第33話「完璧な一日」
六月二十六日。
三度目の朝だった。
目覚ましを止めた俺は、しばらくベッドの上で天井を見つめていた。
一度目は、普通に過ごした。
伊藤と本宮が揉めそうになったところを止め、足をつった堀井を休ませ、名取のプリントを手伝った。部活でも問題はなく、林とは翌日に一緒に帰る約束をした。
それでも戻された。
二度目は、それらが起こる前に動いた。
伊藤には先にプリントを提出させ、堀井には十分に水分を取らせて準備運動もさせた。名取が先生に頼まれればすぐに手伝い、林とはその日のうちに一緒に帰った。
それでも、また戻された。
なら、まだ足りない。
昨日の俺はそう考えた。
誰かが困ってから助けるんじゃない。
困る前に助ければいい。
喧嘩になりそうなら、その原因をなくす。失敗しそうなら、失敗する前に教える。嫌な思いをする可能性があるなら、それ自体を起こさなければいい。
今日起きることを知っている俺なら、それができる。
「……やってみるか」
正解が分からないなら、間違いを全部なくせばいい。
それが三度目の六月二十六日に、俺が出した答えだった。
◇
教室へ入る。
「矢城くん、おはよう」
「おはよう、林」
林がこちらを見る。
次に何を言うのかは分かっていた。
『今日、部活ある?』
だから、その前に答える。
「今日部活あるけど、終わったら一緒に帰ろう」
「……え?」
「待たせることになるけど、それでもよければ」
「う、うん」
林は嬉しそうに頷いた。
これでいい。
残念そうな顔をさせる必要もないし、明日まで待たせる必要もない。
「おーおー、朝から――」
「佐藤」
後ろから聞こえた声に、振り返らず答える。
「何も言うなよ」
「……俺まだ何も言ってないんだけど」
「どうせ変なこと言うだろ」
「ひどくない?」
振り返ると、佐藤が苦笑していた。
「矢城、今日ちょっと怖いよ」
「何が?」
「いや……何でも」
佐藤はそれ以上何も言わず、伊藤のところへ向かった。
余計なからかいも起きなかった。
これで一つ。
◇
一時間目が終わると、俺はすぐ清水の席へ向かった。
「清水」
「何?」
「数学のプリント見せて」
「なんで?」
「次の授業で詰まるところ教えるから」
「……は?」
清水が露骨に怪訝な顔をした。
「いいから」
「よくないんだけど」
「ここ。この問題」
プリントの一ヶ所を指す。
「この公式を使う。たぶん途中でどれ使うか分からなくなるから、先に覚えといた方がいい」
「ちょっと待って」
「何?」
「あんた、なんで私が分からなくなる前提なの?」
「前にも似たところ苦手だっただろ」
「そうだけど……」
「じゃあ説明するよ」
「いや、私まだ教えてって言ってないんだけど」
手が止まった。
「……嫌?」
「嫌っていうか」
清水は少し考えてから、俺を見る。
「分かんなかったら聞くから、その時でよくない?」
「でも、その方が時間無駄にならないだろ」
「別にいいじゃん。私の時間なんだから」
「……」
言われてみれば、そうかもしれない。
けれど、今日は失敗をなくしたい。
「一応ここだけ覚えとけよ」
「はいはい」
清水は面倒そうに手を振った。
俺は自分の席へ戻る。
少し引っかかった。
でも。
清水が問題を解けるなら、それでいい。
◇
昼休みになる前。
俺は伊藤の机へ向かった。
「伊藤、プリント」
「あ?」
「提出」
「……また?」
「また?」
「いや、何でもない」
危ない。
伊藤には昨日の記憶なんてない。
「鞄の中に入ってるから、今出しとけ」
「なんでお前が俺の鞄の中身知ってんだよ」
「朝見えてた」
「マジ?」
「たぶん」
「どっちだよ」
伊藤が鞄を探り、プリントを取り出した。
「ほら」
「ほんとにあった」
「出してこいよ」
「分かったって」
伊藤が立ち上がる。
これで本宮と揉めることはない。
その時、三島が視界に入った。
昨日までなら、このあと伊藤が俺に三島のことを聞いてきた。
でも今日は、その必要もない。
