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追憶のヴァルトリア  作者: 律蒼唯
第一章 崩落編

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第一章7話 「祝福の音色」

 静寂が支配する居間。


 温かかったはずの朝日は、いつの間にかひどく白々しい光へと変わっていた。


 テーブルを挟んで対峙するフィナの瞳には、かつて焔牙層(えんがそう)で見せた絶対者としての余裕は微塵もなかった。ただ、僕という存在を前にして、得体の知れない動揺と……どこか、懇願するようなひどく脆い感情が揺らいでいるように見えた。


「ずっと昔からそばにあったような……そんな気がするんだよ」


 呟くように、そう言い切った瞬間だった。



――ドクンッ!!



 手の中に握り込んでいた奇妙な金属片が、先ほどまでの微かな脈動とは比べ物にならないほど、強烈な鼓動を跳ね返してきた。


 それはまるで、僕自身の心臓の鼓動と完全に同期したかのような、生々しく、熱を持った感覚。


「う、あぁ……っ!?」


 掌から焼けるような熱が腕を伝い、肩を抜けて一気に頭の先へと駆け上がってくる。


 視界がぐらりと歪んだ。


 油と鉄の匂いが染み付いた僕の家の風景が、墨汁をこぼしたように真っ黒に塗り潰されていく。


「ノア……っ! それを手放して! お願い、今のあなたでは耐えられる訳が――!」


 フィナの切羽詰まった声が聞こえた。


 それは、誇り高きヴァルトリアの令嬢が出す声ではなかった。ただ純粋に、目の前の人間が傷つくことを恐れる、泣き出しそうな少女の悲鳴だった。


 だが、その声もすぐに激しいノイズに掻き消され、深い水底で聞くようなくぐもった音響へと変わってしまった。


 暗転した視界の先に、唐突に別の景色が広がった。


 僕の記憶ではない。僕が見たこともない、けれど魂の奥底が狂おしいほどの郷愁を覚える光景。



 ――見上げるほどの、天を貫く純白の塔。



 ――足元に広がるのは、泥や煤など一切存在しない、大理石と硝子で構成された無機質で完璧な都市。



 しかし、その完璧な美しさは、今まさに蹂躙されようとしていた。


『……あぁ、ああぁぁぁっ!』

『やめ……お止めください!』


 どこからか、耳をつんざくような人々の悲鳴が聞こえる。


 見上げれば、澄み切った青空に、まるでガラスにヒビが入るような巨大な黒い亀裂が幾重にも走っていた。そこから、正体不明のどす黒い炎が雨のように降り注いでいる。


 ガラガラガラ、ゴォォォンッ!!


 純白の塔が中腹から折れ、無数の破片となって落下していく。


『裁定者様……裁定者様あぁ!! どうか、どうかお助けください!!』


 その光景の背後で、狂ったような慟哭と、建物の破壊される激しい音が世界の終わりを告げるように鳴り響いていた。


「あ……が、ぁっ……!!」


 圧倒的な絶望感と、致死量の情報が脳を焼き切ろうとする。



 痛い。



 苦しい。



 なのに、なぜこんなにも、この崩れゆく真っ白な街が愛おしいと感じてしまうのか。焼け落ちる街並みを見下ろしながら、僕の心は引き裂かれるような喪失感に支配されていた。


 僕の意識が、完全にその狂った世界に呑み込まれそうになった、その時だった。


「――戻ってきて……ノア!!」


 バンッ、と僕の腕が強く弾かれた。


 金属片が手から滑り落ち、床に転がって乾いた音を立てる。


 同時に、脳内に溢れていた純白な都市のビジョンが嘘のように掻き消え、いつもの見慣れた居間の風景が戻ってきた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 僕は床に膝をつき、肺が千切れそうなほど荒い息を繰り返した。全身から脂汗が噴き出し、ドッドッと心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされている。


「……信じられない。記憶の激流に同調し、生きたまま帰還するなんて……」


 顔を上げると、フィナが僕のすぐ目の前に膝をついていた。


 その白い手は微かに震えており、僕の腕を弾いた指先を、祈るように胸元で固く握りしめている。その表情には、僕を責める色はなく、ただ無事でいてくれたことへの深い安堵だけが滲んでいた。


