第34話 失敗してもいい
六月二十六日。
四度目の朝。
スマホに表示された日付を見ても、もう驚かなかった。
昨日までの俺なら、起きた瞬間から今日起こる出来事を並べていただろう。
林が何を言うのか。
清水がどの問題で詰まるのか。
伊藤がプリントを忘れていることも、堀井が体育で足をつることも、名取が放課後に大量のプリントを運ぶことも知っている。
全部、覚えている。
だから先回りできる。
誰かが困る前に助けて、失敗する前に教えて、揉める前に止めることだってできる。
実際、昨日はそうした。
その結果、ほとんど何も起こらなかった。
なのに日付は進まなかった。
「……みんなの一日を、俺が決めてたのか」
口にすると、昨日よりはっきり分かった気がした。
俺はみんなのためだと思っていた。
でも本当は、戻されたくなかっただけなのかもしれない。
誰かが失敗するたびに、それが自分の失敗として判定されるんじゃないかと怖かった。
だから、全部うまくいかせようとした。
でも。
清水が言っていた。
『私の時間なんだから』
堀井は笑っていた。
『つったら休むよ』
芹沢先生にも言われた。
『バスケットは、あなた一人でやるスポーツじゃないわ』
そしてハマヤンは、
『全部の失敗が、悪いもんでもないだろ』
そう言った。
何もしない方がいい、ということではないはずだ。
目の前で誰かが本当に困っているなら、俺はたぶん放っておけない。
危ないなら止めたいし、助けを求められたら手を貸したい。
でも。
まだ何も起きていないのに、その人が何をするのかまで俺が決めるのは違う。
「……やってみるか」
正解かどうかは分からない。
むしろ今までより、失敗の多い一日になるかもしれない。
それでも今日は、みんなの一日を俺が作るのをやめてみようと思った。
◇
「矢城くん、おはよう」
「おはよう、林」
教室へ入ると、いつものように林が声をかけてきた。
次に何を言うのかは知っている。
それでも、待った。
「今日、部活ある?」
「あるよ」
「そっか」
ほんの少し残念そうな顔をする。
その顔を見た瞬間、昨日までの癖で言葉が出そうになった。
今日、部活が終わったら一緒に帰ろう。
そう言えば林は喜ぶ。
でも、最初の六月二十六日に俺がしたことは違った。
「明日はないけど」
「ほんと?」
「うん。一緒に帰る?」
「……うん」
林が笑った。
俺も笑う。
それでいい。
今日、一緒に帰る方が正解なわけでも、明日一緒に帰る方が正解なわけでもない。
俺は今日部活がある。
林とは明日、ゆっくり帰りたい。
それだけだった。
「おーおー、朝からいいねえ」
後ろから佐藤の声が聞こえる。
何を言うのかも分かっている。
でも、先に止めなかった。
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「被害妄想じゃない?」
「そのニヤニヤやめろ」
昨日までと同じやり取り。
佐藤が笑う。
林が少し照れる。
俺も恥ずかしい。
完璧じゃない。
でも、不思議と昨日より自然だった。
◇
二時間目の数学。
清水がプリントを睨み始めた。
「……やば」
知っている。
そこだ。
その問題で詰まる。
教えればすぐに解ける。
俺は一度、清水の方を見た。
でも、声はかけなかった。
清水はしばらく式を書いては消し、また書いていた。
「……違う」
消しゴムを使う。
もう一度書く。
「これでもない……」
手を出したくなる。
答えは分かっている。
どこで間違っているのかも分かる。
それでも待った。
やがて清水がこちらを向いた。
「矢城」
「ん?」
「ちょっと教えて」
「いいよ」
椅子を少し寄せる。
「どこ?」
「ここ。どの公式使うのか分かんない」
「これは――」
説明すると、清水は「ああ」と小さく声を出した。
「そっか。そっちか」
「うん。ここまでは合ってる」
「じゃあ……こう?」
「そう」
「できた」
清水が少し満足そうにプリントを見る。
「ありがと」
「どういたしまして」
たったそれだけ。
昨日の俺は、清水が困る前に全部教えようとした。
今日の清水は一度自分で考えて、それでも分からなかったから俺に聞いた。
結果は同じかもしれない。
問題は解けた。
でも、その途中は全然違った。
◇
昼休み。
本宮がこちらへ歩いてくるのが見えた。
俺は伊藤を見る。
プリントはまだ鞄の中だ。
今なら間に合う。
『伊藤、プリント』
そう言えばいい。
それだけで揉め事をなくせる。
「おい、伊藤」
