第31話 全部うまくいった日
六月二十六日。
体育祭が終わってから、三週間近くが過ぎた。
あれだけ騒がしかった教室も今ではすっかりいつもの日常に戻り、俺も授業を受けて、昼休みには友達と話し、放課後になれば部活へ向かう。部活がない日には林と一緒に帰ることも増えていた。
そして、その間に一度も日付は戻っていない。
六月八日、九日、十日。
朝が来るたび、当たり前のように次の日になっていた。
以前なら目覚めるたびにスマホを手に取り、日付が進んでいることを確認してからでなければ安心できなかったのに、今では目覚ましを止め、そのまま顔を洗って朝飯を食べる。
いつの間にか俺は、明日が来ることを疑わなくなっていた。
「矢城くん、おはよう」
「おはよう、林」
教室へ入ると、林が声をかけてきた。
鞄には、あのペンギンのキーホルダーが今日もついている。もう見慣れたはずなのに、それを見るたびに少しだけ嬉しくなる。
「今日、部活ある?」
「あるよ」
「そっか」
ほんの少し残念そうな顔をしたのが分かった。
「明日はないけど」
「ほんと?」
「うん。一緒に帰る?」
「……うん」
すぐに表情が明るくなる。
以前の俺なら、こんな小さな変化にも気づかなかったかもしれない。それが今は分かることも、そして、その理由が自分との約束にあることも嬉しかった。
「おーおー、朝からいいねえ」
後ろから声がして振り返ると、佐藤がニヤニヤしながら立っていた。
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「被害妄想じゃない?」
「そのニヤニヤやめろ」
俺が睨むと、佐藤は楽しそうに笑いながら伊藤の席へ向かっていった。
「……ごめん」
林が小さく言う。
「なんで林が謝るんだよ」
「だって……」
「気にしなくていいよ。佐藤は誰にでもあんな感じだから」
「うん」
林は少し照れたように笑って、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見ながら、俺も自然と笑っていた。
◇
二時間目の数学。
先生が黒板に問題を書いている途中、近くから小さな声が聞こえた。
「……やば」
見ると、清水がプリントを睨みつけている。
少し前にも見た光景だった。
「また分かんないの?」
「うるさい」
「どこ?」
「聞いてないけど」
「じゃあ頑張って」
「待って」
「どっちだよ」
思わず笑うと、清水がプリントを俺の方へ少し寄せた。
「これ」
「ここ?」
「うん」
最近は何度か勉強を教えたこともあって、清水がどこで詰まりやすいのかも少しずつ分かってきた。公式そのものをまったく覚えていないというより、問題を前にすると、どの公式を使えばいいのか分からなくなるらしい。
「ここまでは合ってる。だから、この次にこれを使えばいい」
「ああ……」
清水が俺の説明を聞きながら式を書き足していく。
「あ、できた」
「よかったな」
「……ありがと」
「どういたしまして」
入学した頃は、まともに話しかけるだけでも露骨に嫌そうな顔をされていた。それを思えば、今こうして普通に話していること自体が不思議だった。
まだ口は悪いし、時々俺を見る目に引っかかるものを感じることもある。
それでも、最初の頃にあった強い嫌悪感は、少しずつ薄れているように思えた。
「千尋ー」
そこへ栗原がやってきた。
「何してんの?」
「勉強」
「千尋が!?」
「ぶっ飛ばすよ」
「怖っ!」
栗原は大袈裟に肩をすくめると、今度は俺を見る。
「矢城、千尋に勉強教えられるんだ」
「どういう意味?」
「いや、千尋に勉強教えるのって猛獣の飼育みたいじゃん?」
「友香?」
「ごめんなさい」
即座に頭を下げた栗原を見て、思わず吹き出した。
「栗原、弱いな」
「千尋相手には逆らわないのが長生きの秘訣だから」
「聞こえてるからね」
「聞こえるように言った!」
「もっと悪いわ!」
二人のやり取りにまた笑いが起こる。
こういう何でもない時間さえ、いつの間にか俺の日常の一部になっていた。
◇
昼休み。
「おい、矢城」
弁当を食べていると、伊藤が声をかけてきた。
「何?」
「あいつ、どう思う?」
「あいつ?」
伊藤が顎で示した先を見ると、名取と浅井の近くに三島がいた。三人で何かを話しているらしい。
