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『人生勝ち組になるまで、俺の青春は先に進まない』~間違った選択をすると、また今日が始まる~  作者: ダイヤマ
第2章 変わり始めた青春

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第24話 知っているはずの男



五月八日。


「……気持ち悪っ」


「聞こえてるぞ」


「うるせえよ!」


 教室の後ろから飛んできた真下の声に、俺は少しだけ笑いながら自分の席へ向かった。


 たった一度、挨拶しただけだ。


 それなのに妙な感じがする。


 前の人生を含めても、俺の方から真下に「おはよう」なんて言った記憶はほとんどない。


 そもそも前の俺にとって、真下はできるだけ関わりたくない相手だった。


 教室にあいつがいるだけで、今日は何か言われるんじゃないかと警戒していた。


 目が合わないようにする。


 近くを通らないようにする。


 笑い声が聞こえれば、自分のことを笑っているんじゃないかと気にする。


 それが三年間続いた。


 だから今も、真下の声が聞こえると身体が少し強張る。


 それは簡単には消えない。


「矢城、おはよ」


 席に着くと、名取が声をかけてきた。


「おはよう」


「なんか機嫌よくない?」


「そう?」


「ちょっと笑ってたから」


「いや……別に」


 まさか真下に挨拶して驚かれたのがおかしかったとも言えない。


 名取は不思議そうに俺を見ていたが、すぐに浅井に呼ばれてそちらへ向かった。


 俺は鞄から教科書を取り出しながら、何気なく後ろを見る。


 真下は川井、林と話していた。


「だからお前が悪いんだって」


「いや、あれは純平が――」


「俺のせいにすんなよ!」


 三人でくだらない話をして笑っている。


 普通だった。


 本当に、ただの高校生にしか見えない。


 昨日、真下に言われた言葉がまた頭をよぎる。


『俺、お前になんかした?』


 今のところ。


 俺に対しては、何もしていない。


 だからといって、いい奴だと思うつもりもない。


 人を馬鹿にするような話し方をすることはあるし、相手によって態度を変えているのも何となく分かる。


 ただ――俺は今まで、それ以上知ろうともしなかった。


 知る必要なんてないと思っていた。


 だって、俺は真下徹という人間を知っているつもりだったから。


 昼休み。


「矢城、購買行こうぜ」


 堀井に誘われ、俺は席を立った。


「今日混んでそうだな」


「だから急ぐんだよ。焼きそばパンなくなる」


「そこまでして食いたい?」


「お前は焼きそばパンを舐めてる」


「そんな大層な食い物じゃないだろ」


 くだらない話をしながら廊下へ出る。


 購買へ向かう途中、前方に人だかりができていた。


「なんだ?」


 近づいてみると、廊下にプリントが散らばっている。


 一年生らしい男子がしゃがみ込み、慌てて拾っていた。


 そのすぐ横を何人もの生徒が通っていく。


 俺も拾おうと足を止めた。


 その時だった。


「邪魔」


 聞き覚えのある声。


 真下だ。


 川井と林も一緒にいる。


 真下は床のプリントを見下ろすと、


「こんなとこに広げんなよ」


 そう言って、そのまま通り過ぎようとした。


 やっぱり。


 胸の奥に、昨日とは違う感情が湧く。


 こういうところだ。


 困っている奴がいても知らん顔。


 相手が弱そうなら平気で。


「あ、待って」


 真下が突然立ち止まった。


「何?」


 川井が振り返る。


 真下は足元に落ちていた一枚のプリントを拾った。


「これ、お前の?」


「あ……うん」


「ほら」


 男子生徒に渡す。


 それだけだった。


 別に一緒に拾ってやるわけでもない。


「ちゃんと持っとけよ。邪魔だから」


「あ、ありがとう」


 真下は返事もせず、川井たちと歩いていった。


「……」


「矢城?」


「え?」


「拾うんじゃないの?」


「あ、ああ」


 堀井に言われ、我に返る。


 二人で残りのプリントを拾った。


「ありがとう」


「いや、いいよ」


 全部渡してから、また購買へ向かう。


 俺は前を歩く真下たちの背中を見ていた。


「どうした?」


「……いや」


 別に、今の行動だけで真下がいい奴になったわけじゃない。


 むしろ最初に「邪魔」と言っていた。


 言い方も感じが悪い。


 なのに俺は、一瞬でも驚いてしまった。


 真下が人の物を拾った。


 ただそれだけのことで。


「俺……どんだけ嫌いだったんだよ」


「何が?」


「なんでもない」


「今日のお前、独り言多くない?」


「気にすんな」


「怖いんだけど」


 堀井が少し距離を取った。


「なんで離れるんだよ」


「独り言言いながら歩いてる奴はちょっと……」


「戻ってこい」


 そんなことを話しているうちに購買へ着いた。


 放課後。


 俺はバスケ部の練習へ向かった。


「集合」


 体育館に芹沢先生の声が響く。


 長い髪を後ろでまとめた芹沢凛(セリザワリン)先生は、普段なら生徒が振り返るくらい綺麗な先生だ。


 ただし、バスケ部員にとっては少し意味が違う。


「今日は走るわよ」


 その一言で、先輩たちの顔が曇った。


「先生、昨日も結構走りましたけど……」


「そうね」


「じゃあ今日は――」


「昨日走ったから、今日走れない理由になる?」


「……なりません」


「よろしい」


 笑顔が怖い。


 俺も入部してから少しずつ分かってきた。


 この人、美人とかそういう感想が消えるくらい厳しい。


 練習が始まり、基礎メニューをこなしていく。


 途中、ミニゲーム形式の練習になった。


 俺はボールを受けると、前を見る。


 一人が空いている。


 でも、そこへ出せば相手が寄る。


