第29話「負けたくない」
五月十九日。
「矢城ー! 次、本気で走ってね!」
ゴールした名取が、少し離れたところから俺に向かって叫んだ。
「分かってるよ!」
返事をしながら、俺は立ち上がる。
正直、驚いた。
名取が運動できることは知っていた。女子バスケでも中心になるくらいだし、昔から何をやらせても上手かった。
でも、思っていた以上に速い。
「次、矢城だろ?」
伊藤に背中を叩かれる。
「痛っ」
「負けんなよ」
「女子相手に変なプレッシャーかけるなよ」
「負けたら一生言うからな」
「お前、性格悪いな」
「今気づいたのか?」
笑いながらスタート地点へ戻る。
「矢城くん!」
林の声が聞こえた。
振り返ると、小さく手を振っている。
「頑張って!」
「うん!」
さっきより頑張れそうな気がした。
我ながら単純だ。
「矢城、顔」
高石が言う。
「何?」
「ニヤけてる」
「ニヤけてない」
「分かりやすいな」
「うるさい」
スタート位置につく。
浅井がストップウォッチを構えた。
「いくよー!」
腰を落とす。
「よーい――」
笛が鳴った。
地面を蹴る。
腕を振り、ゴールまで一気に駆け抜けた。
「はあ……っ、はあ……」
「由実、何秒?」
なぜか俺より先に名取が聞いた。
「ちょっと待って……」
浅井が確認する。
「矢城の方が速い。ほんのちょっとだけど」
「よし!」
思わず声が出た。
名取を見る。
「俺の勝ちだな」
「……もう一回」
「え?」
「もう一回勝負しよ」
「俺、今二本目なんだけど」
「私も走るから同じでしょ」
「桃香」
浅井が苦笑する。
「今日はこれくらいでいいんじゃない?」
「でも、ほとんど同じだったじゃん」
「体育祭までまだあるよ」
名取は少し不満そうだったが、
「……分かった」
すぐに笑顔へ戻った。
「今日は矢城の勝ちってことでいいよ」
「なんで上からなんだよ」
「次は勝つから」
「俺だって速くなるけど」
「じゃあ勝負ね」
「受けて立つよ」
名取が笑う。
俺も笑った。
ただ。
負けたと分かった瞬間の名取の顔だけが、少し引っかかった。
リレー練習を終えた俺と高石は、急いで体育館へ向かった。
芹沢先生との約束より十分ほど遅れてしまい、当然のように二人ともダッシュを追加された。
「なんで俺まで……」
「二人で遅れただろ」
「矢城が女と競走してたからだろ」
「お前も見てたじゃん」
「俺は巻き込まれたんだよ」
「喋れるならあと一本追加する?」
芹沢先生の声が飛んでくる。
「「すみません!」」
俺と高石の声が重なり、先輩たちが笑った。
部活が終わった頃には、外は少し暗くなっていた。
帰ろうとした時。
グラウンドに一人だけ残っている生徒が見えた。
「……名取?」
走っていた。
スタート地点まで戻っては、また走る。
何度も。
「名取!」
声をかけると、名取が足を止めた。
「矢城? 部活終わったの?」
「今終わった。まだ走ってたの?」
「ちょっとだけ」
「今日かなり走っただろ」
「これくらい平気」
名取がまたスタート地点へ向かう。
「そんなに俺に負けたの悔しかった?」
冗談半分で聞いた。
名取も笑うと思った。
でも。
「うん」
即答だった。
「私、負けるの嫌いだから」
「……知ってるけど」
「なら次は勝つ」
「体育祭、男女別だぞ」
「関係ないよ」
そう言って笑う。
いつもの名取だ。
でも。
俺には、その笑顔の奥に何かがあるような気がした。
「無理すんなよ」
「分かってるって」
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
帰りながら一度振り返る。
名取はもう、次の一本を走り始めていた。
翌朝。
名取は何事もなかったように浅井と笑っていた。
机の上には、小テストのためにびっしり書き込まれたノート。
昨日あれだけ走って、そのあと家で勉強したのだろう。
俺はずっと、名取桃香を「何でもできる奴」だと思っていた。
でも。
