酷似
「ありがとうございました」
哀川栞はマニュアル通りの完璧なお辞儀をする。孫らしき子どもとお婆さんは、そんな栞に対してペコリとお辞儀を返した。栞は心が温まり、「またのご来店をお持ちしております」といつも以上に元気な声を店内に響かせた。
その直後に装着されているインカムに指示が入る。料理の配膳を手伝ってとバイトの先輩から言われ、すぐさまキッチンに赴く。料理をトレーに乗せながら飾ってある素朴な時計に目をやると、後1時間で退勤時間だった。
今日は水曜日。4限が先生の都合で事前に休校になっていたから、栞は慌てずに今日の出勤時間に間に合った。それは良かったのだが、バイト先に着くまでに少し不安があった。
水曜日、栞は2、3、4限と大学の講義を入れている。2限と4限は大学でできた友達と一緒に講義を受けているが、3限は自分が興味のある音楽の講義を取っていたため1人で受講をしていた。そして今日は4限が休校になった。なので大学の帰り道は必然と1人で帰ることが余儀なくされる。
1人が寂しいわけではない。ただ少し怖かった。
以前、見覚えのない男たちに追いかけられたことがあった。お金目当てな目的があったのだと後で理解した。そして、自分の体を貪ろうとしているのもわかっていた。その時は春喜と大智が助けに入ってくれたおかげで危機は免れたが、身勝手に植え付けられた恐怖は未だに心の中に沈んでいた。
そんなことは、栞にとって初めてではなかった。
栞は他人より優れた容姿で生まれてきたおかげで、自然と人の注目を集めてしまった。良いのも悪いのも同時に。異性からの執着は気が滅入ることばかりだった。ストーカーも何度かされ、警察を呼んだこともあった。不幸中の幸いか、同性の友達には恵まれ、人間不信になることはなかった。
家族や友達が守ってくれることもあったが、幼い頃から不純な好意を浴びせられてきた彼女にとって、男という存在が苦手の対象となるのは無理はない。人の生活を送る以上、異性との関わりを避けられない場面は多々ある。
なんとか栞は克服しようとしたが、根性でどうにかなるほど植え付けられた恐怖は生優しい物ではなかった。それが改善の傾向に向かったのは、あの時からだった。
栞が高校2年の冬。その日の放課後、友達の誕生日が明後日だったから、何かプレゼントを買おうと買い物に出かけていた。長く悩んでいたらもう日は沈んでいて、夜風が冷たかったのを覚えている。そして廃れた倉庫に拉致された。自分を拉致した人々に面識はなく、倉庫には前に自分をストーカーして停学になった先輩がいた。
どうやら先輩が他の人たちを雇ったらしかった。先輩は彼らをシャン……なんとかと呼んでいて、お札を全員に均等に配っていた。自分たちにも楽しませろと誰かが言ったら、先輩は俺の女だと激情した。
帰らせてほしかった。私は誰の物でもない。あなたを好きになった覚えなんて一度もない。叫ぼうとしたが、恐怖で頭の中が真っ白になっていた。こんなことになるなら、もっと早く帰っておけば良かったと栞は自身を恨んだ。先輩と男たちの間がギクシャクし始めると、彼は現れた。
「死ねクソ野郎ども」
悪魔が来た。ファンタジーに出て来そうな悪魔の仮面を身に着けていたから、彼をそう呼ぶことしかできなかった。悪魔は震える栞を一瞬見た後、男どもに死刑宣告を下し、暴れた。
全く容赦のない殴撃、一撃で相手を昏倒させる蹴り技、見惚れるほど素晴らしい体術。眼前で繰り広げられる惨劇を、栞は視界に捉えることしかできなかった。時間が1分にも1時間にも感じられ、やがてその場に立っているのは悪魔だけになった。
「怪我はありませんか?」
「嫌っ! 来ないで!」
栞は近づいてくる悪魔を拒絶した。恐怖に囚われていた彼女にとって、悪魔は自分を助けてくれた恩人なのではなく、ただの暴力魔としか最初は認識できなかった。不気味な仮面も相まって、栞は蹲ることしかできなかった。
「お、落ち着いてください! ほら、ただの普通の人です!」
悪魔は仮面を外した。中身はモンスターなどではなく、ごく普通の優しい少年の顔だった。その時初めて、栞の心を覆っていた恐怖の霧が一部晴れた。
「もう大丈夫です。ここから出ましょう」
彼の名前は、士道春喜だった。
「怖がらせてごめんなさい。ちょっと今慈善活動と言いますか……そんな綺麗な物じゃないんですけど……」
内緒にしてくださいねと、春喜は笑った。不思議と彼には苦手意識を抱かなかった。
