第一章3話 「焔牙層にて①」
ガチャンと重い金属音が響き、イリスの拘束が解かれた。
「イリス! 大丈夫か、どこか痛むところはないか?」
「ノア……うん、平気。手首が少し擦れちゃったくらいで、怪我はないわ」
イリスは安堵の表情を見せた後、ハッとして、静かに佇む黄金の瞳の少女――フィナへと向き直った。
「あ、あの……助けてくれて、本当にありがとう。あなたが来てくれなかったら、私たち……」
「……勘違いしないでください」
フィナはイリスの感謝の言葉を遮るように、冷淡な声音で告げた。
「私は、不当に扱われている彼を助けるついでに、邪魔な障害を排除しただけです。あなたに感謝される謂れはありません」
「えっ……?」
イリスが戸惑うのも無理はない。フィナの視線はイリスを通り越し、真っ直ぐに僕だけを捉えていたからだ。
そのひどく真っ直ぐで、どこか熱を帯びたような黄金の瞳に見つめられ、僕は思わず息を呑んだ。
どうして彼女は、今日初めて会ったばかりの僕を、そんな目で見つめるのだろうか。
「おい! てめえら何ぼさっとしてやがる!」
張り詰めた空気を破ったのは、汗を拭いながら立ち上がった大男――ボスの怒声だった。
「お客人だ! 奥の、中央の商人を招く客室へ案内しろ! 案内は……お前だ、レキ!」
「えっ、俺ですか!?」
ビクッと肩を揺らして前に出たのは、先ほどまで僕が入れられていた檻の見張りをしていた男、レキだった。
「当たり前だ! お前、さっきこの坊主の監視してただろうが! ついでだ、適当に茶でも出してもてなせ、いいな!」
完全に責任を押し付けられた形のレキは「マジかよ……」と頭を抱えたが、フィナの視線に気づくと、慌てて背筋を伸ばした。
「こ、こちらへどうぞ、ヴァルトリアの……お、お嬢様」
通された客室は、薄汚れた焔牙層のアジトとは思えないほど整った部屋だった。
ふかふかのソファに腰を下ろしたものの、僕もイリスも落ち着かず、出された紅茶に手をつけることすらできないでいる。
一方のフィナは、まるで自分の家にいるかのように優雅な所作でカップを口へと運んでいた。
「……なぁ、レキさん」
「なんだよ、ノア。こっちは生きた心地がしねえってのに」
部屋の隅で、護衛という名の監視、あるいは人質のように立っているレキに、僕は声を潜めて尋ねた。
「さっきから気になってたんだけど……『御三家』とか『ヴァルトリア』って、一体何なんだ? なんであいつは、名前を聞いただけであんなに怯えてるんだよ」
「……はぁ!?」
レキは素っ頓狂な声を上げた後、慌てて自分の口を塞ぎ、フィナの方をチラリと見た。彼女は特に気にした様子もなく、紅茶を楽しんでいる。
「お前ら……マジで何も知らねえのか? 中央都市を牛耳ってる、トップ・オブ・トップの三大貴族のことだぞ」
「あー……その、なんだ。鉄鎖巷には、そんな情報降りてこないからな」
「まあ、無理もねえか、ざっと教えてやる。いいか、中央には御三家って呼ばれる絶対的な権力を持った家系が三つあった」
レキはため息をつきながら、指を三本立てた。
「一つ目は、黒き盾と塔の紋章を掲げる『シュヴァルゼン家』。あそこは砦や城塞の管理を取り仕切る、ガチガチの軍事一族だ。二つ目は、月光と鐘の『セリグラード家』。古い神殿や遺構を管理してて、何やらやばい霊術や結界を使うって噂だ。……そして、三つ目が――」
レキの視線が、自然とフィナへと向く。
フィナはコトン、とソーサーにカップを置き、静かな声で引き継いだ。
「白銀の双剣と王冠。政治と裁定を司り、最も古き王家の血を引く誇り高き一族――それが、我が『ヴァルトリア家』です」
「さ、裁定……?」
イリスが呟くと、レキが顔を引きつらせながら頷いた。
「そうだ。他家の揉め事を仲裁し、法を破った奴に絶対の『裁き』を下す。……何十年も前に、御三家共々滅んだなんて噂もあったが、人の命を吸って永遠を生きるバケモノだって伝承まである。しかも、こうして目の前に現れたんだ。お頭がビビり散らすのも当然だろうが」
「「……」」
僕とイリスは、息を飲み込む。
「まあ、理解してもらえたのなら幸いです」
絶対的な権力。
僕にとって権力を持つ者といえば、鉄鎖巷を管理してくれているイリスの家――『カナヴェル家』や、今いるこのヤバい焔牙層を牛耳る『マグラード家』、あとは白燈街の『ルヴェリエ家』くらいしか思い浮かばない。
