第16話 嫌いなはずなのに
【4月20日】
「痛っ……」
ベッドから起き上がった瞬間、矢城勇真は顔をしかめた。
太ももが痛い。
ふくらはぎも痛い。
肩まで重い。
「予想以上だな……」
昨日、久しぶりに本気でバスケットボールをしたせいだ。
中学を卒業してから一ヶ月も経っていない身体のはずなのに、勇真の感覚ではもっと長い間まともに運動していなかった。
それでも、不思議と嫌な気分ではない。
スマートフォンを見る。
【4月20日】
「ちゃんと進んでる」
最近は朝一番に日付を確認するのが癖になってしまった。
けれど四月十八日を抜けてから、二日続けて時間は正常に進んでいる。
「今日は普通に過ごせそうだな」
そう呟いて立ち上がる。
「痛っ!」
普通に過ごすには、少し足が痛すぎた。
◇
「矢城、歩き方変じゃない?」
教室へ入ってすぐ、名取に笑われた。
「筋肉痛」
「ああ、昨日バスケやったから?」
「なんで知ってんの?」
「成瀬から聞いた」
「情報早いな」
「それで?」
「何が?」
「入るの?」
「入る」
名取の顔が明るくなる。
「お、決めたんだ」
「昨日な」
「よかったじゃん」
「名取も女子バスケ入るんだろ?」
「そのつもり。今日、入部届出すよ」
「じゃあ同じ体育館か」
「男子と女子で練習場所分かれることもあるけどね」
そこへ浅井がやってくる。
「何の話?」
「矢城がバスケ部入るって」
「へえ!」
浅井が勇真を見る。
「どんどん高校生っぽくなってくね」
「最初から高校生だよ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味だよ」
「友達増えて、部活も始めて、次は彼女かなーって」
「なんでそうなる」
「青春といえば恋愛でしょ」
浅井が楽しそうに笑う。
「ね、桃香?」
「なんで私に振るの」
「別にぃ?」
「由実、朝からうざい」
二人のやり取りを見ながら、勇真は苦笑した。
こういう会話に自分が普通に混ざっている。
元の高校生活では、ほとんどなかったことだ。
以前なら、それだけで「勝ち組に近づいた」と考えていただろう。
今は単純に――。
「楽しいな」
「え?」
名取が聞き返す。
「いや、何でもない」
「また独り言?」
「最近多いんだよ」
「怖っ」
「やめろ」
◇
昼休み。
「入部祝いしようぜ」
高石が言った。
「何するんだよ」
「購買で何か奢る」
「マジ?」
「成瀬が」
「俺!?」
成瀬が驚く。
「お前が誘ったんだから責任取れよ」
「どういう責任だよ」
勇真と堀井も笑う。
「じゃあパンでいい」
「矢城まで乗るなよ」
「奢ってくれるなら遠慮しない」
「昨日まで迷ってた奴とは思えないな」
そんな話をしているところへ、伊藤と佐藤がやってきた。
「成瀬、今日体育館使う?」
「使うよ」
「マジか」
「何?」
「ちょっと放課後使いたかった」
「バスケ?」
「違う。遊び」
「部活中は無理だろ」
「だよな」
伊藤が面倒そうに頭をかく。
「矢城も入ったんだって?」
「ああ」
「へえ」
伊藤が勇真を見る。
「お前、バスケできんの?」
「一応」
「今度勝負しようぜ」
「何の?」
「バスケ」
「伊藤できるの?」
「舐めんな」
佐藤が横から笑う。
「レオ、ドリブルめっちゃ下手だけどな」
「おい!」
「本当じゃん」
「うるせえ!」
伊藤が佐藤の首へ腕を回す。
「苦しい苦しい!」
「余計なこと言うからだ!」
騒がしい。
でも、見ていると笑ってしまう。
伊藤は見た目も態度も怖い。
元の高校生活で勇真が自分から近づこうと思う相手ではなかった。
けれど今は、少し印象が違う。
人は、自分が勝手に決めつけていたほど単純ではない。
それは真下たちに対しても同じなのかもしれない。
もちろん、元の高校生活でされたことまで消えるわけではない。
それでも――まだ何もしていない今の相手まで、未来の記憶だけで決めつけるのは違う。
四月八日に真下から言われた言葉を、勇真はまだ覚えていた。
『俺、お前と今日初めて話したよな?』
「……未来は決まってない、か」
「矢城?」
「何でもない」
堀井が首を傾げた。
◇
放課後。
「じゃあ行くか」
成瀬に声をかけられ、勇真は体育館へ向かった。
今日から正式に男子バスケ部員だ。
入部届を提出し、先輩たちにも改めて挨拶する。
緊張はした。
けれど嫌ではなかった。
「一年、走るぞ!」
「はい!」
準備運動。
