第23話 俺、お前になんかした?
「……何見てんだよ、矢城」
真下の声を聞いた瞬間、足が止まった。
廊下の少し先に、真下徹がいる。その両脇には川井純平と林剛。そして三人の前には、見覚えはあるものの、名前までは知らない男子生徒が立っていた。
男子生徒は困ったように視線を落としている。
その光景を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
――またか。
そう思った。
真下を中心にして、川井と林が横にいる。
俺にとっては、嫌になるほど見慣れた形だった。
前の高校生活でも、いつもそうだった。
『矢城、ちょっと来いよ』
『なにビビってんの?』
『冗談じゃん。マジになるなって』
最初は、本当にくだらない冗談だった。
肩を叩かれる。変なあだ名で呼ばれる。俺が何かを言えば、三人で笑う。
俺も笑っていた。
笑っていれば、それ以上面倒なことにならないと思っていたから。
でも、それで終わらなかった。
物を隠されたり、面倒なことを押しつけられたり、俺が嫌がっていると分かっていても笑いものにされたり。
卒業する頃には、あいつらにとって俺をからかうことは、日常の一部になっていた。
だから。
目の前の光景を見た瞬間、考えるより先に身体が動いた。
「三人で囲む必要ないだろ」
真下の眉がぴくりと動いた。
「……は?」
「そいつ、困ってるじゃん」
「いや、矢城……」
前にいた男子生徒が何か言おうとしたが、俺は真下から目を離せなかった。
真下は数秒、意味が分からないという顔で俺を見ていた。
やがて、隣にいた川井が吹き出す。
「何こいつ。正義の味方?」
「別にそういうんじゃない」
「じゃあ何だよ」
真下の声が低くなる。
心臓が強く鳴った。
怖くないわけじゃない。
むしろ怖い。
前の人生で何度も見た顔だ。
こいつが機嫌を悪くした後に何が起こるのか、身体のどこかが覚えている。
それでも、ここで引きたくなかった。
「嫌がってる相手を三人で囲んでたら、普通そう思うだろ」
「だから、何の話してんだよ」
「え?」
真下が苛立ったように前髪をかき上げると、男子生徒を指差した。
「こいつ、俺から借りたゲーム返してねえんだよ」
「……ゲーム?」
「ゴールデンウィーク前に貸したんだよ。休み明けに返すって言ってたのに持ってこねえから、いつ返すんだって聞いてただけ」
思わず、男子生徒を見る。
彼は気まずそうに頭をかいた。
「ご、ごめん。矢城だっけ? 俺が悪いんだ。今日持ってくるの忘れてて……」
「……」
「別に、いじめられてたわけじゃないから」
言葉が出なかった。
川井が呆れたように笑う。
「なんだよそれ。いきなり割って入ってきて」
「しかも真下が悪いって決めつけてたし」
林の言葉が胸に刺さった。
「……悪かった」
それだけ言う。
勘違いした。
それは認めるしかない。
でも、真下は俺から目を離さなかった。
「いや、ちょっと待てよ」
「……何?」
「前から思ってたんだけどさ」
その言葉に、嫌な予感がした。
真下は俺の前まで歩いてくる。
反射的に身体が強張った。
近づかれるだけで、昔の記憶が身体の奥から蘇ってくる。
けれど真下は、俺に手を出すことも、胸ぐらを掴むこともしなかった。
ただ、怪訝そうな顔で俺を見ていた。
「お前さ、入学した時から俺のこと嫌ってるよな」
「……」
答えられなかった。
「最初に話した時もそうだっただろ」
覚えている。
入学して間もない頃。
俺は前の人生でされたことを思い出して、真下たちに強く言い返した。
あの時、真下は確かに言った。
『俺、お前と今日初めて話したよな?』
あの言葉を聞いて、一度は気づいたはずだった。
今の真下は、まだ何もしていない。
それなのに俺は――。
「俺、お前になんかした?」
心臓を掴まれたような気がした。
「……いや」
「じゃあ何なんだよ」
真下の声には、怒りよりも苛立ちと困惑が混じっていた。
「廊下で会っても変な目で見てくるし、俺が誰かと喋ってたら今日みたいに警戒してくるし。俺、お前とほとんど喋ったことねえじゃん」
何も言い返せない。
だって、真下の言っていることは正しい。
今のこいつは、俺をいじめていない。
物を隠してもいない。
面倒なことを押しつけてもいない。
卒業式の日に、俺を馬鹿にして笑ったことだって――まだ起きていない。
俺だけが知っている。
俺だけが覚えている。
前の人生で、こいつが俺に何をしたのか。
だから俺は、入学した日から真下を嫌っていた。
「……なんとなく」
ようやく出てきた言葉が、それだった。
「は?」
「お前とは合わなそうだと思っただけ」
我ながら苦しい。
真下も納得していない顔をしている。
「なんだよそれ」
「悪い」
「謝ればいいって話じゃ――」
「真下、もういいだろ」
ゲームを借りていた男子生徒が慌てて間に入った。
「明日絶対持ってくるから。ほんとごめん」
「……忘れんなよ」
「うん」
真下はまだ何か言いたそうだったが、やがて俺から視線を外した。
「行こうぜ」
川井と林に声をかけ、そのまま俺の横を通り過ぎていく。
すれ違う瞬間、真下が小さく吐き捨てた。
「意味分かんねえ」
三人の背中が遠ざかっていく。
俺は、その場から動けなかった。
――俺、お前になんかした?
