第17話「変わり始めた日常」
【4月21日】
「……痛い」
目が覚めた瞬間、矢城勇真は天井を見たまま呟いた。
昨日よりひどい。
太ももだけではない。ふくらはぎ、腰、肩まで、身体中が重かった。
「部活って……こんなきつかったっけ」
それでもスマートフォンへ手を伸ばし、日付だけは確認する。
【4月21日】
「よし」
今日も進んでいる。
四月十八日を何度も繰り返していた頃と比べれば、それだけで十分だった。
もっとも――。
「痛っ……!」
ベッドから立ち上がった瞬間、勇真は再び腰を下ろした。
「学校休みてえ……」
高校生活をやり直せるとは思っていた。
筋肉痛まで味わい直したいとは思っていなかった。
◇
「おはよ、矢城」
「おはよう」
教室へ入ると、名取が振り返った。
そして勇真の歩き方を見るなり、吹き出す。
「まだ筋肉痛?」
「昨日よりひどい」
「運動不足じゃん」
「中学までバスケやってたんだけどな……」
「男子バスケ、そんなにきつかった?」
「死ぬかと思った」
「大袈裟」
「名取もそのうち分かる」
「私は大丈夫」
「その自信どっから来るんだよ」
そこへ浅井がやってきた。
「おはよー。何の話?」
「矢城がおじいちゃんになった話」
「なってない」
「どれどれ」
浅井が勇真の肩を軽く叩く。
「痛っ!」
「あはは! 本当に痛いんだ!」
「お前……!」
「ごめんごめん!」
笑いながら逃げる浅井を追おうとして――。
「痛っ……!」
勇真は一歩で諦めた。
「無理だ」
「弱っ!」
「明日覚えてろよ!」
「元気になってから言ってくださーい」
教室に笑い声が広がる。
勇真も腹を立てながら、結局は笑っていた。
ふと気づく。
最近、こういうことが増えた。
朝、教室へ入れば誰かが声をかけてくれる。昼になれば一緒に飯を食べる相手がいて、放課後には部活がある。
元の高校生活では、ほとんど経験しなかった毎日だ。
以前なら、それだけで「勝ち組に近づいた」と考えていただろう。
今は違う。
ただ、楽しい。
それでいいような気がしていた。
◇
昼休み。
「矢城くん」
「ん?」
弁当を食べていると、円花がやってきた。
勇真の前には堀井が座り、隣には成瀬と高石もいる。
「どうした?」
「これ」
円花が小さな袋を差し出した。
「何?」
「昨日、お母さんがクッキー焼いたから。余った分なんだけど……よかったら」
「俺に?」
「うん」
勇真が受け取ろうとした瞬間、高石が反応した。
「林、それ矢城だけ?」
「え?」
「俺たちのは?」
「ないけど……」
「差別だ」
「お前関係ないだろ」
勇真が呆れて言う。
「矢城だけクッキーだぞ?」
「お母さんが作ったって言ってただろ」
「本当に?」
「高石!」
円花が少し慌てる。
成瀬が笑いながら高石の肩を叩いた。
「やめとけ。林困ってるから」
「冗談だって」
「お前の冗談、分かりにくいんだよ」
勇真は改めて袋を受け取った。
「ありがとな、林」
「うん」
円花が小さく笑う。
「部活、頑張って」
「おう」
円花が自分の席へ戻っていく。
その背中を見送った直後だった。
「矢城」
「何?」
堀井が真顔でこちらを見ている。
「いや……」
「だから何だよ」
「青春してんなと思って」
「は?」
高石が吹き出す。
「俺も思った」
「お前らな……」
成瀬まで笑っている。
「別にクッキーもらっただけだろ」
「そういうところから始まるんだよ」
「何が?」
「恋が」
「堀井、お前そんなキャラだった?」
「俺だって恋愛くらい分かる」
「彼女いたことあんの?」
「…………」
「ないんだな」
「矢城もないだろ!」
「ないよ!」
「じゃあ偉そうに言うな!」
「お前が始めたんだろ!」
四人で騒いでいると、少し離れた席から声が飛んできた。
「ちょっとうるさい」
清水だ。
「昼休みなんだからいいだろ」
「限度があるでしょ」
「はいはい」
「その返事ムカつく」
「じゃあどう返せばいいんだよ」
「知らない」
「理不尽だろ」
そのやり取りを聞いていた栗原が、面白そうに笑った。
「千尋、矢城と最近めっちゃ喋るじゃん」
「喋ってない」
「今、普通に喋ってたじゃん」
「あいつがいちいち言い返してくるからでしょ」
「でも最初の頃、もっと冷たくなかった?」
清水が一瞬だけ黙った。
「……友香、うるさい」
「はいはい」
栗原は楽しそうに笑う。
勇真はそんな二人を見ながら首を傾げた。
確かに言われてみれば、最近は清水と話す機会が増えた気がする。
仲良くなったと言えるほどではない。
