第18話「最初の勝負」
【4月22日】
目覚ましを止めると、矢城勇真はしばらくベッドの上でぼんやりしていた。
昨日見えた、あの光景。
道路。
小さな後ろ姿。
そして、自分の声。
『――お願い!』
結局、あれが何だったのかは思い出せなかった。
夢だったと言われれば、そうなのかもしれない。
ただ、勇真にはどうしてもそう思えなかった。
「卒業式の時と同じなんだよな……」
あの時もそうだった。
スマートフォン。
誰かからの連絡。
自分を呼ぶ女の声。
光る何か。
思い出そうとすると、その先だけが霧に包まれたように消えてしまう。
「俺の記憶……絶対なんかおかしいよな」
けれど、考えても答えは出ない。
勇真はスマートフォンを見る。
【4月22日】
今日も日付は進んでいる。
「……学校行くか」
分からないことばかり考えていても仕方がない。
少なくとも今は、高校生活をやり直せる機会が自分に与えられている。
なら、それを無駄にはしたくなかった。
◇
朝のホームルーム。
「来週、入学後最初の確認テストを行う」
担任の言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。
「範囲は中学校までの内容が中心だ。高校の授業内容も一部含める。今後の指導の参考にもするから、各自きちんと復習しておくように」
「テストか……」
勇真は小さく呟いた。
忘れていた。
高校生活には当然、勉強もある。
元の高校生活でも、成績そのものは極端に悪くなかった。
むしろ、そこそこ良かった。
けれど――そこそこだった。
勉強を頑張って何かを目指したこともなければ、上位に入ろうと本気になったこともない。
「矢城」
休み時間になった途端、名取が振り返った。
「テスト、勝負しない?」
「なんで?」
「面白そうだから」
「理由軽いな」
「いいじゃん。中学の時、矢城って結構頭よかったでしょ?」
「まあ……普通よりは」
「何その微妙な謙遜」
名取は中学時代から成績が良かった。
元の高校生活でも、常に上位にいた記憶がある。
「名取、何位くらい狙ってんの?」
「一位」
即答だった。
「……マジ?」
「やるなら一番でしょ」
「すげえな」
「矢城は?」
「俺?」
勇真は少し考える。
以前なら「平均より上ならいい」と答えていたかもしれない。
失敗するのが嫌だった。
本気で上を目指して届かなかった時、自分には才能がないと分かるのが怖かった。
だから最初から、ほどほどの場所を目指す。
勉強に限らず、ずっとそうだった気がする。
「……じゃあ俺も、一位」
「え?」
「せっかくやり直――」
勇真は慌てて口を止めた。
「やり直?」
「いや……せっかく高校入ったんだから、本気でやってみる」
名取が一瞬驚いたあと、楽しそうに笑った。
「言ったね?」
「言った」
「負けないよ」
「俺も」
「じゃあ勝負ね」
「おう」
その時だった。
「無謀」
横から、冷静な声が飛んできた。
「え?」
勇真が振り向く。
三島由香がこちらを見ていた。
長い黒髪が目を引く、落ち着いた雰囲気の女子だ。
同じクラスになって二週間ほど経つが、勇真は三島とまともに話したことがほとんどない。
ただ、存在はよく知っていた。
授業中に教師から突然当てられても淀みなく答え、課題を解き終えるのも早い。すでにクラスの中では、名取と並んで成績上位になりそうな生徒として知られ始めている。
一方で、愛想がいいタイプではない。
必要なことははっきり言う。
時には言い方が鋭すぎて、相手を黙らせてしまうこともある。
勇真の中でも、「頭がよくて、ちょっと話しかけにくい女子」という印象だった。
「……聞こえてたの?」
「聞こえる声で話してたでしょ」
三島は手にしていた参考書を閉じる。
「名取に勉強で勝つの、かなり難しいと思うけど」
「いきなり入ってきてそれ?」
「事実を言っただけ」
「三島は何位狙いなんだよ」
「一位」
「お前もかよ」
名取が楽しそうに笑った。
「じゃあ三人で勝負する?」
「別にいいけど」
三島は涼しい顔で答える。
「名取も一位狙うなら、最初からそのつもりだったし」
