第32話 間違いをなくせば
六月二十六日。
スマホに表示された日付を何度確認しても、数字が変わることはなかった。
昨日と同じ朝。
体育祭から一度も戻されることなく日付が進んでいたせいで、もう終わったのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
けれど、そんな都合のいい話ではなかったらしい。
「……何が駄目だったんだ?」
制服に着替えながら、昨日の出来事を一つずつ思い返す。
林とは普通に話した。
清水に数学を教えた。
伊藤と本宮が揉めそうになった時には、喧嘩になる前に止めた。
体育で足をつった堀井にも声をかけたし、放課後には大量のプリントを抱えていた名取を手伝った。
部活でも問題は起きていない。
むしろ芹沢先生には褒められた。
これまで戻された時とは違い、分かりやすい失敗が一つも見つからない。
「何か見落としてる……?」
そう考えるしかなかった。
理由もなく戻されるとは思えない。
なら昨日のどこかに、俺が気づかなかった間違いがあったはずだ。
そして幸いにも、俺は今日起こることを知っている。
だったら今度は、昨日よりうまくやればいい。
◇
「矢城くん、おはよう」
教室へ入ると、予想通り林が声をかけてきた。
「おはよう、林」
「今日、部活ある?」
ここも同じ。
昨日の俺は、部活があると答えたあと、明日はないから一緒に帰ろうと誘った。
結果として何か問題があったようには思えない。
それでも、今度は少し変えてみる。
「あるけど、終わってから少しなら一緒に帰れるよ」
「え?」
「林が待てるならだけど」
林は驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「待つ」
「じゃあ決まり」
「うん」
昨日よりいい。
少なくとも、林が残念そうな顔をすることはなかった。
「おーおー、朝からいいねえ」
やっぱり佐藤がやってくる。
ここも知っている。
「佐藤」
「何?」
「どうせ『何も言ってないよ』って言うんだろ」
「……え?」
佐藤が目を瞬いた。
「あ」
しまった。
「何それ。俺そんなに分かりやすい?」
「いや、なんとなく」
「矢城、最近俺の扱い雑じゃない?」
「気のせいだろ」
「ひどいなあ」
佐藤は首を傾げながら伊藤の席へ向かった。
その背中を見て、少しだけ反省する。
先を知っているからといって、口に出しすぎるのはよくない。
気をつけよう。
◇
二時間目の数学。
先生が黒板へ問題を書き始めたところで、俺は清水を見る。
まだプリントと睨み合ってはいない。
昨日なら、もう少しあとだ。
「清水」
「何?」
「そこ、次の問題で詰まると思う」
「は?」
「この公式使うから覚えといた方がいいよ」
「……なんで?」
「え?」
「まだ問題見てないんだけど」
「いや、その……」
清水が怪訝そうに俺を見る。
「なんとなく苦手そうだから」
「失礼じゃない?」
「ごめん」
「ていうか、あんた最近たまに変だよね」
「そう?」
「最初から分かってたみたいなことする時ある」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
「気のせいだろ」
「……そう?」
清水は納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。
結局、少しあとで本当にその問題に詰まり、俺が説明することになった。
「ほら」
「何が『ほら』よ」
「当たっただろ」
「なんかムカつく」
清水は文句を言いながらも問題を解き終えた。
昨日より早く解決した。
これも悪くないはずだ。
◇
昼休み。
伊藤が俺のところへ来る前に、こちらから声をかけた。
「伊藤」
「あ?」
「今日提出のプリント出した?」
「……何でお前が知ってんだよ」
「朝集めてただろ」
「ああ」
伊藤が鞄を探り、プリントを見つける。
「忘れてた」
「今出してこいよ」
「後でいいだろ」
「本宮に言われる前に行っとけ」
「は?」
「……いや、何でもない」
「お前今日変じゃね?」
「気にするな」
「気になるだろ」
伊藤は首を傾げながらも、プリントを持って職員室へ向かった。
これで本宮との衝突は起きない。
昨日は揉めそうになったところを止めた。
今日は、その原因自体をなくした。
昨日よりもいいはずだ。
そう思っていると、少し離れたところに三島がいるのが見えた。
昨日、伊藤は三島のことを俺に聞いてきた。
『あいつ、俺に普通に喋るだろ』
『怖くねえのかな』
あの会話も今日はなくなった。
伊藤と三島が変に意識することもない。
問題になるような出来事ではなかったと思うけど、余計なことは少ない方がいい。
少なくとも今日は、誰も嫌な思いをしていない。
◇
午後の体育。
始まる前に、俺は堀井のところへ行った。
「堀井」
「ん?」
「今日、ちゃんと水飲んどけよ」
「飲んでるけど」
「準備運動も念入りにしといた方がいい」
「急にどうした?」
「足つったら嫌だろ」
