第30話 体育祭
六月七日。
「勇真! 忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫!」
「たぶんじゃ困るでしょ!」
玄関で靴を履いていると、母さんがリビングから顔を出した。
「体操服は?」
「着てる」
「タオル」
「入れた」
「水筒」
「入れた」
「お弁当」
「……」
「勇真?」
「忘れてた」
「ほら!」
慌ててリビングへ戻る。
テーブルの上には、弁当箱を入れた袋が置かれていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。怪我しないようにね」
「分かってる」
「あと、女の子に格好いいところ見せようとして無茶しちゃ駄目よ」
「しないよ!」
「そう?」
母さんがニヤニヤしている。
「最近、林さんの話よくするから」
「……そんなしてる?」
「してる」
即答だった。
「行ってきます!」
「あ、逃げた」
聞こえないふりをして家を出た。
学校に着くと、普段とはまるで雰囲気が違っていた。
グラウンドを囲むように色とりどりのテントが並び、スピーカーから音楽が流れている。
クラスの連中も朝から騒がしい。
「矢城!」
教室へ入った瞬間、名取に呼ばれた。
「何?」
「リレー、絶対負けないでよ」
「朝一番に言うことそれ?」
「大事でしょ」
「プレッシャーかけんなよ」
「大丈夫。練習では結構速かったし」
「結構って何だよ」
「成瀬よりは遅い」
「比較対象がおかしい」
名取が笑う。
「でも、本当に頑張ろうね」
「うん」
そこへ浅井がやってきた。
「桃香、朝から気合い入りすぎ」
「由実が入りなさすぎなの」
「体育祭は楽しんだ者勝ちだよ」
「勝った方がもっと楽しいでしょ」
「出た、負けず嫌い」
「何よ」
じゃれ合う二人を見ながら、少し前の名取を思い出す。
一人でグラウンドを走っていた姿。
今日負けたら、こいつはどんな顔をするんだろう。
「矢城くん」
声に振り返る。
林だった。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、リレーだね」
「うん」
「頑張ってね」
「任せろ」
「おお」
「何だよ」
「今日は自信あるんだなって」
「一応練習したから」
林の鞄には、今日もペンギンがついている。
もう見慣れてきたはずなのに、見るたびに少し嬉しくなる。
「ちゃんと見ててよ」
思わず言った。
「うん」
林が笑う。
「ちゃんと見てる」
……絶対負けたくなくなった。
◇
開会式が終わり、競技が始まった。
玉入れ。
綱引き。
障害物競走。
俺たちのクラスは、思った以上に健闘していた。
「押せ押せ押せ!」
「伊藤! 引け!」
「引いてんだよ!」
「レオおおお!」
「拓哉、お前も引け!」
「応援担当!」
「ふざけんな!」
綱引きでは伊藤が先頭で叫び、佐藤が後ろで騒ぎ、最後は全員まとめて地面へ倒れた。
結果は勝ち。
「よっしゃあ!」
伊藤が立ち上がる。
「レオ、顔やば」
「うるせえ!」
「土ついてる」
「お前もだろ!」
その少し離れたところで三島が見ていた。
「何見てんだよ」
伊藤が気づく。
「別に」
「笑っただろ」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「気のせい」
「お前なあ……」
三島は口元を隠していた。
どう見ても笑っている。
「顔が怖い上に泥だらけだと、さらに怖いわね」
「やっぱ笑ってんじゃねえか!」
周りから笑いが起きる。
伊藤も最後には笑っていた。
昼前。
クラス対抗の大縄が始まった。
「絶対合わせてよ!」
名取が全員を見回す。
「練習通りやればいけるから!」
「名取、怖えよ」
真下が言う。
「真下君が引っかからなければ大丈夫」
「なんで俺限定なんだよ!」
「昨日二回引っかかったから」
「覚えてんのかよ!」
「当然」
「こわっ」
「ほら、並ぶ!」
名取の声で全員が位置につく。
俺の近くには林と堀井。
「緊張する」
林が小さく言った。
「大丈夫。練習では結構続いてたし」
「私が引っかかったらどうしよう」
「その時はもう一回やればいいよ」
「でも……」
「林」
「ん?」
「楽しもう」
自分で言って、少し驚いた。
前の俺なら、そんなことを言えただろうか。
「……うん」
林が笑った。
「せーの!」
縄が回る。
「いち! に! さん! し!」
全員で跳ぶ。
最初はバラバラだった掛け声が、いつの間にか一つになっている。
「二十一! 二十二!」
「いける!」
「二十三! 二十四!」
誰かの足が縄に触れた。
「うわっ!」
止まる。
「誰!?」
名取が振り返る。
「俺」
