第一章4話 「焔牙層にて②」
しばらく続く廊下を抜け、さらにいくつかの階段を上った先で建物から出ると、外の騒がしい様子が聞こえてきた。
「悪い! これはなんの騒ぎなんだ?」
通りがかりの人を呼び止めて話を聞くと、ラゴルドたちはすでに焔牙層を発ったらしく、急に留守を預けられることになったことで統率が失われ、少しずつ混乱が街中にも伝播しているとのこと。
先を争って上層へ向かおうとする荒くれ者たちが、バタバタと慌ただしく走り回っているのだ。
「……もう街を出たのか、早いな。二人とも、はぐれないように気を付けよう」
「えぇ」
「ノアこそ、はぐれないでよね」
……にしても、客室に通された後からは全く感じていなかったが、焔牙層の空気は相変わらず淀んでいる。廃品だらけの鉄鎖巷ですら、もう少しマシな空気が流れている。
「……ノア、もしかして今同じこと考えてた?」
少し口角を上げたイリスが、思考を見透かすようにこちらを見ていた。
「ふん、そうかもな」
家のバルコニーから眺める景色を思い出しながら、もうすぐ地上へ出られる。そう安堵した矢先だった。
突如として、足元の端にあったパイプからプシューと高圧の蒸気が噴出した。
「きゃっ!」
「なんだ!?」
ノアが通り過ぎてすぐの場所に位置したパイプからだったためすぐに振り返ったが、壁が脆くなっていたのか、イリスは驚きの余りもたれ掛かった壁をガラガラと音を立てながら押し崩す形で転げ落ちてしまっていた。
「……い、いてて……」
「イリス! 無事か?」
何度か呼びかけてみるが、周囲の怒号と蒸気の音にかき消されてしまう。
イリスも何かこちらに向かって叫んでいる様子だが、全く聞こえない。
すぐに聞こえないことが伝わったのか、身振りで道の先を示していた。両手の人差し指で先を指さし、何かを伝えようとしていた。
「道の……先で、合流しようってことか?」
「まぁ、それが懸命ですね」
そばに居るフィナの冷静な声が聞こえ、少しだけ安心できた。
「……そうだな、先で合流しよう。上層の手前になればきっと道も繋がってるはずだ」
僕もイリスに同じようなサインを送り、『先に行ってるぞ』と新たに身振りを付け加えた。
サインを受け取ったイリスは、少し険しい瓦礫の道を進み始めた。
「僕らも向かおう」
二人は上層への道を再び歩き始めた。
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イリスとはぐれてから、大体だが一時間ほど経った。
焔牙層が思っていたよりも広大で、心底驚いている。
今はどのあたりを歩いているのかすら、正直なところ把握しきれていない。
ガヤガヤとしていた焔牙層の中心街からは離れ、ゆったり流れているドロッとした下水を横目に、とりあえず前へ進んでいる。ある程度街から人の流れは見失わないように進んでいるため、上層へは間違いなく続いている道のはず、そう信じて進むしかない。
「フィナ、この辺で少し休憩にしよう」
少し後から着いてきているフィナも頷き、二人でちょっとしたスペースを確保して腰を下ろした。
「頼むから、無事でいてくれよ……」
再会も束の間、イリスと再びはぐれてしまった。言わずもがな、この焔牙層でだ。無事を祈らずにはいられなかった。
「彼女は、無事ですよ」
これまでずっとツンとした態度のフィナだったが、急に寄り添うような言葉をくれた。
「……」
道中も全くそんな素振りがなくあまりにも急だったため、驚いて数秒、彼女を見つめてしまう。
「なんですか?」
「……いや、優しいとこもあるんだな」
「……ッ! いえ、私は事実を伝えたまでで……」
「いいって、いいって。ありがとな」
「…………まぁ、いいです。いずれ会うこともあるでしょうから」
そんなフィナをからかっていると、そう遠くない場所から、ゴォウと大きな爆発のような音と衝撃波が響いてきた。
「なんだ!?」
「これは……また配管が破裂した類いでしょうか?」
「音の響き方からして近そうだ、行ってみよう」
「はい」
二人は少し駆け足で音が響いてきた方向へと向かった。
そこは二人が休憩していたスペースからすぐ近くだった。音の発生地点が少しだけ離れて感じていたのは、間に一つ鉄製の扉を挟んでいたことによる影響だったみたいだ。
その扉の先では、ちょっとした人だかりができていた。子供から大人、奥には老体の姿も見えた。
「すごい音だったけど、何があったんだ?」
「誰ッ!?」
「あー……悪い。急に声を掛けて。僕は――」
急に声を掛けて驚かせてしまったようなので、申し訳ない気持ちになりながら続けようとしたが、帰ってきたのは思っていた反応とは少し違った。
「あ、あんた! マグラードの屋敷に入って行くのを見たよ! お頭に言われて、用済みになった私たちを殺しにきたのかい!?」
「……は!? なんで僕が! 僕はあいつらの仲間なんかじゃ……」
ふと、人だかりの奥に少女が倒れているのが見えた。
「……おい! その子、怪我してるのか?」
「…………」
怪我をした少女の元に、僕がわざわざ殺しにやってきたと思っている様子だ。焔牙層では、働けなくなった者は生きられないっていうのか?