「フィナ……今のは、なんだ……? 白い塔が、空が……割れて……」

「……やはり、視たのですね。その残骸に刻み込まれた、終焉の記憶を」


 フィナは床に落ちた金属片を、ハンカチ越しに拾い上げた。素手で触れることすら躊躇うような、慎重な手つきだった。


「ただの人間には触れても問題ない廃品(ガラクタ)です。ですが、私たちにとってはただの廃品などではありません。……楽園都市、通称エデンと呼ばれているものの一つ、『オルビタス=Ø(ゼロ)』の中枢機構を構成していた外殻の一部。我々はこれを記憶の欠片と呼んでいます」

楽園都市(エデン)……の、一部……?」

「ええ。御三家それぞれが管理し、地上の人間たちが夢見る、空に浮かぶ完璧な都市。……ですが、状況は、あなたが視た通りです」


 フィナは自嘲するように、僅かに目を伏せた。


「あの完璧だった都市は、すでに内側から崩壊を始めています。この欠片のように、毎日その身を削りながら、地上へと破片を撒き散らしている。……あの空の底が抜けるのも、そう遠い未来の話ではないでしょう」


 彼女の口から語られたのは、この世界の根幹を揺るがす、あまりにも巨大で絶望的な真実だった。


「そういえば、ラゴルドたちも……楽園へ行こうとしていたよな……?」

「今の時代の楽園とは……中央都市を示しているようですから。単純に今より裕福な暮らしを求めていただけでしょう。どこの誰がそのように流布(るふ)したのかは知りませんが」


