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『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない』~間違った選択をすると、また今日が始まる~  作者: ダイヤマ
第2章 変わり始めた青春

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第27話 渡せなかったもの



 五月十三日。


 朝から、鞄の中が気になっていた。


 正確には、鞄の内ポケットに入っているものが。


「……今日こそ渡すか」


 小さく呟いて、ファスナーを閉める。


 五月四日。


 林と水族館へ行った日。


 土産物屋で林が手に取っていたペンギンのキーホルダー。


 八百円。


 林は少し迷ったあと、棚に戻した。


 俺はそれを覚えていて、林が別の場所を見ている間にこっそり買った。


 ――ここまではいい。


 問題は、そのあとだった。


 渡せなかった。


『これ、林が欲しそうだったから』


 それだけ言えばいい。


 たったそれだけなのに。


 帰りの電車でも。


 駅でも。


 別れる直前でも。


 結局、鞄から出すことができなかった。


 そして今日まで持ち歩いている。


「……何やってんだ、俺」


 女の子にプレゼントなんて、ほとんどしたことがない。


 そもそも、付き合ってもいない女子にキーホルダーを渡すのは普通なのか?


 重くないか?


 八百円なら大丈夫か?


 いや、値段の問題なのか?


「勇真ー! 遅れるわよー!」


「今行く!」


 母さんの声で我に返り、鞄を持った。


 学校に着いてからも、キーホルダーのことは頭の片隅に残り続けた。


 そして昼休み。


「矢城くん」


「ん?」


 林が俺の席までやってきた。


「今日……覚えてる?」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 いや。


 分からなかったのは一秒くらいだ。


「一緒に帰る約束だろ?」


「……うん」


 林が嬉しそうに笑った。


 その顔を見た瞬間、胸の奥が少し軽くなる。


「覚えてたんだ」


「さすがに忘れないよ」


「よかった」


「そんなに信用ない?」


「そういう意味じゃなくて」


 林は少し迷ってから言った。


「私だけ楽しみにしてたら、ちょっと恥ずかしいから」


「……」


 それは。


 ずるくないか?


「俺も楽しみにしてたよ」


「ほんと?」


「うん」


「そっか」


 林はまた笑った。


 俺は鞄を見る。


 今渡すか?


 いや、教室は人が多い。


 名取もいる。


 浅井もいる。


 というか、なんで俺は名取と浅井を気にしてるんだ。


「何?」


「いや、何でもない」


「?」


 結局、また渡せなかった。


 放課後。


「じゃあ帰ろっか」


「うん」


 昇降口で林と合流し、二人で校門を出る。


 水族館以来、二人きりで帰るのは初めてだった。


 前にも一緒に帰ったことはある。


 でも今日は、なんとなく違う。


 昨日から約束していたからだろうか。


 それとも俺が勝手に意識しているだけなのか。


「体育祭、楽しみ?」


 林が聞いた。


「結構楽しみかも」


「意外」


「俺もそう思う」


「前だったら嫌だった?」


「たぶん」


 前の人生の俺なら、体育祭なんて休みたかったかもしれない。


 クラスで盛り上がる行事ほど、自分が一人だと実感する。


「でも今は、リレーも出るし」


「応援するね」


「昨日も言ってた」


「何回でも言うよ」


「じゃあ頑張らないとな」


 そう答えると、林が少しだけ俺を見る。


「……矢城くんって、変わったよね」


「またそれ?」


「だって、本当に変わったから」


「入学して一ヶ月しか経ってないけど」


「一ヶ月でも分かるよ」


 林は前を向いた。


「最初は、ずっと周りを気にしてる感じだった」


「……」


「誰かが笑ったら、自分のことかなって見たり。誰かが近づいたら、ちょっと身構えたり」


 思わず林を見る。


 そこまで見られていたのか。


「よく見てるな」


「ご、ごめん」


「いや、謝ることじゃないけど」


 林は少し俯いた。


「なんとなく気になってたから」


 心臓が跳ねた。


「……俺が?」


「うん」


「なんで?」


「それは……」


 林が言葉に詰まる。


 俺も聞いてから後悔した。


 なんでって。


 そんなの聞かれたら困るだろ。


「ごめん。答えにくかったらいいよ」


「ううん」


 しばらく歩く。


 林が小さく息を吐いた。


「似てると思ったから」


「似てる?」


「私と」


 意外だった。


 俺と林が?