春喜はどうやら、別の街にいる不良チームを排除しようとしているらしかった。最初何を言ってるかわからなかった。この時代に? 正気か? 理解に苦しんだが、自分を助けてくれた春喜が快楽でやっているとは思えなかった。
「なんて言っていいかわからないけど、その、すごいね」
「すごい? いやいや、全然すごくないですよ。ただ勝手にやってるだけです。でも……そうですね。今日俺がこの仮面を付けてなかったら、栞さんがどうなっていたかわかりませんでした。栞さんを助けられたなら、俺がやっている意味も少しはあったって思えますね」
生き生きしている彼の笑顔が、栞は羨ましく感じた。知らない人だから気軽にという理由もあったと思う。彼を見ていると、自然と口が軽くなっていき、自分が抱えている恐怖を吐き出していた。正気に戻った時、春喜はポカンと口を開けていた。
「ご、ごめんね。初対面なのにこんな話しちゃって。迷惑だよね」
「いえ、そんなことないです。俺の友達にもいるんですよ。似たような悩み、というか、煩わしさを抱えていて。そいつ、男の集団に襲われても、逆にボコボコにし返すすごい奴なんですよ」
「へえ……強いんだね」
その友達の話をしてる春喜の顔は、とても楽しそうだった。
「はい、強いです。でもみんながみんなあいつみたいに強いわけじゃない。ごめんなさい。俺じゃ良いアドバイスをあげるのは難しそうです」
「いや、全然大丈夫だよ! これは私の……こんな容姿に生まれた私のせいだから」
「それは違います」
「え?」
「栞さんの容姿は、他の人たちとは違う優れた物です。悪いのは邪な理由で近づき身勝手にあなたを傷つける輩です。断じて栞さんのせいじゃない」
春喜の瞳は真剣の色に満ちていた。ここまではっきりと面と向かって言われたことはなかった。「あ、ありがとう……」促されるように口から出ていた。
「周りを変えることは難しいです。だから、これは気休めでしかないですが、優しい人を探してみてください」
「優しい人……?」
「世の中に悪人はたくさんいます。でもそれ以上に、優しい人間だって世の中にはたくさんいます。自分の欠点を克服するのに固執するんじゃなくて、散らばってる幸福を数えるんです。現実逃避って思われるかもしれません。根本的な解決にはならない。それでも、今よりはきっと心が楽になると思うんです。これは所説ありますよ。俺もその、優しい人に出会って、変われたので」
「世界は捨てたもんじゃないです」
春喜とはそれっきり別れた。
その日以来、栞は考え方を変えた。優しい人を探した。同性だけではなく、異性も。
幼い頃から優しかった父親、いつも親身に相談に乗ってくれる先生、部活の先輩方、奥さんと仲が良いお隣さん、家族とよく行く中華料理屋の店長、人懐っこい従兄弟、委員会が一緒の同級生。
他にもたくさん自分に優しい人がいた。いつも見ているはずなのに、こんなにいたんだなって、自分でも驚いた。曇り空だった視界が蒼穹に変わり、心がほんのり温かくなって、できものが取れたように楽になった。
彼の言ったことは本当だった。おかげで男性との接触も以前より苦手ではなくなった。容姿を褒められると純粋に嬉しくなれるようになった。異性への恐怖が消えたわけではない。それでも春喜のような優しい人間もいるのだとわかれば、誰彼構わず怯える必要はなくなった。
もう一度、彼と会ってありがとうを伝えたかった。大したことじゃないと彼は言うだろうか。自分にとっては小さなことでも、私にとっては大きなきっかけだったと言いたい。そんな願いを神様が聞き入れてくれたのか、
「初めまして。今日から働くことになった……あれ? 栞さん?」
彼がバイト先にやってきた。こういうのを、物語では運命と呼ぶのかもしれない。
「じゃあ今日から先輩ですね」
春喜がいてくれると心強かった。最近だと大智という優しい男の子をまた見つけることができた。彼も自分を助けてくれた人で、あの日以来栞のことを何かと気にかけてくれている。
嫌だと思う日はあるけど、春喜と出会ってから人生が好転した。
今日のバイトが終わったら、春喜に電話をしてみようと考える。特に用はなかった。ただ声が聞きたい。何か理由をつけないといけないなと笑う。あと少しで退勤だから頑張ろうと、また来店したお客に挨拶をする。
「いらっしゃい……ま…………せぇ……」
