分の部屋へ戻ろうとした時だった。
玄関が開く音がした。
「ただいまー! 今日も日本経済を支えてきたぞー!」
聞き慣れた大声が家中に響く。
母さんが台所から顔も出さずに返した。
「あなた一人で支えてるなら、日本はもう終わってるわよ」
「帰宅一発目で心を折るのやめてくれない?」
父さん――矢城進が、ネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた。
四十代後半。
会社員。
そして、家にいる時はとにかくよく喋る。
「お、勇真。いたのか」
「いるよ」
「最近帰るの遅いから、父さん寂しかったぞ」
「部活だから」
「知ってる。お前が青春してる間、父さんは汗水垂らして働いてる」
「汗水垂らす仕事じゃないでしょ」
「心の汗だ」
「意味分かんない」
父さんは冷蔵庫を開けると、麦茶を取り出した。
「それより聞いてくれ。今日、会社で若い社員に言われたんだよ」
「何て?」
「『矢城さん、髪型変えました?』って」
「へえ」
「変えてない」
「じゃあ何で?」
父さんが真顔で俺を見る。
「……減ったのかもしれない」
「知らないよ」
「勇真!」
「何だよ」
「父親の重大な悩みにその反応はないだろ!」
騒いでいると、母さんが台所から顔を出した。
「あなた前からおでこ広いじゃない」
「広くない。まだハゲてない。ちょっと額が未来に進んでるだけだ」
「後退してるんでしょ?」
「違う。額が前進してるんだ」
「名前の通りね」
「うまいこと言うなあ」
父さんが満足そうに頷く。
何で褒めるんだ。
「そうだ」
父さんが急に俺を見る。
「勇真、友達増えたらしいな」
「まあ」
「バスケ部にも入ったんだろ?」
「うん」
「彼女は?」
「なんでそうなるんだよ!」
「学校、友達、部活と来たら次は彼女だろ」
「順番がおかしい」
「おかしくない。父さんの高校時代は――」
「あなたの高校時代の話は長いからいいわよ」
「まだ何も話してない!」
「どうせモテた話でしょ?」
「まあな」
「八割くらい盛ってるから聞かなくていいよ、勇真」
「二割は本当なんだよ!」
どうでもいい。
俺が呆れていると、母さんが何でもないような口調で言った。
「勇真、最近は林さんとよく一緒に帰ってるわよ」
父さんの動きが止まった。
「……林さん?」
「母さん!」
「何?」
「余計なこと言わなくていいから!」
父さんがゆっくり俺を見る。
さっきまでふざけていた顔が消えている。
「勇真」
「何だよ」
「女?」
「言い方!」
「女の子なのか?」
「……そうだけど」
父さんが麦茶を置いた。
俺の両肩を掴む。
「父さん、お前の成長が嬉しい」
「何の成長だよ!」
「この前まで家でゲームしてた息子が……」
「今もするよ!」
「ついに女の子と二人で帰るように……」
「帰るだけだって!」
「手は?」
「は?」
「手は繋いだのか?」
「繋いでない!」
「キスは?」
「するわけないだろ!」
「どこまで――」
「あなた」
母さんの低い声が飛んできた。
「はい」
「気持ち悪い父親になってるわよ」
「すみません」
父さんが俺から手を離した。
弱い。
「でも、林さんかあ」
父さんはニヤニヤしながら椅子に座る。
「どんな子?」
「普通」
「勇真」
「何?」
「女の子を『普通』で片づける男はモテないぞ」
「別にモテようとしてないし」
「嘘つけ。高校生男子なんて九割はモテたいと思ってる」
「残り一割は?」
「もっとモテたいと思ってる」
「全員じゃん」
「男なんてそんなもんだ」
「勇真、この人の言うこと真に受けちゃ駄目だからね」
「分かってる」
「おい、父親の威厳!」
そんなもの、最初からどこにもない。
◇
夕飯の間も父さんはよく喋った。
会社の後輩がどうとか、昼に食べたラーメンがどうとか、駅で見かけた犬が自分よりいい顔をしていたとか。
どうでもいい話ばかりだ。
でも。
俺は昔から、この時間が嫌いではなかった。
「そういえば勇真」
父さんが味噌汁を飲みながら言う。
「最近、学校楽しいか?」
「え?」
急に普通の質問をされて、少し戸惑った。
「楽しいけど」