「まあ、そうだけど」
一緒にストレッチをする。
昨日、堀井が足をつったのは体育の途中だった。
水分不足なのか、疲労なのか、原因までは分からない。
だからできることは全部やっておいた。
その結果。
体育が終わっても、堀井は足をつらなかった。
「今日は大丈夫だったな」
「何が?」
「いや、何でもない」
「矢城、今日ほんと変だぞ」
「そう?」
「朝から俺の足ばっか気にしてたじゃん」
「怪我されたら困るから」
「母ちゃんかよ」
堀井が笑う。
俺も笑った。
これも昨日よりいい。
誰かが痛い思いをするより、最初から何も起きない方がいいに決まっている。
◇
放課後。
チャイムが鳴ると同時に席を立った。
「名取」
「何?」
「先生にプリント運ぶの頼まれてない?」
「え?」
「……まだ?」
「何の話?」
しまった。
頼まれるのは、もう少しあとだった。
「いや、何でもない」
「今日の矢城、なんか変じゃない?」
「みんなそれ言うな……」
「みんなに言われてるなら本当に変なんじゃない?」
反論できない。
その数分後、先生に呼ばれた名取が大量のプリントを抱えて教室から出てきた。
俺はすぐに近づいた。
「半分持つよ」
「……ありがとう」
プリントを受け取る。
名取が俺の顔をじっと見た。
「何?」
「ほんとに何でもない?」
「何が?」
「さっき、先生に頼まれる前にプリントのこと言ってたじゃん」
「たまたま」
「そんなたまたまある?」
「あるんじゃない?」
「怪しい」
笑って誤魔化す。
昨日より先に手伝えた。
名取が重い思いをする時間も短くなった。
これもいいはずだ。
そう思っているのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残った。
◇
その日の部活では、昨日より早く高石の動きを読めた。
どこへ走るのか知っていたからではない。
そう思いたかった。
けれど、似たような状況になった瞬間、俺は昨日と同じ場所へ先にパスを出していた。
「おっ!」
高石が受け取り、そのままシュートを決める。
「ナイス!」
「矢城、今のよく見えてたな」
「まあね」
答えながら、少しだけ違和感があった。
芹沢先生がこちらを見る。
「矢城」
「はい」
「今日は判断が早いわね」
「ありがとうございます」
「でも」
そこで言葉を切った。
「少し急ぎすぎ」
「え?」
「周りを見るのと、先に決めるのは違うわよ」
胸に何かが引っかかった。
「……はい」
「まあ、悪くはないわ。続けて」
「はい!」
コートへ戻る。
周りを見るのと、先に決めるのは違う。
その言葉が頭に残った。
けれど、今は考えないことにした。
昨日は戻された。
だったら今日は、昨日よりいい一日にしなければならない。
◇
部活が終わると、林が待っていた。
「ごめん、待った?」
「ううん」
「帰ろうか」
「うん」
二人で校門を出る。
昨日はできなかったことだ。
本当なら明日一緒に帰る予定だった。
でも今日一緒に帰れば、林が昨日みたいに少し残念そうな顔をする必要もない。
帰り道では、体育祭の話や部活の話をした。
林は楽しそうだった。
俺も楽しかった。
途中でコンビニへ寄って、アイスを買った。
「これ、おいしい」
「一口いる?」
「えっ?」
「嫌ならいいけど」
「……いる」
林が少し照れながら笑う。
昨日より、いい一日になっている。
そう思った。
◇
家へ帰り、風呂を済ませてベッドに寝転ぶ。
今日の出来事を頭の中で確認した。
林を残念な気持ちにさせなかった。
清水が問題に詰まる前に教えた。
伊藤と本宮は、そもそも揉めなかった。
堀井は足をつらなかった。
名取のプリントもすぐに手伝えた。
部活も悪くない。
しかも今日は、林と一緒に帰ることまでできた。
昨日よりいい。
昨日より、失敗が少ない。
これなら大丈夫だろう。
「……今度こそ」
スマホを見る。
六月二十六日。
目を閉じる。
今度こそ明日へ進める。
そう信じて眠った。
◇
目覚ましが鳴った。
手を伸ばす。
スマホを取る。
画面を見た瞬間、指が止まった。
「……嘘だろ」
六月二十六日。
昨日よりうまくやった。
昨日より失敗を減らした。
堀井は足をつらなかった。
伊藤と本宮は揉めることすらなかった。
林とも一緒に帰れた。
なのに。
戻された。
「なんで……?」
分からない。
何が足りない?
どこを間違えた?
昨日よりいい一日を作ったはずなのに。
それでも駄目なら――。
「……もっとか?」
口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。
もっと早く気づけばいい。
もっと先に動けばいい。
誰かが困る前に助けて、揉める前に止めて、失敗する前に防ぐ。
今日起こることなら、もうほとんど分かっている。
だったら。
全部、先に潰せばいい。
そうすれば今度こそ、間違いのない一日にできる。
この時の俺はまだ気づいていなかった。
その考え方こそが、俺を正解から遠ざけ始めていることに。