「望むところ」
名取が笑う。
勇真は二人を交互に見る。
「……なんか俺だけ場違いじゃない?」
「今気づいた?」
三島が言う。
「腹立つな……」
「でも自分で一位って言ったんでしょ?」
「言ったよ」
「じゃあ頑張って」
「絶対二人より上行ってやる」
「その意気」
三島がほんの少しだけ口元を緩める。
それを見て、勇真は少し意外に思った。
(普通に笑うんだな)
ほとんど話したことがなかったせいで、もっと近寄りがたい女子だと思っていた。
「何?」
「いや、何でもない」
「変なの」
三島は再び参考書を開いた。
完全に乗せられた気もする。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
◇
昼休み。
「というわけで、来週のテストで一位取ることになった」
「なんでそんなことになってんの?」
堀井が呆れた顔をする。
「流れで」
「一位って名取とか三島いるだろ」
「だから勝負する」
「矢城……変わったな」
「それ最近めっちゃ言われる」
「前なら絶対そんなこと言わなかったじゃん」
「そうだな」
勇真自身もそう思う。
前の自分なら、名取や三島と競争しようとは思わなかった。
負ける可能性が高い勝負なら、最初から避けていた。
でも今は、少し違う。
負けてもいい――とまでは思わない。
やるからには勝ちたい。
ただ、負けたとしても挑戦したことまで無駄になるわけではないと、今なら少し思える。
「それに……」
「ん?」
「俺、人生の勝ち組になるから」
「まだそれ言ってんの?」
「まだって何だよ」
「たまに矢城が言う謎の目標」
「本気だからな」
「勝ち組って何?」
「…………」
勇真の箸が止まった。
「何?」
「いや」
四月十八日にも考えた。
勝ち組とは何なのか。
友達が多いこと。
彼女がいること。
勉強ができること。
運動ができること。
人気者になること。
全部手に入れれば勝ち組なのか。
「……まだ考え中」
「決まってないのに目指してんの?」
「うるさい」
堀井が笑う。
勇真も笑った。
それでいいのかもしれない。
最初から答えを知っている必要はない。
高校生活の中で、自分なりの答えを見つければいい。
◇
放課後。
部活が始まるまで、少し時間がある。
勇真は教室に残り、数学の問題集を開いていた。
「……分からん」
一位への道が早くも怪しい。
「ここ、どうやるんだ?」
昨日、清水に偉そうに数学を教えていた自分を殴りたい。
あれは中学範囲だったから分かっただけだ。
高校に入ってから習った内容になると、途端に怪しくなる。
教科書を行ったり来たりしながら唸っていると――。
「そこ、公式違うけど」
「うわっ!」
突然後ろから声をかけられ、勇真は振り返った。
三島だった。
「……三島?」
「驚きすぎ」
「急に後ろから話しかけるなよ」
「普通に話しかけただけだけど」
「気配消してただろ」
「忍者じゃないんだから」
三島が呆れたように言う。
朝に少し話したとはいえ、こうして二人だけで会話するのはほとんど初めてだ。
勇真は少し身構えた。
「……で、公式が違うって?」
「そこ」
三島が問題集を指差す。
「それ使ったら解けない」
「マジ?」
「マジ」
「じゃあ何使うの?」
「教科書見れば?」
「教えてくれないの?」
「一位取るんでしょ?」
「取るけど」
「だったら自分で探した方が覚える」
もっともな話だった。
「……厳しいな」
「普通」
「名取なら教えてくれそう」
「じゃあ名取に聞けば?」
「なんでちょっと怒るんだよ」
「怒ってない」
「怖いって」
「清水にも同じこと言ってそう」
「なんで分かるんだよ」
三島が少し笑った。
朝も思ったが、話してみると想像していたほど冷たいわけではないらしい。
勇真は教科書をめくる。
「これ?」
「違う」
「これ?」
「それ」
「ああ……なるほど」
式を書き直していく。
「……できた」
「うん。合ってる」
「三島」
「何?」
「意外と優しいな」
「は?」
「もっと『そんなのも分からないの?』とか言うかと思ってた」
「そんなのも分からないの?」