真下が手を上げた。
「また真下君!」
「悪かったって!」
「まだ時間ある! もう一回!」
すぐに並び直す。
真下も文句を言いながら位置につく。
「次は引っかかんなよ」
俺が言う。
「うるせえ。お前も気をつけろ」
「はいはい」
「なんだその言い方」
「始めるよ!」
「名取が一番怖えよ」
「聞こえてる!」
「ほらな!」
笑いが起きる。
そして、もう一度。
「せーの!」
縄が回った。
結果。
俺たちのクラスは二位だった。
「あと少しだったのにー!」
名取が本気で悔しがっている。
「二位なら十分じゃん」
浅井が言う。
「十分じゃない」
「出た」
「あと三回跳べてたら勝ってたのに」
「桃香」
「何?」
「体育祭で世界は終わらないよ」
「分かってるよ!」
口ではそう言いながら、名取はまだ得点表を睨んでいた。
俺は少し笑う。
「何笑ってんの?」
「いや」
「矢城も悔しくないの?」
「悔しいよ」
「でしょ?」
「でも楽しかった」
名取が少し黙る。
「……私も楽しかったよ」
「じゃあいいじゃん」
「よくない。楽しくて勝つのが一番いいの」
「欲張りだな」
「当たり前でしょ」
名取が笑った。
さっきまでの悔しそうな顔とは違う。
少なくとも今は、本当に楽しそうだった。
◇
昼休み。
俺は堀井、成瀬、高石と一緒に弁当を食べていた。
「午後リレーだな」
高石が言う。
「緊張してきた」
「矢城、アンカーだっけ?」
堀井が聞く。
「違う。俺は二走」
「アンカーは健太」
高石が成瀬を見る。
「なんで俺?」
「一番速いからだろ」
「高石でもいいじゃん」
「お前が一番速い」
「でも――」
「健太」
「何?」
「こういう時くらい素直に『任せろ』って言えよ」
成瀬が少し笑う。
「……じゃあ任せろ」
「最初から言え」
そのやり取りを見ていた堀井が笑った。
「仲いいよな、二人」
「腐れ縁」
高石が答える。
「ひどくない?」
「事実だろ」
成瀬も笑っている。
「矢城くん」
後ろから呼ばれた。
「ん?」
林が立っていた。
手には小さな袋。
「これ」
「何?」
「飴」
「俺に?」
「うん。午後リレーだから」
「ありがとう」
「頑張ってね」
「……うん」
受け取る。
林はそれだけで戻っていった。
「……」
嫌な予感がした。
振り返る。
三人とも俺を見ていた。
「何?」
「いや」
高石が笑う。
「何でも」
「言えよ」
「よかったな」
「何が?」
「飴」
「普通だろ」
「林、俺にはくれなかったけど」
堀井が言う。
「俺も」
成瀬。
「俺も」
高石。
「……」
「矢城」
高石が肩を叩く。
「頑張れよ」
「リレーの話だよな?」
「もちろん」
「その顔やめろ」
三人が笑う。
「うるさいな……」
袋を開ける。
中には飴が三つ。
ただの飴。
なのに、一つ口に入れるだけで、さっきより頑張れる気がした。
◇
午後。
男子クラス対抗リレー。
グラウンドの空気が変わった。
クラスのテントから声援が飛んでいる。
「矢城!」
伊藤が腕を回しながら言った。
「バトン落とすなよ」
「伊藤こそ」
「俺が落とすわけねえだろ」
「その自信どこから来るんだよ」
「俺だから」
「説明になってない」
第一走者は伊藤。
第二走者が俺。
第三走者、高石。
アンカー、成瀬。
スタート位置へ向かう。
心臓が速い。
練習とは全然違う。
観客。
声援。
空気。
全部が違う。
第一走者が並ぶ。
「位置について!」
伊藤が腰を落とす。
「よーい――」
乾いた音が響いた。
一斉に走り出す。
「伊藤ー!」
「レオ! いけー!」
速い。
伊藤が前へ出る。
俺はバトンゾーンへ入った。
「矢城!」
伊藤の声。
走り出す。
「来い!」
手を後ろへ。
バトンが当たる。
掴む。
「行け!」
全力で走る。
歓声が聞こえる。
でも、誰が何を言っているのか分からない。
前だけを見る。
一人抜く。
横から別のクラスが迫る。
「矢城くん!」
その声だけは、不思議なくらいはっきり聞こえた。
林だ。
普段、大勢の前で大きな声を出すようなタイプじゃない林が、俺を応援している。
「頑張ってー!」
脚に力が入る。
我ながら単純だと思う。
でも今は、それでいい。
「高石!」
「来い!」
バトンを渡す。
高石が飛び出した。
「はあっ……はあっ……!」
その場から振り返る。
「守ー!」
成瀬が叫んでいる。
高石が一人を抜いた。
現在二位。
「健太!」
バトン。
成瀬が走り出す。
「いけえええ!」
気づけば俺も叫んでいた。
前を走るクラスとの差は数メートル。
縮まる。
「成瀬!」
「健太ー!」
「抜け!」
あと少し。
ゴールが近づく。
並ぶ。
前へ出る。
そして――。
「……っ!」
二人がほぼ同時にゴールラインを駆け抜けた。