伊藤が余計なことを言って三島に聞かれる可能性だってなくせる。
「伊藤」
「今度は何だよ」
「三島のこと気になってても、変なこと言うなよ」
「……は?」
しまった。
「お前、何言ってんの?」
「いや」
「待て。なんで三島が出てくんだよ」
「何でもない」
「何でもなくねえだろ!」
伊藤の声が大きくなる。
何人かがこちらを見た。
その中に三島もいる。
「……伊藤君」
三島がこちらを見ている。
「何か私に用?」
「ねえよ!」
「そう」
「違うからな!」
「何が?」
「だから――」
「伊藤」
俺が止める。
「もういいって」
「お前のせいだろ!」
伊藤が睨んでくる。
「悪かった」
「今日のお前、マジで変だぞ」
「……」
結局、余計に目立ってしまった。
それでも伊藤と本宮が喧嘩するよりはマシだ。
そう思うことにした。
◇
体育の前には、堀井の水筒を確認した。
「水ある?」
「あるよ」
「ちゃんと飲んだ?」
「飲んだ」
「ストレッチした?」
「した」
「ふくらはぎも?」
「したって」
「もう一回やっとこう」
「矢城」
堀井が困ったように笑った。
「何?」
「今日の体育、そんな危険なの?」
「いや」
「じゃあ大丈夫だって」
「でも足つったら――」
「つったら休むよ」
あっさり言われた。
「……それでいいの?」
「何が?」
「いや」
堀井は笑いながら準備運動へ戻っていく。
俺だけが、その場に少し残った。
足をつったら休む。
それだけの話だ。
昨日だって、実際にそれで何も問題はなかった。
なのに俺は、何をこんなに気にしているんだろう。
そう思ったのは一瞬だった。
戻されたくないからだ。
答えは分かっている。
今日こそ、明日へ進みたい。
そのためなら、できることは全部やる。
◇
体育が終わり、教室へ戻る途中だった。
「矢城」
後ろから呼ばれた。
振り返ると、ハマヤンが立っていた。
「ちょっといいか?」
「はい」
何かしただろうか。
そう考えながら近づく。
「お前、今日どうした?」
「え?」
「なんかあったのか?」
「別に何もないですけど」
「そうか?」
ハマヤンは俺の顔を少し眺める。
「ならいいけど」
「何ですか?」
「いや、お前最近ちょっと空回りしてるぞ」
予想していなかった言葉だった。
「空回り?」
「うん」
「むしろ全部うまくやろうとしてるんですけど」
「だからだよ」
ハマヤンが苦笑する。
「全部うまくやろうとしすぎてるんじゃないか?」
「……」
胸の奥に引っかかった。
芹沢先生にも似たようなことを言われた。
『周りを見るのと、先に決めるのは違うわよ』
「でも、失敗しない方がいいじゃないですか」
思わず言った。
ハマヤンが少しだけ目を細める。
「そりゃ、大怪我するとか、取り返しのつかないことなら止めた方がいい」
「じゃあ――」
「でもな」
俺の言葉を遮る。
「全部の失敗が、悪いもんでもないだろ」
「……」
「まあ、高校生なんて失敗してなんぼだ。先生だって未だに失敗するしな」
「先生は減らしてくださいよ」
「それは無理だ」
「即答ですか」
「人間だからな」
ハマヤンは笑った。
「じゃあな」
それだけ言って、廊下を歩いていく。
俺はその背中を見送った。
全部の失敗が、悪いものじゃない。
「……でも」
俺は戻されている。
何かを間違えているから。
だったら、その間違いを見つけるしかない。
ハマヤンの言葉は頭に残った。
それでも今の俺には、やり方を変えることができなかった。
◇
放課後。
名取が先生に呼ばれる前に、俺は職員室へ向かった。
昨日頼まれていたプリントがどこにあるのかまでは知らない。
だから先生に聞いた。
「名取に運んでもらう予定のプリントってありますか?」
「ん? ああ、これか?」
「俺が運びます」
「助かるけど……矢城、部活じゃないのか?」
「少しくらい大丈夫です」
「じゃあ頼む」
大量のプリントを受け取る。
これで名取は運ぶ必要すらない。
教室へ戻る途中、向こうから名取が歩いてきた。
「あれ?」