相変わらず怖いし、すぐ睨まれる。
それでも入学直後と比べれば、少しだけ何かが変わっている。
――ような気はした。
◇
放課後。
「集合!」
体育館に声が響く。
勇真は成瀬、高石と一緒に列へ並んだ。
まだ身体は痛い。
それでも練習が始まれば、不思議と動けた。
「矢城、前!」
「おう!」
ボールを受ける。
相手を見る。
一人。
その後ろに、もう一人。
味方の位置を確認する。
成瀬が右へ走っている。
高石は左。
一瞬だけ考え――勇真は自分で切り込んだ。
「おっ!」
一人を抜く。
もう一人が寄ってきた瞬間、成瀬へパス。
「ナイス!」
成瀬がシュートを決める。
「よし!」
昨日より身体が動く。
何より、周りが見える。
自分が点を取ることだけではなく、誰を使えば一番いい形になるか。それを瞬間的に考えるのが楽しかった。
◇
練習が終わる。
「矢城」
成瀬がタオルで汗を拭きながら近づいてきた。
「何?」
「お前、中学でポジションどこだった?」
「ポイントガードが多かったかな」
「やっぱり」
「なんで?」
「周り見るの上手いから」
勇真は少し照れた。
「そうかな」
「うん。自分で行けるところでも、もっといい場所に味方がいたらパス出すし」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
高石も近づいてくる。
「矢城って普段は優柔不断なのにな」
「おい」
「試合中だけ判断早い」
「普段も早いわ」
「バスケ部入るか決めるの何日かかった?」
「…………」
「ほら」
「うるさい」
三人で笑った。
勇真自身にも、少しだけ分かってきていた。
自分は何もできない人間ではなかった。
怖がることも多い。
考えすぎる。
人の目も気にする。
でも、いざという時に周囲を見て、考えて、動くことはできる。
それはこの高校生活で、何度も確かめてきたことだった。
◇
部活を終え、勇真が校門へ向かっていると――。
「矢城ー!」
「ん?」
後ろから聞こえたのは栗原の声だった。
振り返る。
栗原の隣には清水もいる。
「何?」
栗原が駆け寄ってくる。
「今から暇?」
「部活終わったところだけど」
「じゃあ暇じゃん」
「どういう理屈だよ」
「ちょっと駅前付き合ってよ」
「何しに?」
「買い物」
「二人で行けばいいだろ」
「男手が欲しいの」
「何買うつもりなんだよ」
「来週、友達の誕生日だからプレゼント。それと、ついでに色々」
「絶対『色々』の方が多いだろ」
「細かいこと気にしない!」
勇真は清水を見る。
「清水も行くんだろ?」
「友香に付き合わされてる」
「じゃあ俺いらないじゃん」
「私もそう言った」
「ほら」
「でも友香が――」
「はいはい、二人とも文句言わない!」
栗原が勇真の鞄を掴む。
「行くよ!」
「ちょ、引っ張るなって!」
「荷物持ち確保!」
「まだ行くって言ってない!」
勇真が踏ん張る。
そこで清水が口を開いた。
「嫌なら断れば?」
「え?」
「部活終わりなんでしょ。疲れてるなら無理しなくていいじゃん」
予想していなかった言葉だった。
勇真は清水を見る。
「何?」
「いや……清水がまともなこと言った」
「帰れ」
「冗談だって」
「やっぱ帰れ」
「千尋、すぐ怒る!」
栗原が笑う。
勇真も少し考えた。
確かに疲れている。
でも急いで帰らなければならない理由もない。
「まあ、少しくらいならいいよ」
「よし!」
「重い物は無理だからな。筋肉痛なんだから」
「男でしょ?」
「筋肉痛に男女関係あるか!」
三人はそのまま駅前へ向かった。
◇
「これ可愛くない?」
「高くない?」
「プレゼントだよ?」
「予算あるだろ」
「矢城、細かい」
「お前が適当すぎるんだよ」
駅前の雑貨店。
荷物持ちとして連れてこられたはずなのに、気づけば勇真も普通にプレゼント選びへ参加していた。
「千尋、どっちがいい?」
「右」
「矢城は?」
「左」
「じゃあ左かな」
「なんで!?」
清水が栗原を見る。
「だって矢城の方が真面目に考えてるし」
「じゃあ最初から私に聞かないでよ」
「千尋の反応も見たかった」
「友香!」
勇真が笑う。
「清水、遊ばれてんじゃん」
「うるさい」
「怖っ」
「その『怖っ』やめて」
三人で店内を回る。
最初は少し居心地が悪かった。
女子二人の買い物について歩くなんて、元の高校生活では考えたこともない。
でも、しばらくすると普通に楽しくなってきた。
「これでいいんじゃない?」
勇真が小さなポーチを指差す。