一瞬、誰も分からなかった。
「どっち!?」
「勝った!?」
「分かんねえ!」
判定を待つ。
数秒がやけに長い。
やがて。
『ただいまの男子クラス対抗リレー――』
放送が流れる。
俺たちは黙る。
『一位、一年三組!』
「――よっしゃああああ!」
伊藤が叫んだ。
「勝った!」
高石が成瀬に飛びつく。
「うわっ!」
「健太! お前最高!」
「重いって!」
「成瀬!」
俺も駆け寄る。
「すげえ!」
「矢城も速かったじゃん!」
「俺より成瀬だろ!」
「レオもだろ!」
「当たり前だ!」
四人で騒ぐ。
クラスのテントを見る。
みんな立ち上がっている。
名取が飛び跳ねている。
浅井も。
堀井も。
三島も。
真下も。
佐藤も。
栗原も。
清水も。
そして。
林も。
目が合った。
林が両手を上げて、大きく拍手している。
俺も手を上げた。
林が笑った。
胸の奥が熱くなる。
勝った。
嬉しい。
でも、それだけじゃない。
俺は今。
このクラスの一員として、みんなと一緒に喜んでいる。
前の人生の体育祭なんて、ほとんど覚えていない。
覚えているのは。
早く終われ。
そんなことを考えていたことくらいだ。
勝っても。
負けても。
俺には関係ないと思っていた。
でも今は。
「矢城!」
名取が走ってくる。
「やった!」
「うん!」
勢いのまま手を出される。
俺も手を出した。
パンッ、と音が鳴った。
「これで大縄の二位取り返した!」
「まだ総合あるだろ」
「それも勝つ!」
「どんだけ勝ちたいんだよ」
「全部!」
名取が笑う。
その後ろから林もやってきた。
「矢城くん!」
「見てた?」
「見てたよ!」
「どうだった?」
「格好よかった」
「……」
固まった。
「矢城くん?」
「いや」
「どうしたの?」
「何でもない」
顔が熱い。
「おーい、矢城ー!」
少し離れたところから佐藤の声。
「顔真っ赤だぞー!」
「うるさい!」
周りから笑いが起きる。
林まで笑っている。
「もう……」
恥ずかしい。
でも、嫌じゃなかった。
◇
全競技が終わった。
最後の結果発表。
『一年生、総合優勝――』
全員が息を呑む。
『一年三組!』
「やったあああ!」
クラス中から歓声が上がった。
名取が一番騒いでいた。
「勝った! ほんとに勝った!」
「名取、うるさい!」
「矢城もうるさい!」
「俺は普通だろ!」
「さっき叫んでたじゃん!」
「リレーはいいんだよ!」
浅井が名取に抱きつく。
栗原も加わる。
伊藤と佐藤が肩を組み、真下たちも騒いでいる。
三島ですら少し嬉しそうだった。
ハマヤンが俺たちを見て笑う。
「お前ら、ほんとに勝ったな」
「先生、何かください!」
誰かが叫ぶ。
「俺からの熱い抱擁」
「いらなーい!」
「朝と同じじゃねえか!」
「じゃあ宿題一割増し」
「もっといらない!」
笑いが起きる。
ハマヤンも笑っていた。
「まあ――」
少しだけ声の調子を変える。
「よく頑張った」
それだけだった。
でも、十分だった。
帰り道。
俺は一人で歩きながら、今日のことを思い返していた。
伊藤から受け取ったバトン。
高石へ渡した瞬間。
成瀬がゴールした時の歓声。
みんなで喜んだこと。
名取とのハイタッチ。
そして。
『格好よかった』
「……」
思い出しただけで顔が熱くなる。
俺はずっと。
勝ち組になりたいと思っていた。
友達がいて。
部活をして。
学校行事で活躍して。
女の子から応援されて。
確かに、昔の俺が見れば、今の俺は少しくらい『勝ち組』に見えるかもしれない。
でも。
今日嬉しかったのは、それを手に入れたからじゃない。
伊藤からバトンを受け取った時。
高石へつないだ時。
成瀬が抜いた時。
クラスのみんなが叫んでいた時。
林が笑っていた時。
その一つ一つが、ただ嬉しかった。
「……楽しかったな」
誰もいない道で呟く。
その言葉が、今までで一番しっくりきた。
◇
その夜。
布団に入る。
目を閉じる前に、スマホを見る。
六月七日。
もう日付を確認することも、以前ほど多くなくなった。
明日も普通に来る。
そんな感覚が、少しずつ当たり前になっている。
俺はスマホを置いた。
「明日、林に何て言おうかな……」
格好よかった。
あれをもう一度思い出して、少し笑う。
目を閉じた。
翌朝。
目覚ましが鳴る。
「……ん」
手を伸ばし、スマホを取った。
画面を見る。
六月八日。
ちゃんと進んでいる。
「よし」
ベッドから起き上がる。
体育祭は終わった。
高校生活は、まだまだ続く。
この時の俺は。
しばらく日付が戻っていないことに、安心しすぎていた。
次に戻される時。
自分が何を間違えたのかすら分からない一日が来るなんて。
まだ、知らなかった。