 フィナはそこで言葉を切り、ひどく痛ましいものを見るような目で僕を見つめた。


 何かを言いかけては、口を噤む。言いたいのに、言えない。そんな葛藤が、彼女の華奢な体を縛り付けているように見えた。


「ノア。お願いです、もうこれ以上、その欠片には触れないでください。あなたは……これに関わるべきではない」


 それは、冷徹なヴァルトリアの令嬢としての警告ではなく、ただ目の前の僕を気遣うような、ひどく弱々しい響きだった。


 無理やり奪い取ることだって、彼女の力なら造作もないはずだ。それなのに、彼女は僕の意志を無視して強引に奪うことができないかのように、ただ悲しげに眉を寄せている。



 ――僕は何者なのか。



 物心ついた時から鉄鎖巷で育ち、母さんと廃品回収をして生きてきた、ただの孤児のはずだ。


 だが、あの純白の塔が崩れ落ちる光景を見た時の、あの胸を締め付けるような喪失感はなんだったのか。


 僕は自分の震える両手を見つめながら、重く息苦しい沈黙の中にただ沈んでいくしかなかった。


----------


 鉄鎖巷の南側に位置する、錆びついた巨大な搬入ゲート前。


 本来であれば、下層の労働者たちが行き交う活気ある場所だが、今は奇妙な緊張感が漂っていた。


「おい、兄ちゃん。さっきから話しかけてんだろうが、無視かよ」

「こんな煤まみれの街に、ずいぶんと上等な服を着てんじゃねえか。その服、いくらで売れるんだろうなぁ?」


 ゲートの柱を背にして、数人の柄の悪い男たちが、一人の異質な存在を取り囲んでいた。


 鉄パイプや小刀をちらつかせる彼らの中心で足を止めていたのは、深い外套をすっぽりと被った長身の男だった。


 その外套の隙間からは、鉄鎖巷にはあり得ないほど純白で精緻な刺繍が施された装束が見え隠れしている。


「……雑音(ノイズ)が多いな」


 男は取り囲むチンピラたちには目もくれず、ただ不愉快そうに小さく呟いた。


 その声は、底知れぬ水底から響くような、感情の一切が抜け落ちた冷たさを持ち合わせていた。


「あぁん? 何言って……」

「小娘との面会の邪魔だ。……土に還れ、矮小なる者ども」


 男が、コートの下からゆっくりと右手を引き出した。


 その指先には、美しい銀の細工が施された手のひらサイズの小さな鐘が握られている。



 チリン――。



 男が軽く手首を振ると、驚くほど澄んだ美しい鐘の音が一つ、大気を震わせた。


「な、なんだ、そのおもちゃ――」


 男を小馬鹿にしようとしたチンピラの一人が、言葉を最後まで紡ぐことはなかった。


 鐘の音が耳に届いた瞬間。


 彼らの眼球から一斉に光が消え、白目を剥き、口から泡を吹きながら、操り糸を切られた人形のようにバタバタと崩れ落ちたのだ。


 血の一滴すら流れていない。


 だが、彼らの精神は先ほどのたった一つの音色によって完全に粉砕され、二度と目覚めることのない昏睡状態へと叩き落とされていた。


「さて……」


 男は、足元に転がる肉塊の山を一瞥することもなく、その上を靴底で踏み越えて歩みを進める。


 彼の首元にある月と鐘の印が、微かに明滅している。


 その光が指し示す先は、鉄鎖巷の深く入り組んだ居住区――ノアの家がある方角だった。


「待っていろよ。我らセリグラードの祈りをもって、その命……祝福してやろう」


 三日月のようにつり上がった笑みを残し、白装束の死神は、静かに、だが確実に、ささやかな平穏を破壊すべく歩みを進めていた。


----------


 どれほどの時間が経っただろうか。


 重く息苦しい沈黙に包まれた居間は、西の窓から差し込む夕陽によって、血のように赤く染め上げられていた。


 先ほどの一件以来、フィナはテーブルの端で固く口を閉ざしたまま、微かに震える手を膝の上で握りしめている。僕もまた、脳裏に焼き付いて離れない、純白の塔が崩れ落ちる光景を思い返しながら、あちこちから綿の飛び出しているソファに深く沈み込んでいた。



――バタンッ!!



不意に、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。


「ノア! 無事!?」


 血相を変えて飛び込んできたのは、息を切らした母さんだった。


 いつもなら陽が落ちるまできっちり働くはずの彼女が、こんな中途半端な時間に、しかもひどく狼狽した様子で帰ってくるなんて尋常じゃない。


「母さん!? 急にどうしたんだよ、そんなに慌てて」

「街の様子がおかしいのよ! 南の搬入ゲートあたりで、若い男たちが何人も倒れてるって大騒ぎになってて……」


 母さんは玄関の鍵をガチャガチャと掛けながら、震える声で早口に捲し立てた。


「怪我一つないのに、まるで魂を抜かれたみたいに白目を剥いて、誰も目を覚まさないんだって。……それに、気味の悪い真っ白な装束を着た大男が、この居住区の方へ歩いてくるのを見たって人がいてね。胸騒ぎがして、仕事どころじゃなくて……」


「真っ白な装束の、男……?」


 僕がオウム返しに呟いた、その瞬間だった。


「……っ!!」


 それまで俯いていたフィナが、弾かれたように顔を上げた。


 その黄金の瞳が極限まで見開かれ、信じられないものを見るように虚空を睨みつけている。彼女の顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。


「……結界。すでに、街のこの区画一帯が……切り離されている」

「フィナ……? 結界って、どういう……」

「静かに!!」


 僕の言葉を遮る、フィナの鋭く冷烈な声。


 それは、今朝エプロン姿で見せてくれた穏やかな少女の声ではなく、焔牙層で圧倒的な力を見せつけたヴァルトリアの令嬢の声だった。


 フィナは音もなく立ち上がり、スッと息を吸い込んだ。


 その瞬間、彼女の周囲の空気がビリビリと震え、目に見えない圧倒的な重圧が部屋中を満たした。


「フェリン殿、ノア。絶対に、私より前に出ないでください。御三家に属する……霊廟の番人と呼ばれている刺客が、すぐそこまで来ています」

「霊廟の……? 刺客って一体……?」


 僕と母さんが戸惑う中、フィナはテーブルの上の金属片を素早く隠し、玄関のドアを睨みつけた。



 ――コン、コン。



 ひどく静かな、けれど心臓の裏側を直接叩くような、不気味なノックの音が響いた。


 夕暮れの鉄鎖巷は、いつもなら近所の子供たちの声や、晩飯の支度をする匂いで騒がしいはずだ。しかし今は、外から一切の物音が聞こえない。まるで、この家ごと深い水底に沈められてしまったような、完全な静寂。


