第一章6話 「裁定者の朝」
朝の陽光が、カナヴェル邸の豪奢な自室に差し込んでいる。
鏡の前に座るイリスは、小豆色の艶やかな髪を櫛で梳かしていた。
鉄鎖巷の管理を請け負っているカナヴェル家の屋敷は、この辺りでは珍しく、常に清潔な香料の匂いが漂っている。
「……ふふっ」
昨日のノアとの会話を思い出したのか、その口元に自然と笑みがこぼれる。
危険な目に遭ったというのに、真っ先に自分の無事を喜んでくれたノアの不器用な優しさが、胸の奥を温かく満たしていた。
だが――次の瞬間、イリスの動きがピタリと止まった。
まるで、目に見えない氷の刃が背筋を撫でたような、ゾッとする悪寒。
腕が糸を切られた操り人形のようにだらりと下がり、掌から櫛がカランと乾いた音を立てて床に落ちる。鏡に映る彼女の瞳から、一切の感情と光が消失していた。
『――接続完了』
彼女自身の声帯を使い、彼女のものではない無機質な音声が漏れる。同時に、左腕の服に隠れた部分から、奇妙な月と鐘を模した紋様の印が青白く明滅し始めた。
それは、彼女が焔牙層の暗がりから逃げ惑っていたあの時、無意識のうちに刻み込まれていた印だった。
『対象――白銀。西方都市ニテ生存ヲ確認。住人ト接触中……コレヨリ、座標ヲ転送シマス』
彼女の視界が捉えたノアの家の位置情報や、昨晩の会話の記憶が、情報信号となって空間の彼方へと吸い出されていく。
明滅が数度繰り返された後、ふっと青白い光が消える。
「……あれ?」
イリスは大きく瞬きをし、不思議そうに足元の櫛を見つめた。
自分が数秒間、何をしていたのか全く記憶がない。かすかな頭痛と、指先の痺れだけが残っている。だが、彼女は小さく首を傾げただけで、落ちた櫛を拾い上げて再び朝の身支度へと戻っていった。
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一方その頃。
僕は、階下から漂ってくる香ばしい匂いと、軽快な包丁の音で目を覚ました。
「ふわぁ……よく寝た……」
体を起こし、固いベッドの上で大きく伸びをする。
部屋の隅には、昨日まで修理途中だった廃品の山が積まれている。いつもと変わらない、油と鉄の匂いが染み付いた僕の部屋だ。
軽く身支度をしていつもの鞄を手に取り、ギシギシと鳴る階段を下りて一階の居間へと向かう。
「おはよう、母さん。今日の朝ごはんは――」
そう言いかけて、僕はその場で硬直した。
「おはよう、ノア。もう、いつまで寝てるのよ」
台所に立つ母さんの隣には、なぜか花柄の少し古びたエプロンを身につけた少女――フィナの姿があったのだ。
透き通るような白い肌と、背中まで伸びた黄金の髪。そんなおとぎ話に出てくるお姫様のような彼女が、使い込まれたまな板の前に立っている光景はあまりにも現実離れしていた。
「フィナ!? な、何やってるんだ!?」
「……見れば分かるでしょう。フェリン殿の調理という任務の補佐を行っています」
大真面目な顔で答えるフィナの手には、木べらが握られている。高貴な白いドレスに庶民的なエプロンという凄まじいミスマッチだが、本人は至極真剣に鍋の中のスープをかき混ぜていた。その姿勢は、まるで国を賭けた戦場で聖剣を構える騎士のようだった。
「フィナちゃんったら凄いのよ。教えた通りに寸分の狂いもなく野菜を切ってくれるんだから! これなら私よりずっとお料理上手になるわね」
「……ヴァルトリアの剣技は、本来このような用途に使うものではないのですが」
不本意そうに呟きながらも、フィナは母さんに言われるがまま、大人しく火加減を調整している。
やがて、食卓に湯気を立てる鍋が運ばれてきた。
今朝の献立は、鉄鎖巷で手に入る安物の野菜と、硬い干し肉を煮込んだいつもの薄味スープだ。それに、少しパサついた黒パンが添えられている。
席に着き、恐る恐るスープを口に運ぶフィナを、僕と母さんは見守った。
「……どう? フィナちゃんのお口に合うといいんだけど」
フィナは何度か瞬きをし、スプーンを見つめてから、ぽつりと呟いた。
「……不思議な味がします。中央の食事に比べれば、味付けも貧相で栄養価も最低限。ですが……」
そこで言葉を区切り、彼女はほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……ひどく、温かいですね」
それは微かな、本当に微かな微笑みだった。
冷酷に生きてきた彼女が、誰かから無償で与えられる日常の温かさに触れた瞬間だった。
ひとまず安堵し、僕も木製のプレートにスープを入れてもらった。
干し肉の出汁が染み出た、いつもの母さんの味だ。そのまま木製プレートを手に持ちスープを飲んでいると、フィナがこちらをジッと見ているのが目に入った。
