第26話 クラスで勝ちたい
五月十二日。
「体育祭の種目決めるぞー」
朝のホームルーム。
黒板の前に立った担任の浜田謙信先生――通称『ハマヤン』の一言で、教室がざわついた。
冗談好きで話しやすく、生徒との距離も近い。入学してまだ一ヶ月ほどだというのに、すでにクラスのほとんどが『ハマヤン』と呼んでいる。
「先生、まだ五月ですよ」
誰かが言う。
「だから決めるんだよ。当日に『俺、何出るんですか?』とか言われても先生は困るからな」
「そんな奴いないでしょ」
「いるんだよ。毎年必ず一人は」
浜田先生はそう言って、黒板に大きく『体育祭』と書いた。
うちの学校の体育祭は六月上旬。
個人種目だけじゃなく、クラス対抗のリレーや綱引き、大縄なんかもあるらしい。
「というわけで、今日から種目を決めてもらいます。先生は口出ししません」
「絶対嘘じゃん」
「先生を信用しなさい」
「無理でーす」
「悲しいなあ。先生、泣いちゃう」
教室に笑いが起こる。
俺も笑いながら黒板を見た。
体育祭。
前の人生でも、もちろんあった。
ただ――。
ほとんど覚えていない。
自分が何の種目に出たのかさえ、はっきりしなかった。
たぶん、余った種目に入った。
クラスが勝ったか負けたかも覚えていない。
その程度だった。
「じゃあ、名取。頼んだ」
「え、私?」
「こういうの好きそうだから」
「理由雑すぎません?」
「先生は人を見る目があるんだよ」
「ただ面倒なだけでしょ」
「……名取。世の中には言わなくていい真実もある」
「認めた!」
また笑いが起こる。
名取は呆れながらも前へ出た。
「じゃあ決めよっか。まずリレー出たい人いる?」
何人かの手が上がる。
伊藤。
佐藤。
成瀬。
高石。
運動が得意な奴らばかりだ。
「矢城は?」
突然、名取が俺を見る。
「俺?」
「バスケ部入ったんだから、運動できるでしょ」
「バスケ部だから足速いとは限らないだろ」
「でも遅くはないよね?」
「まあ……普通よりは」
「じゃあ候補」
「勝手に入れるなよ」
名取が黒板に俺の名前を書く。
周りから笑い声が上がった。
「矢城、諦めろ」
成瀬が笑っている。
「お前は確定だろ」
「俺も勝手に入れられた」
「説得力が違うんだよ」
成瀬は何でもできる。
勉強も運動も、人付き合いも。
体育祭なんて、こいつが一番輝きそうな行事だ。
前の俺なら。
きっと、そう思っていた。
――ああいう奴が勝ち組なんだ。
でも今は少し違う。
羨ましくないわけじゃない。
ただ、成瀬を見ても、自分も成瀬にならなきゃとは思わなくなってきていた。
「女子は?」
名取が振り返る。
「私出るー!」
浅井が手を上げる。
「由実、足速かったっけ?」
「普通!」
「なんでそんな自信満々なの」
「参加することに意義がある!」
三島が冷静に口を挟んだ。
「リレーは勝敗を競う競技だけど」
「三島さん、体育祭で正論やめてもらえます?」
「事実を言っただけ」
「じゃあ三島も出ようよ」
「嫌」
「即答!」
教室がまた笑いに包まれる。
その時。
「千尋、出れば?」
栗原が言った。
「は? なんで私?」
「足速いじゃん」
「疲れるから嫌」
「体育祭で疲れたくないって何しに来るの?」
「友香を応援する」
「私まだ出るって言ってないんだけど!」
清水と栗原のやり取りにも笑いが起きる。
こうして見ていると、不思議だった。
俺は今、この教室の中にいる。
ただ席に座っているという意味じゃない。
誰かが喋れば笑って。
話を振られれば返して。
体育祭で何に出るかを、みんなと一緒に考えている。
前の人生にも同じような時間はあったはずなのに。
俺はずっと、教室の端から眺めているだけだった。
「矢城くん」
小さな声で呼ばれた。
隣を見ると、林がこちらを見ている。
「どうした?」
「矢城くん、リレー出るの?」
「まだ分かんない。名取が勝手に書いただけ」
「でも……ちょっと見たいかも」
「俺が走ってるところ?」
「うん」
林が小さく笑う。
「バスケしてるところも、まだちゃんと見たことないし」
「そういえばそうだな」
「だから、体育祭なら見られるかなって」
「……じゃあ出ようかな」
「え?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
「いや、まだ決まってないけど」
「ふふっ」
「何?」
「名取さんに言われた時は嫌そうだったのに」
「……確かに」
名取に言われた時は面倒だと思った。
なのに林から見たいと言われたら、悪くないと思った。
我ながら分かりやすい。
「じゃあ応援するね」
「それなら頑張る」
林がまた笑った。
その笑顔を見ていると、五月四日の水族館を思い出す。
『今の矢城くん、好きだな』
もちろん、あれはそういう意味じゃない。
本人もすぐ否定した。