僕はゆっくりと歩き出し、横になって苦しんでいる少女の傍へと膝を着いて様子を伺った。
「……切り傷か。この配管が破裂しちまったんだな」
すぐ近くの配管に大きな穴が空いており、そこからはまだガスが少し漏れ出ていた。
「場所を移そう。ここじゃ治るもんも治らない」
横になっていた少女を抱えて、僕とフィナは先ほど休憩していたスペースまで戻った。
少女を連れていく時、周りの人たちはすでに諦めた様子で少女のことを見つめていた。こんなことが焔牙層では日常なんだと思うと、少し胸が苦しくなった。
少し平らな場所を探して少女を下ろすと、鞄から水と清潔な布を取り出して止血を始める。
その様子を、フィナは冷ややかな、まるで理解できないものを見るような目で見下ろしていた。
「……なぜ、助けるのですか?」
「え?」
「なぜ助けるのかと、そう聞いているのです」
なぜ助けるのか。
そんなこと、考えたことも無かった。
「その子供は、放っておけば遠からず死ぬ運命です。あなたに何の益ももたらさない。……誰もが自身の限られた時間を奪い合うこの地で、なぜ赤の他人にそこまで情けをかけるのですか?」
冷徹な論理だ。これがヴァルトリアの考え方なのだろうか。だが、そうじゃない。僕は横になった少女の腕に布をキュッときつく結び終えると、立ち上がって彼女を見た。
「益があるとかないとか、そういうのじゃない。ただ、目の前で苦しんでいる奴を見捨てられるほど、僕は強くないだけさ」
僕の言葉に、フィナはほんの僅かに目を鋭くさせた。気高きヴァルトリアの一族である彼女にとって、僕の行動はひどく滑稽で、同時に、どうしようもなく奇妙に映ったのかもしれない。
「……見捨てられるほど、強くない、ですか」
フィナは僕の言葉をなぞるように、小さく呟いた。
彼女の黄金の瞳が、何かを探るように僕の全身をじっくりと観察していた。それは値踏みするような視線ではなく、まるで未知の生物を観察するような、純粋な戸惑いに見えた。
「奇妙な理屈ですね。私たちの世界では、持たざる者を踏み越えていくことこそが、強さの証だというのに」
「生憎、こっちはそんな高尚な世界で生きていないんだ」
納得した様子を見せない彼女を横目に、僕は振り返って住民たちの方へと向き直る。住民たちはまだ遠巻きにこちらを伺っていたが、少女の呼吸が落ち着いてきたのを見て、先ほどまでの刺々しい殺気は和らいでいるようだった。
「ここは比較的安全な場所だ。あとはそっちで見てやってくれ。……ガス、吸いすぎないようにな」
家族と思わしき住人の一人がおずおずと少女へ寄り添い、頬を撫でた。
感謝の言葉は無かった。それでも、去り際に一瞬だけ向けられた視線には、ほんの僅かな救いのようなものが混じっていた気がした。
「行きましょう、ノア。これ以上は時間の無駄です」
フィナに促され、僕たちは再び歩き出した。
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それからさらに数十分。
足場の悪い階段を上るごとに、鼻をつく鉄と油の匂いが薄れてきた。代わりに甘い香料と、何かが燃え焦げた匂いが混ざり始めてきた。
「……はぁ、そろそろだな」
肺を満たしていた淀んだ空気が、少しずつ上層の熱気を帯びてくる。
最後の長い階段を上り切り、左右に大きく開かれた鉄製のゲートが見えてきたその時。
「ノア! やっと追いついた。それにフィナ……さんも」
「イリス!」
「……」
彼女のもとへ駆け寄り、共に無事を喜んだ。
「よかった、丁度ゲート前で合流できたな。変な奴に絡まれたりしなかったか?」
「うん、大丈夫。……ちょっと、迷いそうになったけどね」
イリスはいつものように微笑みながら答えてくれた。
だが、その姿を間近で見た瞬間に、僕は奇妙な違和感に襲われた。
一時間近く泥と煤に塗れた焔牙層の道外れを一人で歩いてきたはずだ。それなのに、彼女の服には目立った汚れが無く、その髪すらもはぐれる前より綺麗に整えられているように見えた。
「……服、なんか妙に綺麗じゃないか?」
「え? ……あぁ、そうかな? へへ、さっき途中で服を払ったから、そのせいかも」
一瞬だけ明らかに視線を泳がせた。
その瞳がほんの数秒、焦点が合っていないような虚ろな光を宿した気がして、僕は思わず言葉を失う。
「……どうかした?」
「あ、いや、なんでもない。悪い、無事ならそれでいいんだ」
気のせいだろうか。それとも、僕が神経質になっているだけだろうか。
ノアの背後からは、フィナが黙ってイリスのことをじっと見つめていたが、彼女もそれ以上は何も口にしなかった。
「……再会の喜びはこのくらいにして、そろそろ行きましょう。ここが、あなたたちの言う上層、つまりは地上への入口ですね」
その言葉に促され、僕たちは焔牙層から最後の一歩を踏み出す。
重厚なゲートを潜り抜けた瞬間、視界が真っ白に染まった。
―――――そこは、光の海だった。
夜通し灯される数え切れないほどの純白の蝋燭。
石造りの古い街並みを、揺らめく光が幻想的に街を照らしている。
焦げた蝋の匂いと、どこからか聞こえる賑やかな話し声。
地下の叫び声や淀みとは無縁の、退廃的でありながらも活気に満ちた西方都市の元歓楽街。
僕たちはついに、地上――白燈街へと帰ってきた。