「今言うなよ!」
三島が笑う。
「矢城が言ってほしそうだったから」
「どこを見たらそうなるんだよ」
「冗談」
「三島って冗談言うんだな」
「私を何だと思ってるの?」
「頭良くて、ちょっと怖い人」
「失礼」
「ごめん」
「まあいいけど」
そこで勇真は気づく。
三島とこうして話すのは、思っていたより楽だった。
毒舌ではある。
でも、悪意があるわけではない。
むしろ問題を見てくれた時点で、放っておけない性格なのかもしれない。
「でも、本気なんだ」
三島が言った。
「何が?」
「一位」
「ああ」
勇真は問題集へ視線を戻す。
「取れるかどうかは分からないけど、本気でやってみようかなって」
「どうして?」
「どうしてって……」
少し考える。
まともに話したこともない相手に言うには、少し恥ずかしい気もした。
けれど勇真は、そのまま口にした。
「今まで、本気でやって駄目だった時が怖かったんだと思う」
三島が黙って聞いている。
「だから最初から『そこそこでいい』って思うようにしてた。でも、それだと結局、自分がどこまでできるか分からないままだろ?」
「…………」
「だったら一回くらい、本気でやってみてもいいかなって」
三島は数秒、勇真を見ていた。
「……そういうこと言う人だったんだ」
「どういう意味?」
「もっと適当な人だと思ってた」
「ほとんど話したことないだろ、俺たち」
「だから今のところの印象」
「ひどくない?」
「入学初日の自己紹介で『彼女欲しい』って言ってた人だし」
「それは忘れてくれ!」
「無理」
三島が声を出して笑う。
「そんな面白かった?」
「ちょっと」
「最悪だ……」
勇真は頭を抱えた。
◇
「矢城、行くぞ!」
教室の入口から成瀬が呼ぶ。
「おう!」
勇真は問題集を閉じた。
「じゃあ三島、ありがとな」
「別に何もしてない」
「公式探すの手伝ってくれた」
「教科書見ろって言っただけ」
「それでも助かった」
「……そう」
三島は少しだけ視線を逸らした。
「テスト、負けないから」
「俺も」
「その前に部活で疲れて寝ないようにね」
「嫌なこと言うなよ」
「現実的な忠告」
勇真は苦笑しながら教室を出た。
廊下へ出てから、成瀬が聞く。
「三島と話すんだな」
「今日初めてまともに話した」
「そうなんだ」
「勉強してたら教えてくれた」
「へえ」
「意外と話しやすかった」
「本人に『意外と』って言うなよ」
「さっき言った」
「言ったの!?」
成瀬が笑う。
高石も合流する。
「何の話?」
「矢城が三島に失礼なこと言った話」
「違う」
「何て言った?」
「『意外と優しい』」
「失礼じゃん」
「やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
三人で笑いながら体育館へ向かう。
「そういえば来週のテスト、一位狙うことになった」
勇真が言う。
「一位?」
「名取と三島と勝負」
「マジ?」
成瀬が驚く。
その横で高石が笑った。
「矢城、無謀だな」
「三島と同じこと言うな」
「だって名取も三島も頭いいぞ」
「知ってる」
「ちなみに成瀬も頭いいからな」
「え?」
勇真が成瀬を見る。
「どれくらい?」
「普通だよ」
高石が即座に否定する。
「こいつの普通は信用するな。中学でも上位だったから」
「……敵増えた」
「勝手に敵にするなよ」
成瀬が笑う。
勇真も笑った。
元の高校生活では、成績上位者の名前を聞いても「自分とは違う」と思うだけだった。
今は違う。
「成瀬」
「何?」
「お前にも勝つ」
「いいよ」
成瀬があっさり答えた。
「じゃあ勝負な」
「望むところ」
高石が二人を見る。
「なんか面白くなってきたな」
「高石もやる?」
「俺は見学で」
「逃げた」
「戦略的撤退」
「まだ始まってねえよ」
三人の笑い声が廊下に響いた。
◇
その日の夜。
部活を終え、風呂も夕食も済ませた勇真は机へ向かっていた。
「眠い……」
時刻は午後十時を過ぎている。
数学。
英語。
国語。
理科。
社会。
確認テストとはいえ、一位を狙うなら適当にはできない。