「どうした?」
「それ、私が頼まれるはずだったやつ?」
「うん。俺が持っといた」
「なんで?」
「重いだろ」
「それはそうだけど……」
名取がプリントと俺を交互に見る。
「矢城、今日ほんと変だよ」
「そう?」
「うん」
名取は笑っていたけれど、どこか戸惑っているようにも見えた。
「でも、ありがとう」
「いいよ」
感謝された。
なら間違ってはいない。
そう自分に言い聞かせた。
◇
部活では、昨日と同じ状況になる前から高石へ指示を出した。
「高石、次左!」
「え?」
「いいから!」
高石が走る。
俺はそこへパスを出した。
シュート。
決まる。
「ナイス!」
「お、おう」
点は入った。
結果だけなら完璧だ。
なのに、高石は少し首を傾げていた。
「矢城」
芹沢先生の声が飛ぶ。
「はい!」
「今の、あなたが決めたの?」
「え?」
「高石が動く場所」
「……はい」
「そう」
芹沢先生は少し考えたあと、短く言った。
「次は高石に任せなさい」
「でも今、点入りましたよ?」
「入ったわね」
「じゃあ――」
「バスケットは、あなた一人でやるスポーツじゃないわ」
言葉が止まった。
「続けるわよ」
「……はい」
高石を見る。
「ごめん」
「何が?」
「いや……」
「別にいいよ。点入ったし」
高石は笑った。
でも、なぜか素直に喜べなかった。
◇
部活が終わる。
林は今日も待ってくれていた。
二人で帰り、昨日と同じコンビニにも寄った。
アイスを買って。
話をして。
林は笑っていた。
清水は数学で困らなかった。
伊藤と本宮も揉めなかった。
堀井は足をつらなかった。
名取は重いプリントを運ばずに済んだ。
部活でも点を取れた。
大きな失敗は何もなかった。
それどころか、一度目よりも二度目よりも、問題そのものが起こらない一日になった。
完璧だった。
少なくとも、俺にはそう見えた。
◇
夜。
ベッドの上で、今日一日を振り返る。
何度考えても、大きな問題は見つからない。
少しみんなに変だと言われた。
ハマヤンにも空回りしていると言われた。
芹沢先生には、高石に任せろと言われた。
でも。
誰も傷ついていない。
喧嘩もしていない。
失敗もほとんどない。
これ以上、何を求められているんだ。
「……これで駄目なら、分かんないぞ」
スマホを枕元へ置く。
六月二十六日。
今度こそ。
明日になってくれ。
そう願いながら、目を閉じた。
◇
目覚ましが鳴った。
目を開ける。
嫌な予感がした。
スマホへ手を伸ばすのが怖かった。
それでも画面を見る。
六月二十六日。
「……」
しばらく声が出なかった。
完璧だったはずだ。
誰も困らなかった。
誰も失敗しなかった。
揉め事だって起こらなかった。
それなのに。
また戻された。
「なんでだよ……」
スマホを握る。
「何が駄目なんだよ……」
一度目より、二度目。
二度目より、三度目。
俺は失敗を減らしてきた。
なのに日付は進まない。
その時。
昨日の言葉が、ふいに頭へ浮かんだ。
『分かんなかったら聞くから、その時でよくない?』
清水。
『つったら休むよ』
堀井。
『次は高石に任せなさい』
芹沢先生。
そして。
『全部の失敗が、悪いもんでもないだろ』
ハマヤン。
「……」
俺はずっと、みんなのためにやっているつもりだった。
でも。
本当にそうだったのか?
清水が困る前に答えを教えたのは、清水のためだったのか。
堀井が失敗しないように何度も口を出したのは、堀井のためだったのか。
伊藤と本宮が揉める可能性を消したのは、本当に二人のためだったのか。
名取が自分で頼まれたことまで、俺が先に終わらせた。
高石が自分で考えて動く前に、俺が動く場所を決めた。
全部。
俺が戻されたくなかったからじゃないのか。
「……俺」
そこで初めて。
三度目の六月二十六日に、自分が何をしていたのかが少しだけ見えた。
失敗をなくそうとしていたんじゃない。
俺は。
みんなの一日を、俺の知っている通りに動かそうとしていた。