「そうか」
それだけ言って、父さんはまた味噌汁を飲む。
「何?」
「いや」
少し笑った。
「前は学校のこと聞いても、『普通』『別に』『まあまあ』しか言わなかったからな」
母さんも頷く。
「ほんと。最近はよく喋るようになったよね」
「そんなに?」
「そんなに」
自分では気づいていなかった。
前の俺にとって、学校はただ行く場所だった。
卒業するために通って。
授業を受けて。
できるだけ目立たずに一日を終える。
それだけだった。
でも今は違う。
明日学校へ行けば、誰かがいる。
林がいる。
堀井がいる。
成瀬や高石、伊藤や佐藤がいる。
名取や清水たちもいる。
部活だってある。
「……楽しいよ」
改めて答えた。
「前より、ずっと」
父さんが少しだけ目を細めた。
「ならいい」
「それだけ?」
「それだけだよ」
父さんは笑う。
「高校なんて三年しかないんだから、楽しめる時に楽しんどけ」
「……三年」
「長いようで短いぞ。父さんなんて高校卒業したの昨日くらいの感覚だからな」
「それは無理あるでしょ」
「心は十八歳だ」
「頭は?」
「二十歳」
「何で二歳上がったんだよ」
「酒が飲みたいから」
「設定が雑すぎる」
父さんが笑い、母さんが呆れる。
俺も笑った。
でも。
三年しかない。
その言葉だけが、少し胸に残った。
普通なら、その通りだ。
高校生活は三年間しかない。
でも俺は、同じ一日を何度も繰り返す。
これから先もそうなのかは分からない。
俺だけが、この三年間を実際にはどれほど長く過ごすことになるのかも分からない。
それでも。
今は、早く終わってほしいとは思わなかった。
むしろ。
この毎日が続いてほしいとさえ思っていた。
◇
夕飯を終え、自分の部屋へ戻ろうとすると、父さんに呼び止められた。
「勇真」
「何?」
「ちょっと」
二人でリビングに残る。
母さんは風呂の準備へ向かっていた。
「何だよ」
「いや、大した話じゃないんだけどな」
父さんがソファに座る。
「お前、昔から変なところで無茶するから」
「俺が?」
「覚えてない?」
「何を?」
「小学生の時、公園で知らない子が木から降りられなくなって、お前まで登っただろ」
「……あったっけ?」
「あったよ。二人揃って降りられなくなった」
「駄目じゃん」
「駄目だった」
父さんが笑う。
「助けに行ったお前まで泣いてたからな」
「最悪だな」
「でもまあ」
父さんは少しだけ表情を緩めた。
「昔からそういうところはあったよ、お前」
「そういうところ?」
「誰かが困ってると、変なところで考えるより先に動く」
「……」
胸の奥に、小さな違和感が走った。
道路。
小さな背中。
誰かに向かって叫んだ、自分の声。
『――お願い!』
一瞬だけ、頭の奥に何かが浮かんだ。
「勇真?」
「……いや、何でもない」
すぐに消えた。
父さんは少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は聞かなかった。
「人を助けるのはいいことだと思う」
「うん」
「でもな」
父さんが俺を見る。
いつものふざけた顔ではなかった。
「無茶だけはするなよ」
「……急に何だよ」
「親だから言ってんの」
「大丈夫だって」
「ならいい」
そう言った次の瞬間には、もういつもの顔に戻っていた。
「というわけで、林さんを家に連れてくる時は三日前までに父さんに言うように」
「何で?」
「美容院行くから」
「必要ないだろ」
「第一印象大事だぞ?」
「会わせるなんて言ってない!」
「お父さんと呼ばれる日のために――」
「早すぎるわ!」
思わず大声を出すと、廊下から母さんの声が飛んできた。
「あなた、勇真で遊ぶのやめなさい!」
「はーい」
「返事だけはいいな!」
父さんが笑う。
俺も呆れながら、自分の部屋へ向かった。
この時の俺は、父さんの言葉を深く考えていなかった。
人を助けるのはいい。
でも、無茶だけはするな。
そんなのは、親なら誰でも言うような言葉だと思っていた。
そして俺自身も。
自分がその言葉を思い出すことになる日が、そう遠くないことを知らなかった。