本宮が声をかけた。
「お前、今日提出のプリント出した?」
「あ?」
「朝集めたやつ」
「……忘れてた」
「期限は朝だろ」
「うるせえな。今出せばいいだろ」
「だったら最初から――」
「本宮」
思わず口を挟みそうになった。
でも、止めた。
まだ喧嘩になっていない。
二人とも自分で話せる。
「お前、いちいち細けえんだよ」
「忘れた方が悪いだろ」
「分かったって言ってんだろ」
少し空気が悪くなる。
佐藤がこちらを見る。
俺も二人を見る。
伊藤が舌打ちして鞄を開けた。
「あった」
「なら早く出してこいよ」
「分かってるって」
伊藤が立ち上がる。
そこで終わった。
「……」
何もする必要がなかった。
少し険悪にはなった。
でも、喧嘩にはならなかった。
伊藤が教室を出たあと、本宮も自分の席へ戻っていく。
「矢城」
佐藤が俺を見る。
「何?」
「今、止めるかと思った」
「俺も思った」
「自分で言う?」
「でも、別に俺が入らなくても終わっただろ」
「まあね」
佐藤が笑う。
「レオも毎回殴るほど馬鹿じゃないよ」
「毎回じゃなければ殴るのかよ」
「そこは今後の課題」
「止めろよ」
「それは俺の仕事だからね」
佐藤が伊藤の出ていった扉を見る。
その横顔を見て、俺は少しだけ驚いた。
伊藤のことを一番知っているのは、俺じゃない。
当たり前だ。
佐藤はずっと伊藤の友達なんだから。
◇
午後の体育。
俺は堀井に何も言わなかった。
水分を取れとも、ストレッチをしろとも言わない。
そして、やっぱり途中で堀井が足を押さえてしゃがみ込んだ。
「いてて……」
「堀井?」
「ごめん。足つった」
今度は迷わなかった。
すぐにそばへ行く。
「無理して立つなよ。水ある?」
「ある」
「じゃあ飲んどけ。しばらく休もう」
「うん」
俺も隣にしゃがむ。
「情けねえ」
堀井が苦笑した。
「なんで?」
「体育で足つるとか」
「別にいいじゃん」
「よくないだろ」
「誰でもあるだろ、それくらい」
「そうかな」
「あるって」
堀井は少し笑った。
「矢城って、こういう時は妙に頼りになるよな」
「前にも聞いた気がする」
「え?」
「いや、何でもない」
「普段は頼りないのに」
「そこまでセットなの?」
「褒めてるって」
「絶対嘘だ」
しばらくすると痛みも落ち着き、堀井は自分で立ち上がった。
足をつった。
失敗した、と言えばそうなのかもしれない。
でも、それで何かが壊れたわけじゃない。
休んで、笑って、また戻ればいい。
それだけだった。
◇
放課後。
大量のプリントを抱えた名取が廊下を歩いている。
これも知っていた。
昨日の俺は、名取が頼まれる前に仕事そのものを奪った。
「名取」
「あ、矢城」
「それ重い?」
「見れば分かるでしょ」
「持とうか?」
「大丈夫」
最初の時と同じ答え。
俺は一度、名取の顔を見る。
本当に無理そうなら手伝えばいい。
でも今は、普通に持てている。
「じゃあ頑張れ」
「え?」
名取が目を丸くした。
「何?」
「いや、絶対『半分貸して』とか言うと思った」
「なんで?」
「最近の矢城なら言いそうだから」
「大丈夫って言ったじゃん」
「言ったけど……」
数歩進んだところで。
「あ」
一番上のプリントがずれた。
「危なっ」
名取が慌てて体勢を直す。
「……やっぱ半分持とうか?」
「お願い」
「はい」
半分受け取る。
「最初から素直に頼めばよかった」
「俺も最初から持てばよかった?」
「それは違う」
「どっちだよ」
「私が大丈夫って言ったからでしょ」
名取が笑う。
「でも、今はお願いしたから」
「じゃあ今は持つよ」
「よろしく」
二人で職員室へ向かう。
昨日までと違って、少しだけ遠回りした気がする。
でも。
これでいいのかもしれない。
◇
部活。
ボールを受け取った瞬間、高石が視界の端に入った。
昨日なら、ここで左へ走らせた。
『高石、次左!』
そう言えばシュートまで持っていけることを知っている。
言葉が喉まで出かかった。
でも。
高石を見る。
高石自身もコートを見ている。
次の瞬間。
高石が右へ走った。
昨日とは違う。
ディフェンスも動く。
空いた場所へ先輩が入る。
「先輩!」
俺はそちらへパスを出した。
シュート。
外れた。
「あー!」
「悪い!」
「ドンマイ!」
すぐに守備へ戻る。
点は入らなかった。
昨日は入った。
俺が全部決めた昨日の方が、結果だけならよかった。
でも。
「矢城!」
「はい!」
芹沢先生がこちらを見ている。