「矢城くんも、教室で周りを見てること多かったでしょ」


「ああ……」


「私もそうだから」


 林が少し笑う。


「みんなが楽しそうにしてるところに、入りたいなって思うことはあるんだけど」


「うん」


「入っていって邪魔だったらどうしようとか、急に私が入ったら変かなとか考えちゃって」


「……分かる」


「でしょ?」


 俺も何度も考えた。


 今話しかけていいのか。


 俺なんかが入っていいのか。


 空気を壊さないか。


 そう考えているうちに、会話は終わっている。


「だから、入学した頃の矢城くん見てたら、なんとなく分かった」


「俺も林のこと、似てると思ってたかも」


「ほんと?」


「うん。林と一緒にいると楽だし」


 口にしてから。


 少し恥ずかしくなった。


「……」


 林も黙っている。


「変な意味じゃなくて」


「うん」


「いや、変な意味っていうか……」


「矢城くん」


「何?」


「無理に言い直さなくていいよ」


 林が笑っていた。


「私もだから」


「……そっか」


「うん」


 また二人で歩く。


 会話が止まった。


 でも。


 気まずくない。


 水族館でもそうだった。


 林とは、黙っていても焦らない。


 何か喋らなきゃ。


 面白いことを言わなきゃ。


 そう思わなくていい。


 それが俺には心地よかった。


 しばらく歩いたところで、小さな公園の前を通った。


「あ」


 林が足を止める。


「どうした?」


「猫」


 見ると、ベンチの下に一匹の猫がいた。


 林が少し屈む。


「かわいい」


 猫は警戒したようにこちらを見る。


「逃げそうだな」


「近づかない方がいいかも」


 二人で少し離れたところから眺める。


「林、動物好き?」


「好きだよ」


「水族館でもペンギンめちゃくちゃ見てたもんな」


「……覚えてたんだ」


「そりゃ覚えてるよ」


 ペンギン。


 そこで思い出す。


 いや。


 朝からずっと覚えていた。


「……林」


「何?」


「ちょっと待って」


 鞄を下ろす。


 今だ。


 もう渡せ。


 これ以上持ち歩いていたら、逆に渡しにくくなる。


 内ポケットを開ける。


「これ」


 小さな袋を取り出した。


 林が不思議そうに見る。


「何?」


「水族館の時の」


「え?」


「開けてみて」


 林が袋を受け取る。


 中からペンギンのキーホルダーを取り出した。


「……」


 固まった。


「林?」


「これ……」


「欲しそうにしてたから」


「買ってたの?」


「うん」


「いつ?」


「林が別のところ見てる時」


「……」


 林がキーホルダーを見る。


 そして俺を見る。


 またキーホルダーを見る。


「嫌だった?」


「違う!」


 思ったより大きな声が返ってきた。


「びっくりしただけ」


「ああ」


「だって……」


 林がペンギンを両手で持つ。


「私、買わなかったのに」


「だから買ったんだけど」


「なんで?」


「え?」


「なんで買ってくれたの?」


 聞かれて。


 言葉に詰まった。


 なんで。


 そんなこと、考えていなかった。


 林が欲しそうだった。


 でも買わなかった。


 だから俺が買った。


 ただ、それだけで。


「……喜ぶかなと思って」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


 林が目を丸くする。


「俺、林がそれ見て嬉しそうにしてたから」


「……」


「だから、渡したら喜ぶかなって」


 言ってから、とんでもなく恥ずかしくなった。


「ごめん。なんか今の――」


「嬉しい」


 林が言った。


「え?」


「すごく嬉しい」


 ペンギンのキーホルダーを見ながら。


 林が笑う。


「ありがとう、矢城くん」


 その笑顔を見た瞬間。


 買ってよかったと思った。


 八百円だったからじゃない。


 女の子にプレゼントできたからでもない。


 林が喜んだから。


 ただ、それだけで嬉しい。


「大事にする」


「そこまで大袈裟なものじゃないよ」


「大事にするの」


「……分かった」


 林がその場で鞄にキーホルダーをつける。


 小さなペンギンが揺れた。


「どう?」


「似合ってる」


「鞄に?」


「ペンギンが」


「私じゃないんだ」


「いや、林にも――」


 言いかけて止まる。


 林がじっとこちらを見た。


「何?」


「……何でもない」


「気になる」


「何でもないって」


「絶対何か言おうとした」


「してない」


「したよ」


 林が珍しく食い下がってくる。


「ほら、帰ろう」


「あ、逃げた」


「逃げてない」


 歩き出す。


 後ろから林が追いかけてくる。


 隣に並んだ時。


「矢城くん」


「何?」


「ほんとにありがとう」


「……うん」


 今度はちゃんと返事ができた。


 林と別れて、一人で家へ向かう。


 頭の中に何度も浮かぶ。


 ペンギンを見た時の林の顔。


『すごく嬉しい』


 思い出すたびに、俺まで嬉しくなる。


 前の俺なら。


 女の子にプレゼントを渡せた。


 二人で帰った。


 次も会う約束がある。


 そんなことを一つずつ数えて、


 ――俺、勝ち組に近づいてる。


 そう思っていたかもしれない。


 でも今は違った。


 そんなことは、どうでもいい。


 林が喜んでくれた。


 俺は、それが嬉しかった。


「……」


 歩きながら、自分の胸に手を当てる。


 もう。


 なんとなく分かっている。


 認めるのが恥ずかしいだけで。


 たぶん俺は。


 林円花のことを――。


「……いや」


 首を振る。


 まだいい。


 今すぐ答えを出す必要なんてない。


 正解を急いで探す必要もない。


 今はただ。


 次に林と一緒に帰る日が、楽しみだった。



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