何でもできるんじゃなくて。
何でもできるようにしているのかもしれない。
そんな考えが、初めて俺の中に浮かんだ。
◇
それからの日々は、驚くほど早く過ぎていった。
授業。
バスケ部。
体育祭の練習。
放課後にはリレーのメンバーで走り、そのまま高石と体育館へ駆け込む。
最初の頃は毎回のように芹沢先生に何か言われていたが、途中からは体育祭の練習時間も含めてメニューを調整してくれるようになった。
伊藤と成瀬は相変わらず速い。
俺も少しずつタイムを縮めた。
名取とは何度かタイムを比べた。
勝つ日もあれば、疲れている日は思ったほど伸びない日もある。
そのたびに名取は悔しそうな顔をした。
でも、以前の俺みたいに。
誰かに勝ったから価値がある。
負けたから駄目だ。
俺自身は、少しずつそう考えなくなっていた。
負けたら悔しい。
だから練習する。
それでいい。
そう思えるようになってきた。
大縄の練習も始まった。
「せーの!」
名取の掛け声に合わせ、クラス全員で跳ぶ。
「いち、に、さん、し――」
「あっ!」
誰かの足が引っかかった。
「誰だよ!」
「ごめん!」
「もう一回!」
最初は十回も続かなかった。
真下が文句を言い。
三島が「文句を言っても回数は増えない」と返し。
伊藤が笑い。
佐藤がふざけて名取に怒られる。
林は大きな声を出すのが苦手なのに、一生懸命みんなと掛け声を合わせていた。
その鞄には今も、俺が渡したペンギンがついている。
それを見るたび、少し嬉しくなる。
俺と林も何度か一緒に帰った。
特別なことはしていない。
学校の話をして。
部活の話をして。
たまにコンビニへ寄る。
それだけ。
なのに、その時間が一日の中で一番楽しみになっていた。
五月二十六日。
五月二十八日。
五月三十日。
日付は進んだ。
眠るたび。
朝が来るたび。
ちゃんと次の日になった。
もう以前ほど、朝起きるたびに日付を確認することはなくなっていた。
それでも時々。
スマホの画面に表示された新しい日付を見ると、少しだけ安心する。
今日も進んだ。
俺の選択は、少なくとも今のところ、この先へ続いている。
五月三十一日。
「来週はいよいよ体育祭だな」
朝のホームルームで、ハマヤンが言った。
教室から声が上がる。
「先生、優勝したら何かくれるんですか?」
「先生からの熱い抱擁」
「いらなーい!」
「なんでだよ。傷つくなあ」
「現金がいいです!」
「教師に何を要求してるんだ」
教室が笑いに包まれる。
ハマヤンは黒板を軽く叩いた。
「まあ、ここまで練習したんだ。勝つなら本気で勝ちにいけ」
その言葉に、名取が真っ先に反応した。
「もちろんです」
「名取は少し本気すぎる気もするけどな」
「そんなことないです」
「そうか?」
「はい」
即答だった。
ハマヤンは一瞬だけ名取を見た。
「ならいい」
それ以上は何も言わなかった。
「ただし、怪我だけはするなよ。体育祭で人生終わったみたいな顔して保健室に運ばれる奴、毎年いるからな」
「そんな奴いる?」
「いるんだよ。高校生は体育祭になると突然、自分がオリンピック選手だと勘違いするから」
「先生も出れば?」
「先生はもう大人なので無理はしません」
「逃げた!」
「賢明な判断と言いなさい」
また笑いが起きる。
俺も笑った。
窓の外を見る。
グラウンドには、体育祭用の白線が引かれ始めていた。
前の人生では。
何をしたのかすら、ほとんど覚えていない体育祭。
でも今回は違う。
走りたい。
勝ちたい。
みんなと楽しみたい。
そして。
林が見ている前で、少しくらい格好いいところを見せたい。
「……最後のが一番大きいかもな」
「何が?」
隣の堀井が聞いてきた。
「何でもない」
「また独り言?」
「気にするな」
「最近増えてない?」
「気のせい」
体育祭まで、あと一週間。
五月が終わる。
高校生活が始まって、もうすぐ二ヶ月。
時間は。
今度こそ、止まらずに進んでいた。




