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『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない』~間違った選択をすると、また今日が始まる~  作者: ダイヤマ
第2章 変わり始めた青春

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第25話 冗談のつもり



五月九日。


 朝、教室に入ると、真下と目が合った。


「……」


「……」


 昨日のことがある。


 俺から挨拶するべきか少し迷った。


「おはよう」


「……おう」


 返ってきた。


 昨日は「気持ち悪っ」だったのに。


 それだけで少し驚いていると、真下が眉をひそめた。


「何だよ」


「いや、返してくれるんだなって」


「挨拶くらいするわ!」


「昨日は気持ち悪いって言ったじゃん」


「うるせえな!」


 やっぱり真下だ。


 そう思いながら自分の席へ向かう。


 前の人生では考えられなかった。


 真下とこんな会話をすること自体が。


「最近、真下とよく喋るね」


 席に着くなり、名取が言った。


「そう見える?」


「見える。仲良くなったの?」


「それはない」


「即答なんだ」


「向こうも同じこと言うと思う」


 名取がくすっと笑う。


「でも、最初の頃よりはマシなんじゃない?」


「……まあ」


 そうなのかもしれない。


 嫌いじゃなくなったわけではない。


 ただ、少なくとも入学した頃みたいに、真下を見ただけで前の人生の感情をぶつけることはなくなった。


 今の真下を見る。


 それだけだ。


 それだけのことが、俺には難しかった。


 昼休み。


 堀井と昼飯を食べていると、教室の後ろから笑い声が聞こえてきた。


 真下たちだ。


「マジで似てるって!」


「似てねえよ!」


「もう一回やれよ、剛」


「なんで俺なんだよ!」


 川井が笑い、真下も机を叩いている。


 何をしているのかと思って見ていると、林が教師のモノマネをしているらしい。


 くだらない。


 本当にくだらない。


「お前、また見てるぞ」


 堀井に言われた。


「え?」


「真下たち」


「……見てない」


「いや、見てたじゃん」


「たまたま」


「最近気にしすぎじゃない?」


「そうかな」


「好きなの?」


「なんでそうなるんだよ」


「嫌いの反対は好きかなって」


「その理屈なら世の中大変なことになるぞ」


 堀井が笑う。


 俺も笑いながら弁当を食べる。


 その時だった。


「おい」


 真下の声。


 見ると、教室へ入ってきた男子生徒を呼び止めていた。


 昨日、階段で真下たちに囲まれていた奴だ。


 一瞬、身体に力が入る。


 男子生徒も少し警戒した顔をした。


「何?」


 真下が椅子から立ち上がる。


「昨日のあれさ」


「……うん」


 教室の空気なんて変わっていない。


 周りはそれぞれ話を続けている。


 なのに俺だけが、二人の会話に耳を向けていた。


「お前、本当に嫌だったの?」


 男子生徒が戸惑う。


「え?」


「だから、昨日の」


「……まあ、ちょっと」


 真下の表情がわずかに固まった。


「でも、別にもういいよ」


「……」


「じゃあ」


 男子生徒が行こうとする。


「待って」


 真下が呼び止めた。


 しばらく黙っている。


 川井と林も、何を言うのか分からないような顔をしていた。


「……悪かった」


 小さかった。


 聞き間違いかと思った。


 男子生徒も同じだったらしい。


「え?」


「だから!」


 真下の声が急に大きくなる。


「嫌だったなら悪かったって言ってんの!」


「なんでキレてんだよ」


 思わず俺が言うと、真下が振り返った。


「お前に言ってねえ!」


「いや、謝りながらキレる奴初めて見たから」


「うるせえよ!」


 男子生徒が吹き出した。


「……分かった。もういいよ」


「おう」


「じゃあな」


「おう」


 男子生徒が教室を出ていく。


 真下は気まずそうに椅子へ座った。


 川井がニヤニヤしている。


「徹ちゃん、優しいじゃん」


「殺すぞ」


「怖っ」


 林まで笑っている。


「昨日、矢城に言われたから?」


「違えよ!」


 真下が俺を見る。


 目が合った。


「……何だよ」


「いや」


「言いたいことあるなら言えよ」


「別に」


「その顔ムカつくんだけど」


「どんな顔だよ」


 俺は笑っていた。


 自分でも気づいていなかった。


 真下はますます不機嫌そうな顔になる。


「マジでお前嫌い」


「俺もまだ好きじゃない」


「なんなんだよお前!」


 教室の何人かがこっちを見て笑った。


 放課後。


 今日は部活が休みだった。


 堀井と昇降口まで歩いていると、後ろから声をかけられた。


「矢城」


 振り返る。


 真下だった。