「……誰、かしら。こんな時間に」


 母さんが青ざめた顔で一歩進み出ようとするのを、僕は咄嗟に腕を掴んで止めた。


 本能が、あの扉の向こうにいるのは、人間ではない何かだと警鐘を鳴らしている。


「……ノア。私だよ、開けて……」


 しかし扉の向こうから聞こえてきたのは、微かに震える、か細い声だった。


「――イリス、なのか?」


 僕は耳を疑った。


 間違いない、イリスの声だ。なぜ彼女が、こんな時間に僕の家へ? カナヴェル家のおじさんに何かあったのか、それとも街の騒ぎに巻き込まれて逃げてきたのか。


「イリス、今この辺りは危ないらしいんだ、早く中へ……」

「ダメです、ノア! 開けては――!!」


 フィナの悲痛な叫び声が響いたが、僕の手はすでに玄関のカンヌキを外していた。


 外にいるのが得体の知れないバケモノならいざ知らず、幼馴染であるイリスを、こんな不気味な状況で外に締め出しておくなんてできるはずがなかった。


 ガチャリ、と重い鉄の扉を開け放つ。


「イリス、無事か? 早く――」


 手を伸ばした僕は、そのまま全身を氷の塊に変えられたように硬直した。


 夕闇に沈む扉の向こうに、確かにイリスは立っていた。


 だが、その姿は僕の知る彼女ではなかった。


 彼女の瞳には、一切の光がなかった。


 まるで精巧に作られたガラス玉のように、虚ろで、感情のない無機質な眼球が、ただ僕の顔を真っ直ぐに見つめている。


 そして、彼女の左腕――服の袖が不自然に破り取られたその肌に、青白く光る月と鐘の奇妙な紋様が、心臓の鼓動のように脈打っていたのだ。


「イリ……ス……?」



『――対象トノ物理的接触ニ成功。コレヨリ、処理ニ移行シマス』



 イリスの口が開き、彼女自身の声帯から、酷く機械的で、感情の抜け落ちた声が漏れる。


 その直後。


 イリスの背後に伸びた黒い影の中から、それは音もなく姿を現した。


「……美しい友情だな、西の果ての住人よ」


 夕闇の中、そこだけが異界のように白く浮かび上がっていた。


 深い外套の下から覗く、精緻な刺繍が施された純白の装束。大柄なその男の首元には、イリスの腕にあるものと全く同じ、青白く明滅する月と鐘の印が刻まれている。


 男は、虚ろな目をしたイリスの肩に片手を置き、外套の奥で三日月のようにつり上がった笑みを浮かべた。


「だが、この少女の役目はすでに終わっている。用があるのは……そこに隠れている、逃げた小娘の方だ」


「……セリグラード」


 僕の背後から、地を這うようなフィナの声がした。


 振り返ると、彼女の黄金の瞳は冷酷な殺意に満ち、両手にはいつの間にか、眩い光で編み上げられたような白銀の短剣が握られている。


「中央の犬が、こんな薄汚い西の果てまで何の用ですか」

「吠えるな、ヴァルトリアの反逆者。我が使命はただ一つ。御三家の(ことわり)から外れ、独断で下界へと降りた貴様を……神聖なる霊廟へと連れ戻すことだ」


 白装束の男が、空いている右手でゆっくりと懐から()()()を取り出す。


「大人しく首を差し出せ。さもなくば、この脆弱な操り人形の精神を、完全に砕くことにな――」


 男が脅し文句を言い終わるよりも早く。


 フィナの姿が、掻き消えた。



 チリン――。



 ――ドゴォォォンッ!!



 目にも留まらぬ速さでの踏み込み。


 フィナの振るった光の刃が、イリスごと男を両断しようと迫る。だが、男の目の前に展開された青白い月模様の結界と激突し、凄まじい衝撃波が僕の家を吹き飛ばさんばかりに荒れ狂った。


「……ぐあッ!」


 母さんを受け止めながら、家の壁に背中から強くぶつかった。


「ノア! フェリン殿を連れて下がっていてください!」

「おぉ、コワい、コワい。これだからヴァルトリアは嫌いなんです」


 爆風に煽られながらフィナが叫ぶ。


 その背中は、これまでに見たどの姿よりも小さく、そして悲壮な覚悟に満ちていた。


 イリスを盾にされ、逃げ場のない鉄鎖巷の我が家で。


 僕たちのひどく温かくてささやかだった日常は、たった一つの鐘の音と共に、唐突に破壊されたのだった。


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