だけど、レキの話しぶりから察するに、そんな西方都市のトップたちですら中央の『御三家』から見れば足元にも及ばない存在なのだろう。
「……でも」
僕は、目の前で静かに息をつくフィナを見つめた。
「バケモノ……なんて、いくらなんでも言い過ぎじゃないか?」
「お、お前、何を言って……!」
「確かにさっきの……力? は規格外だったけど、今の彼女はどう見ても普通の女の子じゃないか」
直後、フィナと目が合った。
彼女は、再び手にしていたカップを持ったまま目を丸くして、僕の言葉に驚いたようにパチパチと瞬きをしている。その瞳の奥には、先ほどまでの冷酷さとは違う、感情の揺らぎが見えた気がした。
「あなたは……」
フィナが何かを言いかけたその時。
ギィと音を立てながら、部屋の大扉が開かれた。
「あー……失礼するぜ」
開かれた扉から顔を出したのは、さっきまでふんぞり返っていた大男――この焔牙層を仕切るボスだった。
「寛いでるとこ悪いんだが、そろそろさっきの……中央の話を聞かせてくれねぇか」
先ほどまでの荒々しさは少し影を潜めているが、それでもボスとしての威圧感は健在だ。
「構いません。では、改めて……まずはあなたの名を聞きましょうか」
フィナが静かに名乗りを促すと、大男は口を開いた。
「ラゴルド・マグラードだ。この焔牙層をまとめてる組合のボスをやらせてもらってる」
「……っ、ラゴルド!?」
その名を聞いた瞬間、思わず声が漏れた。隣にいたイリスも息を飲んで僕の腕を強く掴む。
西方都市でその名を知らないものはいないだろう。治安のどん底である焔牙層で、力による支配を築き上げたマグラード家の実力者だ。
「なんだ、お前ら俺を知ってんのか」
「あんたを聞いたことない奴なんて……」
いない。そう続けようとしたが、フィナによって遮られる。
「ラゴルドさん、ですね。ええ、結構です。約束通り、あなたたちを中央へ導くための手配をいたしましょう。向かうのはあなた一人ですか?」
「いや、俺と……部下を十人ほど連れていく。この西方で燻ってるより、中央で景気のいい話に乗りたくてよ」
ラゴルドは、今か今かと野心に満ちた目でフィナを見つめる。
フィナはレキに頼んで紙とペンを用意してもらい、さらさらと迷いなく文字を書き連ねていく。
「……これを」
書き終えた紙を折り、そのままラゴルドへと差し出す。
「ヴァルトリアの名による紹介状です。中央都市の門衛にこれを見せなさい。そうすれば、あなたたちの身分は保証されるでしょう」
「おぉ……! これがヴァルトリアの……。ありがたく使わせてもらうぜ」
ラゴルドは手にした紙切れを満足そうに眺めた。その顔には、念願の楽園への切符を手に入れたという歓喜の表情を浮かべていた。
「急ぐといいです。その紹介状の効力は……そう長くはありませんから」
「おう、そうかよ。おいレキ、野郎どもを集めろ! 準備だ!」
号令を掛けて颯爽と部屋を飛び出していった。間もなくして、部屋の外は慌ただしく荷物をまとめる物音が響き始める。
静寂が戻った部屋で、僕は手元に残っている紅茶を見つめた。
西方を恐怖で支配していた男が、たった一つの紙切れと引き換えに僕たちを解放し、自らもこの地を去ろうとしている。
「……その、本当に良かったのか? あいつら、あんなに喜んで行ってしまうけど」
フィナはカチャとカップをテーブルに戻す。そして、僕の問いにどこか遠くを見るような目でポツリと呟いた。
「えぇ、彼らは望み通り、中央都市の門までは辿り着けるはずです。そこから先がどうなろうと、私の知ったことではありません」
「そ、そっか……」
どこか冷たい横顔に、背筋が少しだけ寒くなるのを感じた。
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「そろそろ、僕たちもここを出よう。母さんや、イリスのご両親も心配してるはずだ」
「うん、そうね。どのくらい時間が経っているかも分からないし、早く帰ろ、ノア」
イリスが頷くのを見て、僕はフィナへと視線を向けた。
「君はこれからどうするんだ?」
「……もちろん、ついて行きますよ」
彼女は当然のような顔で答えた。
「そしたら……とりあえずここを出よう。まずは上層の白燈街を目指すぞ」
僕の提案に二人が同意し、三人は部屋を後にした。