 川井と林はいない。


 一人だ。


「何?」


「ちょっといい?」


 珍しい。


 俺は堀井を見る。


「先帰っていいよ」


「分かった」


 堀井は俺と真下を交互に見る。


「喧嘩すんなよ」


「しないよ」


「多分な」


「真下、お前が言うなよ」


 堀井が苦笑しながら帰っていった。


 真下と二人になる。


 妙な沈黙が流れた。


「……何?」


「昨日のこと」


「うん」


「あいつ、本当に嫌だったんだな」


「そう言ってたじゃん」


「それは分かってるけど」


 真下が頭をかく。


「俺、普通にふざけてただけなんだよ」


「……」


「川井も剛も笑ってたし、あいつも笑ってたし」


 昨日と同じだ。


 でも、声の調子が違う。


 言い訳というより、本当に分からないのだろう。


「俺、別にいじめてたつもりねえから」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥がざわついた。


 前の人生の記憶が蘇る。


『冗談じゃん』


『いじめとか大袈裟だろ』


『矢城も笑ってんじゃん』


 何度も聞いた。


 何度も。


 俺が何も言わなかったから。


 俺が笑っていたから。


 こいつらは、本当にそう思っていたのかもしれない。


「……矢城?」


 気づけば黙っていた。


「ごめん」


「何が?」


「いや、ちょっと考えてた」


 真下が怪訝そうに俺を見る。


 俺は少し迷った。


 前の人生の話なんてできない。


 でも。


 これは言ってもいい気がした。


「お前が冗談だったかどうかじゃないんじゃない?」


「は?」


「相手がどう思ったかだろ」


 真下が黙る。


「自分はふざけてるだけでも、相手は嫌かもしれない。笑ってても、本当は嫌かもしれない」


「そんなの分かんねえじゃん」


「うん」


「だったらどうすんだよ」


「分からない」


「は?」


「俺だって分からないよ」


 俺は苦笑した。


「でも、分からないからって、相手が嫌がってないことにはならないだろ」


「……」


「昨日の奴みたいに、嫌だって言える奴ばっかりじゃないし」


 昔の俺がそうだった。


 嫌だった。


 やめてほしかった。


 でも、言えなかった。


 言ったらもっと笑われる気がした。


 だから笑った。


 自分から。


 傷ついていないふりをした。


「じゃあ、どうやって見分けんだよ」


 真下が言った。


「知らないよ」


「お前さっきからそればっかじゃん!」


「俺は先生じゃないんだから」


「偉そうに言っといて!」


「ただ……」


 少し考える。


「嫌って言われた時くらい、素直にやめればいいんじゃない?」


「……」


「あと、嫌って言いやすい空気にするとか」


「何だよそれ」


「三人で囲んで『嫌なの?』って聞かれて、嫌って言える奴そんなにいないだろ」


 真下が黙った。


 その顔を見て、少しだけ意外に思う。


 怒ると思った。


 お前に関係ないと言われると思った。


 でも真下は、しばらく何も言わなかった。


「……めんどくさ」


 やがて、そう呟いた。


「人付き合いなんてそんなもんじゃない?」


「お前が言う?」


「どういう意味だよ」


「お前、コミュ力高いタイプじゃねえだろ」


「それは否定できないけど」


 真下が少し笑った。


 本当に、少しだけ。


「じゃあな」


「え?」


「帰る」


「ああ」


 真下が歩き出す。


 数歩進んだところで止まった。


「矢城」


「何?」


 振り返らないまま、真下が言った。


「俺さ」


「うん」


「お前みたいな奴、苦手だわ」


「奇遇だな。俺もだよ」


「……ムカつく」


 そう言い残して歩いていく。


 俺はその背中を見送った。


 昔の真下とは、こんなふうに話したことは一度もなかった。


 そもそも俺は、真下に自分の気持ちを伝えたことがほとんどない。


 嫌でも笑った。


 怖くても黙った。


 そして真下も、それを見て笑っていた。


 どこから間違っていたんだろう。


 真下が悪くなかったなんて思わない。


 今でも思わない。


 嫌がっている人間をからかい続けるのは、やっぱり間違っている。


 でも。


 もし、最初のどこかで。


 俺が「嫌だ」と言えていたら。


 真下がそれを聞けていたら。


 何か一つでも違っていたら。


 俺たちの三年間も、少しは違っていたんだろうか。


 答えは分からない。


 もう、確かめることもできない。


 だけど今は違う。


 俺には、この高校生活がある。


 真下にも、この高校生活がある。


 まだ五月だ。


 あいつがこの先、前と同じ真下になるのか。


 それとも違う人間になるのか。


 俺には分からない。


 でも。


 それを最初から決めつけるのだけは、もうやめようと思った。



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