分かっている。
分かっているのに。
最近、林と話すたびに少しだけ意識してしまう。
俺、本当に林のこと――。
「はいはい、そこ」
声が飛んできた。
見ると、名取が黒板の前から俺たちを見ている。
「二人の世界に入らない」
「入ってない!」
思わず声が大きくなる。
林が一気に赤くなった。
「桃香、そういうこと言わないの」
浅井が笑いながら名取の肩を叩く。
「だって全然こっち見てないんだもん」
「見てるよ」
「じゃあ矢城、リレーでいい?」
「……出る」
「え?」
名取が少し驚く。
「さっき嫌そうだったじゃん」
「気が変わった」
「ふーん」
名取の視線が俺から林へ移る。
そして、もう一度俺を見る。
「……そっか」
ほんの一瞬だけ。
いつもの名取とは違う表情をしたような気がした。
でもすぐに笑顔へ戻る。
「じゃあ男子リレー、矢城追加ね」
黒板に名前が書き加えられた。
その後も種目決めは続いた。
綱引き。
大縄。
障害物競走。
それぞれ希望を聞いていく。
当然、全員が希望通りになるわけじゃない。
「俺それ嫌なんだけど」
「人数足りないからお願い!」
「えー」
「じゃあ代わりに誰か出られる?」
名取が困っていると、ハマヤンは教卓から眺めているだけだった。
「先生、助けてくださいよ」
「先生は口出ししないって言っただろ」
「こういう時だけ約束守るんですね」
「大人だからな」
「絶対違う」
名取がため息をつく。
その時。
「俺出てもいいけど」
声を上げたのは真下だった。
「え?」
「それ、別に誰でもいいんだろ?」
「うん」
「じゃあ俺でいいよ」
真下が面倒そうに言う。
川井が笑った。
「真下、優しー」
「うるせえ。早く決めたいだけ」
名取は少し驚いたあと、
「じゃあお願い」
と黒板に名前を書いた。
俺はその様子を黙って見ていた。
真下がこちらに気づく。
「……何だよ」
「別に」
「また見てただろ」
「見てない」
「絶対見てた」
「自意識過剰じゃない?」
「お前にだけは言われたくねえ!」
近くにいた堀井が笑う。
真下は舌打ちしながら前を向いた。
たぶん、本当に早く決めたかっただけなんだろう。
それでも。
前の俺なら、あの行動を見ても何とも思わなかった。
いや。
そもそも見ようとすらしなかった。
ホームルームが終わり、ハマヤンが教室を出ようとする。
その直前。
「そうだ」
先生が振り返った。
「せっかくなら勝てよ」
「急に雑!」
浅井が突っ込む。
「勝てって、先生さっき何も口出ししないって」
「種目には口出ししない。でも先生のクラスが負けるのは悔しい」
「自分勝手すぎる!」
「先生も人間だからな」
ハマヤンは笑った。
「まあ、勝つのも大事だけど」
そこで一度、教室を見渡す。
「せっかく全員でやるんだから、終わった時に楽しかったって思えれば、それでいいんじゃないか」
「先生、急に先生っぽい」
「名取。『っぽい』はいらない」
笑いが起きる。
ハマヤンも笑って、そのまま教室を出ていった。
俺は黒板を見る。
そこには、クラス全員の名前が並び始めていた。
体育祭。
前の人生では、勝ったか負けたかすら覚えていない行事。
でも今回は。
少しだけ楽しみだった。
放課後。
「矢城くん」
靴を履き替えていると、林が追いかけてきた。
「今日、部活?」
「うん」
「そっか」
「どうした?」
「いや……一緒に帰れるかなって思っただけ」
「あ……」
少し残念そうな顔をする。
それを見て、胸がざわついた。
「明日は?」
「え?」
「明日、部活休みだから」
俺は少し照れながら言った。
「一緒に帰ろうよ」
林の表情が明るくなる。
「うん」
それだけで。
俺まで嬉しくなった。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
林と別れ、体育館へ向かう。
廊下を歩きながら、ふと思う。
友達ができた。
部活に入った。
女の子と水族館へ行った。
体育祭ではリレーにも出る。
前の俺が見れば、今の俺を「勝ち組」だと思うのかもしれない。
少し前までの俺なら、それを喜んでいたはずだ。
なのに。
今、一番楽しみなのは。
体育祭で活躍することでも。
クラスで目立つことでもなく。
明日、林と一緒に帰ることだった。
「……俺、分かりやすいな」
誰もいない廊下で一人呟く。
そのまま体育館の扉を開けた。
「矢城、遅い」
芹沢先生が腕を組んで立っていた。
「え、まだ時間前ですよ?」
「みんなもう準備してる」
「いや、でも――」
「ダッシュ五本追加」
「なんで!?」
「口答えしたから六本」
「増えてる!」
「七本」
「分かりました! 走ります!」
先輩たちの笑い声が体育館に響いた。
六月の体育祭まで。
まだ少し時間がある。
でも俺の高校生活は、確かに前へ進んでいた。