「……どう、でしょうか?」
「……え?」
フィナは少し怪訝そうな、それでいてどこか不安げな表情を浮かべながら、こちらを見つめていた。
「味はどうかと、そう聞いているのです。私が食材を切り分けたことで、味に不和が生じていないかと」
「……あぁ。すごく、美味しいと思うけど……。野菜の大きさが全部同じだから、均等に火が通ってていつもより食べやすいよ」
フィナは、その言葉を聞いても表情を動かさず、いつもの冷徹な表情のままコクリと頷いた。
「そうですか」
そう言い残すとすぐに立ち上がり、ごちそうさまでしたと小さく呟いて、一時的に借りた客間へと戻っていく。
気のせいか、その去り際の背中から少しだけ弾むような嬉しそうな感情が見えた気がした。
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朝食後、母さんが「戸締まりはしっかりね」と言い残して仕事へと出かけて行き、家には僕とフィナの二人だけが残された。
静かになった居間のテーブルで、僕は部屋から持ってきた鞄の中から昨夜白燈街で買ったあの金属片を取り出した。
窓から差し込む朝日を浴びたそれは、やはり細かな紋様を鈍く浮かび上がらせている。鉄でも銅でもない、指に吸い付くような滑らかな質感。
――トクン。
触れると、僕の体温に同調するように温かな鼓動を返してきた。
気のせいじゃない。これは――。
「……ノア。それを、どこに隠し持っていたのですか」
背後から、氷のように冷たい声が降ってきた。
振り返ると、いつの間にか客間から戻ってきていたフィナが、黄金の瞳を細めて僕を睨みつけていた。先ほどの食卓で見せた微かな柔らかさは完全に消え失せ、冷酷な表情に戻っている。
「隠していたわけじゃない。昨日、白燈街の露天商から買ったんだ」
「……それは、ただのガラクタだと言ったでしょう。人間が持っていても、いいことはありません」
フィナが一歩、音もなく僕に近づく。
部屋の空気が、急激に冷え込んだような錯覚を覚えた。
「それを渡してください。……なぜ、ただの人間であるあなたがそれに触れて、何事もなく平然としていられるのですか」
「……渡さない」
僕は金属片を強く握りしめ、彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「僕にも、これが何なのかは分からない。でも……不思議と、安心するんだ。ずっと昔からそばにあったような……ありえない話だけど、そんな気がするんだよ」
僕の言葉に、フィナは小さく息を呑んだ。
彼女の瞳の奥に、明らかな動揺が走るのが分かった。
僕という存在への疑念か、あるいは、認めたくない事実に対する恐怖か。はたまた、絶望の中に一筋の希望を抱いたようにも見えたその瞳は、どこかひどく寂しそうだった。
僕たちは言葉を失い、テーブルを挟んで互いを見つめ合った。
温かかったはずの朝日が、今は妙に白々しく感じられた。
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時を同じくして、西方都市の入り口である巨大なターミナルゲート。
都市の東に位置する白燈街。そのさらに東に佇んでいるこの広大なゲートでは、朝から荷馬車や蒸気仕掛けの運搬車がひしめき合い、常に労働者や商人たちが忙しなく行き交っている。
そんな喧騒と土埃にまみれた人混みの中で、明らかに異質な空気を纏う影が一つ、悠然と歩みを進めていた。
深い外套をすっぽりと被っているが、その下には、洗練された中央都市の白装束と、鈍く光る幾つもの魔導具が隠されている。
その影が歩くたび、周囲の労働者たちは無意識のうちに道を譲っていた。まるで、生存本能があれに近づくなと警告を発しているかのように。
不意に、影の首元に刻まれた月と鐘の印が青白く脈打った。
『……座標ヲ転送シマス』
頭の中に直接響く、淀みのない機械的な音声。
それを受信した影は、立ち止まり、外套の奥で三日月のようにつり上がった笑みを浮かべた。
「見つけたぞ……。まさか、あんな煤まみれの最下層に隠れ潜んでいたとはな」
影の視線が、遥か遠く――分厚い煙突の森の向こう側、鉄鎖巷のある方角へと向けられる。
「それに、住人と接触? 裁定者がこの西の果てにいるなど……ふふっ、面倒なことにならなければいいが」
影は愉快そうに喉を鳴らし、再び歩き出した。
その足取りは、これから始まる狩りを心待ちにしているかのようだった。
平穏な朝の空気は、すぐそこまで迫る破滅の足音によって、すでに黒く塗り潰されようとしていた。