「三島?」
「そう」
「どうって?」
「なんか……ムカつかね?」
「知らないよ」
「口悪いし」
「伊藤が言う?」
「俺はいいんだよ」
「何でだよ」
そう返すと、伊藤は少し黙ったあと、声を落とした。
「でもよ。あいつ、俺に普通に喋るだろ」
「うん」
「怖くねえのかな」
「前にも本人に聞いてたじゃん」
「そうだけど」
伊藤にしては妙に歯切れが悪い。
なんとなく面白くなってきた。
「気になるの?」
「は?」
「三島のこと」
「なんでそうなるんだよ!」
思った以上に大きな声が出た。
少し離れたところにいた三島がこちらを見る。
「……」
「……」
一瞬、伊藤と三島の目が合った。
三島は怪訝そうに眉を寄せると、そのまま名取たちとの話に戻った。
伊藤がすぐ俺の肩を掴む。
「お前、余計なこと言うなよ」
「何も言ってないって」
「絶対言う顔してる」
「どんな顔だよ」
「矢城」
そこへ佐藤が後ろから入ってきた。
「レオって意外と分かりやすいだろ?」
「拓哉!」
「はいはい」
佐藤が笑い、俺もつられて笑った。
その時だった。
「おい」
別の声がして、本宮がこちらへやってきた。
「伊藤、お前今日提出のプリント出した?」
「あ?」
「朝集めたやつ」
「……」
「忘れたのか?」
「うるせえな。あとで出す」
「期限は朝だろ」
「先生でもねえのに細けえな」
さっきまでの空気が、少しだけ変わった。
本宮は真面目で、こういうところを曖昧にできない。
一方の伊藤は、正論を上から押しつけられるような言い方が嫌いだ。
入学直後にも、この二人は似たようなことでぶつかりかけた。
「伊藤」
俺が声をかける。
「何だよ」
「プリント、鞄に入ってるんじゃない?」
「知らねえよ」
「見てみろよ。出し忘れただけなら、今出した方が早いだろ」
「……」
伊藤は面倒そうな顔をしながらも鞄を開け、中を探り始めた。
「あった」
「あるじゃん」
「うるせえ」
本宮がため息をつく。
「最初から出しておけばいいだろ」
「本宮、もういいじゃん。見つかったんだし」
「……まあ」
本宮もそれ以上は言わなかった。
伊藤はプリントを持って立ち上がる。
「出してくる」
「いってらっしゃい」
「お前、なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
「別に?」
「気持ち悪っ」
そう言い残して教室を出ていく伊藤を見ながら、俺は少しだけ満足していた。
以前なら、あのまま二人が揉めていたかもしれない。
けれど今の俺は、伊藤がどういう言い方をされれば腹を立てるのかも、本宮が何を気にする人間なのかも知っている。
この二ヶ月あまりで、俺はクラスのみんなのことを少しずつ知ってきた。
だから、揉める前に止められた。
そのことが嬉しかった。
◇
午後の体育では、途中で堀井が足を押さえてしゃがみ込んだ。
「堀井?」
「ごめん。ちょっと足つった」
近づこうとした周りを制しながら、俺もそばへ行く。
「大丈夫?」
「うん。たぶん」
「無理して立つなよ」
「でも、これくらいなら――」
「とりあえず座っとけって。水飲んで、少し休んで、それでも痛かったら先生に言おう」
「……分かった」
以前なら、どうしたらいいのか分からず慌てていたかもしれない。
今は少し違う。
何が起きているのかを見て、その場でできることを考える余裕があった。
幸い、堀井はしばらく休むと普通に歩けるようになった。
「ありがとな」
「いいよ」
「矢城って、こういう時は妙に頼りになるよな」
「妙にって何だよ」
「普段はそんな感じしないのに」
「悪口?」
「褒めてるって」
堀井が笑う。
「絶対違うだろ」
そう言いながら、俺も笑った。
◇
放課後。
体育館へ向かう途中、廊下の先で大量のプリントを抱えて歩いている名取を見つけた。
「何してんの?」
「先生に頼まれた」
「持とうか?」
「大丈夫」
「それ絶対重いだろ。半分貸して」
返事を待たず、上に積まれていた半分を取る。
「あ」
「ほら」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
名取と並んで職員室へ向かう。
「矢城ってさ」
「何?」