その言葉だけが、頭の中に残っている。
している。
俺にとっては。
何度もされた。
嫌だった。
腹が立った。
怖かった。
今でも思い出したくないことだってある。
なかったことになんてできない。
だけど。
今の真下は?
「……違うんだよな」
小さく呟いた。
分かっていたはずだった。
同じ四月八日を何度も繰り返した時、俺は何度も見た。
俺が違う行動を取れば、周りの人間の行動も変わる。
同じ日だからといって、同じことが起きるわけじゃない。
未来は決まっていない。
それなのに俺は、真下だけは別だと思っていた。
こいつは俺をいじめる奴だ。
そう決めつけていた。
俺はゆっくり歩き出した。
だからといって、急に真下を好きになれるわけじゃない。
前の人生でされたことを忘れることもできない。
あいつの人を見下すような言い方も、弱そうな相手には強く出るところも、今だって好きじゃない。
でも――。
まだ何もしていない人間を、これから何かをするはずだと決めつけていいのか。
答えは出なかった。
その日の夜。
ベッドに入ってからも、真下の言葉が頭から離れなかった。
スマホを手に取り、日付を見る。
五月七日。
いつものように画面を伏せ、目を閉じる。
もし今日の俺の行動が間違っていたなら。
また戻るのだろうか。
そんな考えが浮かんで、すぐに嫌になった。
「……また正解探してるじゃん、俺」
自嘲するように呟いた。
真下をどう扱えば明日に進めるのか。
そんなことを考え始めたら、四月十八日の時と同じだ。
真下だって選択肢じゃない。
俺が嫌いだから避けるのか。
過去のことを知っているから警戒するのか。
それとも、今の真下をちゃんと見るのか。
まだ分からない。
分からないまま、目を閉じた。
翌朝。
スマホのアラームを止め、眠い目で画面を見る。
五月八日。
「……進んだ」
小さく息を吐く。
けれど、安心はしなかった。
日付が進んだから、昨日の俺が正しかった。
もう、そう単純に考えるのはやめようと思った。
学校へ向かい、教室に入る。
「おはよ、矢城」
「おはよう、名取」
いつもの朝。
成瀬と高石が話していて、堀井が眠そうにあくびをしている。
伊藤と佐藤の声も聞こえる。
そして少し離れたところには、真下と川井と林がいた。
真下と目が合った。
「……」
「……」
いつもなら、俺の方から目を逸らしていた。
でも今日は、一瞬迷ってから軽く頭を下げた。
「……おはよう」
真下が目を丸くする。
「……は?」
その顔が少しおかしくて、俺はそのまま自分の席へ向かった。
後ろから川井の声が聞こえる。
「真下、お前、矢城に挨拶されたじゃん」
「……気持ち悪っ」
「聞こえてるぞ」
「うるせえよ!」
思わず少しだけ笑った。
別に仲良くなりたいわけじゃない。
昨日までのことを忘れたわけでもない。
ただ。
今の真下徹がどんな奴なのか。
それくらいは、自分の目で見てから決めてもいいのかもしれない。
俺がやり直しているこの高校生活で。
変われるのが俺だけだなんて、誰も言っていないのだから。