ランニング。
フットワーク。
基礎練習。
「きつ……」
昨日の筋肉痛が残る身体には地獄だった。
「矢城、大丈夫?」
成瀬が笑いながら横を走っている。
「なんでお前平気なんだよ……」
「中学でもずっとやってたから」
「俺もやってた……」
「じゃあ走れ!」
「鬼か!」
苦しい。
でも楽しい。
汗を流して、声を出して、ボールを追う。
こんな高校生活もあったんだ。
元の三年間では知らなかった世界だった。
◇
練習が終わる頃には、外は少し暗くなっていた。
「疲れた……」
勇真は校舎へ戻りながら肩を回す。
成瀬と高石は先輩に呼ばれ、まだ体育館に残っている。
勇真は先に教室へ荷物を取りに戻った。
「……あれ?」
教室に誰かいる。
清水だった。
一人で机に座り、ノートを睨んでいる。
「清水?」
「…………」
返事がない。
「おーい」
「うるさい」
「聞こえてんじゃん」
「今集中してる」
「何してんの?」
「見れば分かるでしょ」
勇真が机の上を見る。
数学の問題集だった。
「ああ……」
「何、その反応」
「いや、清水も勉強するんだなって」
「喧嘩売ってんの?」
「違う違う」
勇真は慌てて手を振る。
「清水って勉強苦手だったなと思って」
「やっぱり喧嘩売ってるじゃん」
「ごめん」
清水が睨む。
勇真は自分の席へ行き、鞄を取った。
「じゃあ頑張れ」
「待って」
「ん?」
「これ分かる?」
清水が問題集を指差す。
「俺に聞く?」
「他に誰もいないでしょ」
「まあ、そうだけど」
勇真は清水の机へ近づいた。
「どれ?」
「これ」
二次方程式。
「ここまでは合ってる」
「じゃあなんで答え違うの」
「符号」
「符号?」
「ここ。マイナス付け忘れてる」
「…………」
清水が問題集を見る。
答えを見る。
もう一度、自分の式を見る。
「ほんとだ」
「もったいな」
「うるさい」
「教えたのに怒られた」
「その言い方がムカつく」
「理不尽だろ」
清水は消しゴムで答えを消し、計算し直す。
勇真は帰ろうとした。
「矢城」
「まだあるの?」
「……これも」
「いっぱいあるじゃん」
「一個も二個も同じでしょ」
「全然違うだろ」
文句を言いながらも、勇真は隣の椅子を引いた。
◇
「だから、先にこっち移項して」
「分かってる」
「分かってないから間違えてんだろ」
「黙って教えて」
「無茶言うな」
数問解くうちに、清水も少しずつ理解してきた。
「あ」
「できた?」
「合ってる?」
勇真がノートを見る。
「合ってる」
「よし」
清水が小さく笑った。
その表情を見て、勇真は少し意外に思った。
いつも睨まれるか、馬鹿にされるか、文句を言われるか。
そんな顔ばかり見ていたからだ。
「何?」
「いや」
「何よ」
「清水も普通に笑うんだなって」
「は?」
「あ」
しまった。
「どういう意味?」
「いや、その……」
「私が普段笑わないみたいに聞こえるんだけど」
「俺の前ではあんまり笑わないだろ」
「それは――」
清水が言葉を止めた。
「それは?」
「……あんたがムカつくから」
「ひどいな」
「事実」
いつもの答えだ。
勇真は笑って鞄を持つ。
「じゃあ今度こそ帰るわ」
「……ありがと」
「え?」
聞き間違えたかと思った。
清水はノートを見たままだ。
「今、ありがとうって言った?」
「言ってない」
「いや言っただろ」
「言ってない」
「絶対言った」
「うるさい!」
「はいはい」
勇真は笑いながら教室を出た。
◇
扉が閉まる。
「…………」
一人になった教室で、清水はシャープペンを置いた。
ノートを見る。
勇真に教えてもらった計算式。
「……何なの、あいつ」
以前の印象と違う。
ずっと嫌いだった。
顔を見るだけでも腹が立った。
高校で同じクラスだと分かった時は、最悪だと思った。
それなのに最近――。
困っている奴がいれば動く。
伊藤みたいな相手にも言うべきことは言う。
見返りを求めているように見えた時もあったのに、そうではない時もある。
そして今日は、文句を言いながら自分の勉強に付き合った。
「…………」
清水の頭に、ほんの一瞬だけ何かが浮かぶ。
昔の記憶。
忘れたことなど一度もない。
胸の奥に残り続けているもの。
「……でも」
清水は唇を噛んだ。
「だからって……」
それ以上は口にしなかった。
もう一度ノートへ目を落とす。
「嫌いなのは……変わんないし」
誰に聞かせるでもなく、清水はそう呟いた。