「部活と勉強の両立って……思ってたより大変だな」
元の自分なら、ここでやめていたかもしれない。
どうせ一位なんて無理。
名取や三島には勝てない。
そう理由をつけて、ほどほどの点数で満足する。
「……あと三十分」
勇真はシャープペンを握り直した。
絶対に一位を取れる自信なんてない。
それでもいい。
まずは、本気でやってみる。
その結果がどうなるのか、自分で確かめてみたかった。
◇
それから数日。
勇真の高校生活は、驚くほど忙しくなった。
朝は少し早く起きて復習。
学校では授業。
昼休みには堀井たちと飯を食い、時には名取と問題を出し合う。
三島とも、あの日をきっかけに少しずつ話すようになった。
「そこ違う」
「また?」
「また」
「どこ?」
「自分で探して」
「教えてくれよ」
「一位になるんでしょ?」
「厳しすぎるだろ」
そんなやり取りを何度か繰り返すうちに、勇真も三島の扱いが少し分かってきた。
口は悪い。
でも、本当に困っていれば最後にはヒントをくれる。
放課後はバスケ部。
帰宅してから、また勉強。
「矢城、最近付き合い悪くない?」
栗原に言われれば、
「テスト終わったらな」
と断り、
「これ分かんない」
と清水に問題集を差し出されれば、
「俺もそこ怪しい」
と二人で悩む。
円花からは、
「無理しすぎないでね」
と心配された。
成瀬とは部活で競い合い、そのまま勉強でも負けないと軽口を叩き合った。
忙しい。
疲れる。
それでも――。
「……悪くないな」
勇真はそう思っていた。
日付を確認する回数も、いつの間にか減っていた。
明日が来ることを、少しずつ当たり前だと思えるようになっていた。
◇
【4月28日】
確認テスト当日。
答案用紙が配られる。
「始め」
教師の声と同時に、教室中で紙をめくる音が響いた。
勇真は問題を見る。
「…………」
分かる。
最初の問題。
次も。
その次も。
勉強したところだ。
(いける)
胸の奥が熱くなる。
もちろん分からない問題もある。
迷う問題もある。
それでも、以前の自分とは違う。
考える。
諦めない。
最後まで答案を埋めていく。
ふと顔を上げる。
少し前の席で、名取が真剣な顔で問題を解いている。
別の列には三島。
成瀬もいる。
(勝ちたい)
素直にそう思った。
誰かを蹴落としたいわけではない。
自分の価値を証明したいわけでもない。
本気でやったからこそ、本気で勝ちたい。
勇真は再び答案へ目を落とした。
◇
「終わったー!」
すべてのテストが終了した瞬間、教室のあちこちから声が上がった。
勇真も机に突っ伏す。
「疲れた……」
「矢城」
顔を上げる。
名取が立っていた。
「どうだった?」
「そこそこ」
「逃げた」
「何が?」
「一位取るって言ってたじゃん」
「取れてる可能性あるだろ」
「自信は?」
「……五割」
「微妙」
「名取は?」
「八割」
「腹立つな」
「何でよ」
そこへ三島もやってくる。
「私は九割」
「もっと腹立つ奴来た」
「聞こえたから答えただけ」
「誰も三島には聞いてない」
「じゃあ聞いて」
「めんどくさいな!」
名取が笑う。
「結果いつだっけ?」
「明後日じゃない?」
三島が答える。
「じゃあ明後日、決着ね」
「おう」
勇真は二人を見る。
不思議と緊張していた。
たかが学校のテスト。
人生を左右するものでもない。
それでも、自分から一位を取ると宣言し、本気で努力した。
だから結果を知りたい。
「負けても泣かないでね、矢城」
三島が言う。
「そっちこそ」
「私は泣かない」
「俺も泣かねえよ」
「じゃあ桃香が泣く?」
三島が名取を見る。
「なんで私なの?」
「一番悔しがりそうだから」
「由香にだけは言われたくない」
「否定はしないんだ」
勇真が二人を見る。
「……二人って意外と仲いい?」
「普通」
「普通」
二人の声が重なった。
「息ぴったりじゃん」
「矢城うるさい」
「矢城うるさい」
「ほら!」
三人で笑う。
その時の勇真は、まだ知らなかった。
この小さな勝負の結果が自分の中にあった「勝ち組」という言葉の意味を、また少し変えることになることを。