「今の判断、悪くないわよ」
「外れましたけど」
「シュートが外れたことと、あなたの判断は別」
「……はい」
「次!」
「はい!」
走り出す。
少しだけ笑った。
そうか。
正しい判断をしても、失敗することはある。
逆に、間違ったやり方でも結果だけはうまくいくことがある。
そんな当たり前のことを、俺はいつの間にか忘れていた。
◇
部活を終えて教室へ戻る。
林はもういない。
今日は一緒に帰らない。
少し寂しい。
でも、明日一緒に帰る約束をしている。
それでいい。
鞄を持って廊下へ出ると、向こうからハマヤンが歩いてきた。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
そのまますれ違いかけて、ハマヤンが止まった。
「矢城」
「はい?」
「今日は普通だな」
「……昨日も普通でしたけど」
「そうか?」
「たぶん」
「ならいい」
ハマヤンが笑う。
「先生」
「ん?」
「失敗って、しない方がいいですよね?」
「また難しいこと聞くな」
「ちょっと気になって」
ハマヤンは少し考えた。
「しなくて済むなら、しない方がいい失敗もあるだろうな」
「……はい」
「でも、失敗するかどうかまで全部先に決めて生きるのは無理だろ」
「そうですね」
「大事なのは、したあとじゃないか?」
「したあと?」
「謝るとか、やり直すとか、次どうするか考えるとか。まあ、失敗の種類にもよるけどな」
ハマヤンはそこで肩をすくめた。
「先生も失敗したらちゃんと反省してくださいね」
「善処します」
「絶対しないやつじゃないですか」
「大人には便利な言葉があるんだよ」
笑いながら歩いていく。
俺も少し笑った。
◇
その夜。
ベッドに寝転びながら、一日を振り返った。
昨日より、うまくいかなかった。
清水は数学で一度つまずいた。
伊藤と本宮は少し険悪になった。
堀井は足をつった。
名取はプリントを落としかけた。
部活ではシュートも外れた。
林とも一緒に帰っていない。
三度目の六月二十六日と比べれば、間違いなく不完全な一日だった。
でも。
清水は自分で考えたあと、俺に助けを求めた。
伊藤と本宮は、俺がいなくても自分たちで話を終わらせた。
堀井は足をつったけれど、休めばまた歩けた。
名取は必要になった時、自分から「お願い」と言った。
高石は自分で走る方向を選んだ。
俺が全部決めなくても。
みんなは自分で考えて、自分で選んでいた。
「……当たり前か」
俺以外の人間だって、それぞれ自分の人生を生きている。
俺だけが今日を繰り返しているからといって、みんなの選択まで俺のものになるわけじゃない。
誰かが失敗することも。
迷うことも。
間違えることも。
それを全部なくすことが、その人のためになるとは限らない。
もちろん。
本当に危険なら止める。
助けを求められたら手を貸す。
俺が助けたいと思った時には、自分で考えて動く。
でも。
誰かの人生を、俺の知っている正解に押し込めるのは違う。
「……これでいいのかな」
分からない。
相変わらず、答えを教えてくれる声なんてない。
だから今日はもう考えるのをやめた。
スマホを置く。
六月二十六日。
戻るなら、また考えればいい。
そう思って目を閉じた。
◇
目覚ましが鳴った。
目を開ける。
しばらく天井を見たまま動けなかった。
怖い。
これでまた六月二十六日だったら、もう何が正しいのか分からない。
ゆっくり手を伸ばし、スマホを取る。
画面を見る。
「……」
六月二十七日。
何度か瞬きをした。
それでも数字は変わらない。
「……進んだ」
思わず息が漏れた。
「進んだ……!」
ベッドの上で仰向けになる。
昨日は失敗した。
何度も。
それでも、今日になった。
そこでようやく分かった気がした。
この繰り返しは、俺に完璧な一日を作らせたいわけじゃない。
少なくとも。
誰かの失敗まで奪って、全部を自分の思い通りにすることが正解ではない。
俺にできるのは、自分がどうするのかを選ぶことだけだ。
他人がどうするのかまで、俺が決めることはできない。
「……難しすぎるだろ」
誰に向けるでもなく呟く。
それでも、少し笑っていた。
スマホが震えた。
林からのメッセージ。
『今日、一緒に帰れる?』
昨日交わした約束だ。
今度は、昨日までの繰り返しには存在しなかった、本当の続き。
『帰れるよ』
返信する。
六月二十七日。
失敗のない一日ではなく。
それぞれが自分で選んだ一日の先に、ようやく明日が来た。