 視界の端で別の味方が動いた。


 そっちだ。


 パスを出す。


「ナイス!」


 ボールがつながり、そのままシュートが決まった。


「矢城」


「はい!」


 芹沢先生に呼ばれ、反射的に背筋が伸びる。


「今、最初からあそこ見えてた?」


「最初からというか……相手が寄ったんで」


「ふうん」


 芹沢先生が少しだけ目を細める。


「あなた、ボール持ってない時の方が周り見えてるわね」


「え?」


「褒めてるの」


「あ、ありがとうございます」


「だからあと十本」


「何がですか?」


「ダッシュ」


「なんで!?」


「体力が足りないから」


 褒められたと思ったのに。


「ほら、早く」


「はい……」


 走り出すと、先輩が笑っていた。


 鬼だ。


 絶対鬼だ。


 それでも不思議と嫌ではなかった。


 しんどい。


 でも楽しい。


 少し前の俺なら、部活なんて「勝ち組になるために必要か」で考えていた。


 今は単純に、もっと上手くなりたいと思っている。


 そう思えること自体が、少し嬉しかった。


 練習が終わり、体育館を出る頃には足が重かった。


「疲れた……」


 鞄を肩にかけ、昇降口へ向かう。


 すると、階段のところで聞き覚えのある声がした。


「だからさ、それ面白くねえって」


 真下だった。


 階段の踊り場に、真下と川井、林がいる。


 その前には別の男子生徒。


 またか。


 反射的にそう思ってから、足を止める。


 ――違う。


 まず見ろ。


 昨日のことがある。


 勝手に決めつけるな。


 少し離れたところから様子を見る。


 川井が笑っていた。


「いいじゃん。こいつも笑ってるし」


 前にいる男子も確かに笑っている。


 でも。


「……」


 俺には、その笑い方に見覚えがあった。


 口元だけで笑っている。


 困ったように。


 その場を早く終わらせたいように。


 昔の俺も、あんな顔で笑っていた。


「真下、もう一回やらせようぜ」


 林が言う。


「いや、もういいって」


 男子生徒は笑いながら答えた。


「なんで? さっき面白かったじゃん」


「いや……ほんといいって」


 その声は小さい。


 真下が笑う。


「ノリ悪いな、お前」


 胸の奥が冷たくなった。


 知っている。


 その言葉を。


 何度も聞いた。


『冗談じゃん』


『ノリ悪いな』


『お前も笑ってんじゃん』


 俺は昨日、思った。


 今の真下をちゃんと見よう、と。


 だから見た。


 そのうえで。


「真下」


 三人がこちらを見る。


 真下の顔が露骨に歪んだ。


「……またお前かよ」


 俺は階段を上がっていった。


「何してんの?」


「お前に関係ねえだろ」


「まあ、そうだけど」


 男子生徒を見る。


「嫌なら嫌って言った方がいいよ」


「え?」


「こいつら、たぶん分かってないから」


「は?」


 真下の声が低くなる。


「何それ」


「そのままの意味」


「こいつも笑ってんじゃん」


「笑ってたら嫌じゃないってことになるの?」


 真下が黙った。


 川井も林も、さっきまでの笑顔が消えている。


 俺は自分でも驚くほど落ち着いていた。


 前なら、真下を見ただけで昔の怒りが先に出ていた。


 でも今は違う。


 目の前で起きていることだけを見る。


「本人、もういいって言ってるじゃん」


「……」


 真下が男子生徒を見る。


「お前、嫌だったの?」


 聞かれた男子生徒は戸惑った。


「いや……別に」


「ほら」


 真下が俺を見る。


 けれど男子生徒は続けた。


「でも、もうやりたくはない」


「……」


 真下の表情が止まった。


 数秒の沈黙。


「……じゃあ最初から言えよ」


 真下が吐き捨てる。


「ご、ごめん」


「なんでそいつが謝るんだよ」


 思わず口から出た。


「お前ほんとウザいな!」


「それは知ってる」


「知らねえよ!」


 真下が苛立ったように髪をかく。


「もういい。行こうぜ」


 川井と林に声をかけ、階段を下りていく。


 途中、真下が一度だけ振り返った。


「矢城」


「何?」


「お前、俺のこと嫌いなんだろ」


「……まあ、今のところは」


「だったらいちいち絡んでくんなよ」


「それとこれは別だろ」


「意味分かんねえ」


 昨日と同じ言葉を残して、真下は去っていった。


 残された男子生徒が小さく息を吐いた。


「ありがとう」


「いや……」


 俺は真下たちが消えた階段を見る。


 やっぱり、真下は真下だった。


 相手が笑っていれば大丈夫。


 冗談なら問題ない。


 嫌なら言えばいい。


 そう思っている。


 昔と同じ部分は、確かにある。


 でも。


 今日の昼、落ちていたプリントを拾ったのも真下だ。


 昨日、ゲームを返してもらおうとしていただけなのも真下だ。


 そして今。


 相手が「もうやりたくない」と言った後、無理に続けさせなかった。


 俺の知っている真下徹と。


 今、目の前にいる真下徹。


 同じところもある。


 違うところもある。


 いや。


 もしかしたら――。


 昔の俺は、真下の全部を知っていたわけじゃなかったのかもしれない。


 ただ、俺をいじめる奴としてしか見ていなかった。


 そして真下もきっと。


 俺のことを、からかっても何も言わない奴としてしか見ていなかった。


 今はまだ、それだけだ。


 真下を許したわけじゃない。


 好きになったわけでもない。


 ただ一つだけ。


 昨日までより、少しだけ分からなくなった。


 真下徹という人間が。


 知っているはずだった男が、俺の知らない人間に見え始めていた。



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