「最近、ほんと色んなところにいるよね」
「どういう意味?」
「困ってる人がいたら、いつの間にか近くにいる」
「そう?」
「うん」
名取が横から俺を見る。
「ヒーローでも目指してる?」
「目指してないよ」
「じゃあ何目指してるの?」
「……勝ち組?」
「まだ言ってるんだ」
「一応」
二人で笑った。
でも、口に出してみると、以前とは少し違う言葉に聞こえた。
最初に思い描いていた勝ち組は、もっと分かりやすかった。
人気者になって、彼女を作って、勉強も運動もできて、周りから羨ましがられる。
それさえ手に入れれば、自分の人生は変わると思っていた。
今も、その気持ちが全部なくなったわけじゃない。
ただ最近は、それだけじゃないような気もしている。
まだ、その答えをうまく言葉にはできなかった。
◇
部活でも調子はよかった。
「矢城!」
先輩から飛んできたパスを受け取る。
ディフェンスが寄ってきた。
右を見る。
相手が動く。
その瞬間、左に空いたスペースへ高石が走り込むのが見えた。
「高石!」
パスを出す。
高石がそのままシュートを放ち、ボールがリングへ吸い込まれた。
「ナイス!」
「おう!」
手を上げて応える。
「矢城」
芹沢先生の声が飛んできた。
「はい」
「今の判断、よかったわよ」
「ありがとうございます」
「前より周りを見る余裕が出てきたわね」
「ほんとですか?」
「ええ」
素直に嬉しかった。
けれど、喜んでいる暇は長くなかった。
「ただし、そこで止まらない」
「……はい」
「戻る!」
「はい!」
急いで自陣へ戻る。
走りながら、少しだけ笑ってしまった。
学校でも、友達との関係でも、部活でも、最近は驚くほど物事がうまくいっている。
入学式の日を何度も繰り返していた頃には、こんな毎日を送っている自分なんて想像できなかった。
◇
家へ帰り、夕飯と風呂を済ませて部屋へ戻ると、机に置いたスマホが震えた。
林からだった。
『明日、一緒に帰れる?』
画面を見ただけで、自然と口元が緩んだ。
『帰れるよ』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『よかった』
たった四文字なのに、それだけで嬉しい。
ベッドへ寝転びながら、今日一日を思い返した。
伊藤と本宮は揉めずに済んだし、堀井の足も大事にはならなかった。名取の手伝いもできたし、清水とも普通に話せた。部活では芹沢先生に褒められ、明日は林と一緒に帰る約束までしている。
誰かと喧嘩したわけでも、誰かを傷つけた覚えもない。
失敗らしい失敗さえ思い当たらなかった。
「……今日、いい日だったな」
完璧とまで言うつもりはない。
それでも、胸を張ってそう言えるくらいには、何もかもうまくいった一日だった。
スマホを見る。
六月二十六日。
明日は六月二十七日。
そんな当たり前のことを、最近の俺はもう疑うことすらなくなっていた。
スマホを枕元へ置き、目を閉じる。
明日は林と何を話そう。
そんなことを考えているうちに、意識が沈んでいった。
◇
目覚ましの音で目が覚めた。
「……ん」
半分眠ったまま手を伸ばし、音を止める。
いつもの朝だった。
そのままスマホを置こうとして、何気なく画面に目をやる。
「……」
眠気が消えた。
六月二十六日。
一瞬、寝ぼけているのかと思った。
目を擦って、もう一度見る。
それでも表示は変わらない。
「……は?」
勢いよく体を起こした。
六月二十六日。
時間だけが、昨日の朝へ戻っている。
「嘘だろ……」
心臓が速くなった。
昨日の出来事を頭の中で辿っていく。
伊藤と本宮は揉めなかった。堀井も大事にはならなかったし、名取を手伝い、清水とも普通に話した。部活だって問題なく終わり、林とは明日の約束までした。
誰かを傷つけた記憶もない。
何かを間違えた覚えもない。
むしろ、今までで一番と言っていいくらい、すべてがうまくいった一日だった。
それなのに。
日付は戻っている。
「なんでだよ……」
スマホを握る手に、ゆっくりと力が入った。
「全部うまくいっただろ……」
もちろん、答える声なんてない。
窓の外から聞こえる朝の音も、部屋に差し込む光も、昨日と同じだった。
そして俺はもう一度、六月二十六日の朝を迎えていた。