挨拶が途中で乱れてしまった。普段の栞はこんなことはなかった。思わずお客がほっこりしてしまうスマイルを浮かべ、店員を素通りしてしまうお客様でも立ち止まって言葉を聞いてしまう美声を放つ。まさに女神のような栞だったが、今来店してきた人に対しては少し不愛想な挨拶になってしまった。
「あの、大丈夫ですか?」
相手が相手なら、なんだその態度はと叱責を下してきたかもしれない。しかし来店してきたお客はそんな素ぶりは一切なく、むしろ不自然な態度を取った栞に対して心配をかけていた。
「あ、ご、ごめんなさい! お席にご案内しますね!」
栞はすぐさま仕事モードに戻り、お客様を背後に置きながら空いている席へと歩み始める。
(似てるだけ……だよね)
栞はちらりとお客様を見る。いつもの調子を崩したのは、彼の容姿のせいだ。
柔らかい相貌にほくろ1つない羨ましい肌。別に特性はない。強いてあげるなら肩まで伸びている黒曜石のような黒髪くらいか。どこにでもいる青年だと言えばそうなる。
ただ引っかかった。彼は栞の知っている知人に酷似していた。栞が知る知人の外見とは少し異なった。彼は眼鏡をかけていたし、ここまで爽やかな印象はなかった。ただ、それは雰囲気が変わっただけ。彼と似ている部分が多々あるのは事実。しかし同時に、それはありえないと悟る。
だってその知人は、消えてしまったから。
「お待たせしました。こちらの席にどうぞ」
だからこれは気のせいだと思うことにした。似てる人なんて世の中に1人や2人いるだろう。知らない店員に急に「私の知り合いじゃないですか?」なんて言われたら怖いだろうし。栞はそのまま去ろうとした。
「ごゆっくりどうぞ」
「すみません。ちょっといいですか?」
「はい?」
なんと彼の方から声をかけてきた。
「何か御用でしょうか?」
「いや、大したことじゃないんですけど、その……店員さんの視線が気になりまして。僕に何か聞きたいみたいだったので」
「あ……」
見過ぎていた。どうやら変に気を遣わせてしまったみたいだった。
「も、申し訳ありません。不快な思いをさせてしまって」
「いや僕は全然。ただ気になっただけです。よければ話してくれませんか? そうすればお互いにスッキリすると思うので」
話すつもりはなかったが、相手から訊かれたなら話は別だった。
「いや、えっと……同級生にお客様が似てるなと思いまして。中学まで一緒だった男の子で」
「そうですか。ちなみに──」
「その方のお名前、須黒壮介さんですか?」
息を飲んだ。超能力者で心を見透かされたのかと疑う。どうして知っている? 消えた彼の名前をどうして? インカムに先輩からの指示が届いたが、彼女はそれどころではなかった。
目の前にいるお客の名前を栞は知っている。そんな考えが浮かんでしまう。
「あなた……もしかして──」
「もうすぐ退勤時間ですよね」
「え?」
「終わったら外に出て店の裏にいてください。あなたの知りたいことを話します。残りのお仕事、頑張ってください」
言い終えた彼は席に座り、立てかけられたメニュー表を見定め始める。なんで自分の退勤時間を知っているのか訊こうとしたが、バイトの先輩に直接声をかけられたせいで、タイミングを逃してしまった。
────
「お仕事お疲れ様です」
「はあ……はあ……」
急いで帰り支度を済ませたせいで息が切れていた。気づいたら彼は店からいなくなっていて、あれは幻だったんじゃないかと夢見心地の気分であったが、彼は本当に裏で待っていた。
「須黒壮介くんを……知っているのですか? と言うか、あなたは」
「実はその方、名前を変えてるらしいんです」
「は?」
「名前を捨てた、と言う方が正しいでしょうか?」
割り込む隙を与えず、彼は一方的に喋り続ける。
「遠い場所に行ったんです。遠い遠い、誰も行けない場所に行ってしまった。だからあなたの知っている知人はもうどこにもいません」
「……どういう意味ですか?」
「そのままです」
「あの……その…………変わった名前というのは?」
「名前ですか?」
「クグツ」
小さな衝撃が栞の華奢な身体を襲った。
こんな経験はなかった。男に襲われる機会は何度かあった。邪な視線も何度も浴びせられてきた。だがそれでも、こんな経験はついぞありはしない。
刃が栞の腹部を貫通していた。
彼は済ました顔で、紫色の刀身の洋刀を栞に突き立てていた。
「そ……う……」
「ごめんなさい。哀川さん」
いつの日かのように助けてくれる春喜は、側にいない。
栞の意識は闇に消えた。