「派手すぎないし、使いやすそう」
「あ、それいい!」
栗原が手に取る。
「千尋は?」
「……いいんじゃない」
「決まり!」
栗原が嬉しそうにレジへ向かう。
勇真と清水がその場に残った。
「…………」
「…………」
急に静かになる。
「何?」
清水が言う。
「いや、何も」
「じゃあ見ないで」
「見てない」
「見てた」
「自意識過剰だろ」
「は?」
「ごめんなさい」
反射的に謝る。
清水が呆れたように息を吐いた。
そのあと、ほんの少しだけ笑った。
「……あんた、本当に変わったね」
勇真が清水を見る。
「最近それよく言われる」
「そうなんだ」
「名取にも林にも言われた」
「ふーん」
清水は商品棚へ視線を移した。
「清水は、俺の何が変わったと思う?」
「…………」
すぐには答えなかった。
「最初の頃より、ちゃんと人と喋るようになったとか?」
「疑問形かよ」
「知らないわよ。自分で考えれば?」
「聞いた意味ないじゃん」
勇真は苦笑した。
清水が何かを言いかける。
「ただ……」
「ん?」
「…………」
「何?」
「やっぱ何でもない」
「気になるだろ」
「いいの」
清水はそれ以上話そうとしなかった。
勇真は少し不思議に思ったものの、無理に聞くのはやめた。
清水は時々、自分に対して妙な反応をする。
入学した時から、理由も分からないまま嫌われていた。
聞いても「何となく」としか答えなかった。
(中学の時、俺……清水に何かしたっけ?)
記憶を探る。
清水のことは知っていた。
目立つ女子だった。
怖そうで、できるだけ関わりたくないと思っていた。
それくらいしか思い出せない。
その時――。
ズキッ。
「……っ」
突然、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「矢城?」
清水の声が、一瞬だけ遠ざかる。
ほんの一瞬。
頭の中に、知らない光景が浮かんだ。
道路。
誰かの後ろ姿。
自分よりずっと小さな身体。
その背中に向かって、自分が何かを叫んでいる。
『――お願い!』
「……え?」
そこで途切れた。
「矢城?」
気づけば、清水が目の前にいる。
「大丈夫?」
「……ああ」
「顔色悪いけど」
「ちょっと頭痛しただけ」
「座る?」
「大丈夫、大丈夫」
本当に痛みはすぐ消えた。
けれど――。
(今の、何だ?)
道路。
小さな後ろ姿。
そして自分の声。
どれも覚えていない。
なのに、なぜかただの想像とは思えなかった。
「…………」
「本当に大丈夫?」
「ああ」
勇真は笑ってみせた。
「心配してくれんの?」
「は?」
「いや、清水が俺の心配するの珍しいなと思って」
「目の前で倒れられたら迷惑だから」
「そういうことにしとく」
「本当にムカつく」
清水が睨む。
いつもの表情だ。
勇真は少しだけ安心した。
だが、頭の片隅には先ほどの光景が残り続けていた。
◇
「お待たせ!」
栗原が戻ってくる。
「買えた?」
「完璧!」
「じゃあ帰るか」
「えー、もう?」
「俺、部活終わりなんだけど」
「あ、そうだった」
「忘れてただろ」
「ちょっとだけ」
「帰る」
「分かったって!」
栗原が笑う。
勇真も笑いながら歩き出す。
その少し後ろを、清水が歩く。
「…………」
清水は一度だけ勇真の背中を見た。
さっき頭を押さえた時の、勇真の表情。
何かに驚いたような顔をしていた。
「千尋?」
栗原が振り返る。
「何してんの? 行くよ」
「……うん」
清水はすぐに視線を逸らし、二人の後を追った。
◇
その夜。
ベッドに入ってからも、勇真は昼間に見えた光景のことを考えていた。
「道路……子ども……」
そして、自分の声。
『お願い!』
「何を……お願いしたんだ?」
思い出そうとすると、頭の中に霧がかかったように何も出てこない。
卒業式のあとに何があったのか思い出せないのと、どこか似ている。
「……俺の記憶、どうなってんだよ」
答える者はいない。
しばらく考えた末、勇真はスマートフォンを置いた。
「まあ……今考えても分かんないか」
以前なら、答えが出るまで考え続けていたかもしれない。
でも今は、分からないものを無理やり答えにすることの危うさも少し分かっている。
目を閉じる。
明日になれば、また学校がある。
部活もある。
誰かと話して、笑って、時には失敗する。
そんな当たり前の高校生活が、今の勇真には少し楽しみになっていた。
ただ。
眠りへ落ちる直前。
あの小さな背中だけが、もう一度頭の奥に浮かんだ。




