第一章10話「沈みゆく日常」
深い、どこまでも深い水底に沈んでいるような感覚だった。
光も音も届かない暗闇の中で、僕はただ漂っている。
指先を動かすことすら忘れ、自分が呼吸をしているのかさえ定かではない。
ただ一つ意識の端に残っているのは、あの燃え盛るような熱さだけだ。
魂を内側から焼き尽くし、自分という器を強引にこじ開けて溢れ出したあの黄金の光。
「落ちろ」と命じた瞬間の世界が自分の指先に屈服したような、恐ろしくも万能な全能感。
――だが、その代償はあまりにも重かった。
不意に、遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえた気がした。
微かな、祈るような、震える声。
その声が、僕の意識という名の重い錨を引き上げていく。
まぶたの裏側に白々しい光が差し込み、感覚の麻痺していた肉体に、暴力的なまでの痛みが帰ってきた。
「……っ、か、は……ぁ」
乾いた喉から、掠れた悲鳴が漏れる。
全身の骨が一度砕かれ、無理やり繋ぎ合わされたかのような激痛。筋肉の一筋一筋が過剰な負荷に耐えかねて悲鳴を上げている。
僕は重い鉛のようなまぶたを、数ミリずつ慎重に押し上げた。
視界はひどく霞んでいた。
最初に見えたのは、見慣れた我が家の煤けた天井の木目だった。
油と鉄、そして使い込まれた家具の匂い。
鉄鎖巷にある、僕の家だ。
あの惨劇のような光景ではなく、自分の部屋に戻っていることに、僕は言葉にならない安堵を覚えた。
「……あ、あぁ……」
空気を求めるように口を動かすと、傍らで衣擦れの音がした。
霞む視界の中で、何かが揺れた。
それは、窓から差し込む僅かな光を反射して、この薄暗い部屋にはおよそ存在し得ないほど鮮やかに輝く、黄金の糸。
「……ノア?」
鈴を転がすような声が、耳元で響く。
視界が少しずつ焦点を結び、一人の少女の姿を捉えた。
フィナだった。
黄金の髪をサイドテールにまとめ、透き通るような白い肌を持つ恩人の少女。
だが、今の彼女に、あの焔牙層でラゴルドを射すくめたような、あるいは刺客の攻撃をその身で受け止めた時のような冷徹な覇気はなかった。
少しだけ乱れた髪、隈の浮いた瞳、そして僕を覗き込むその表情には、隠しきれない疲労と、痛々しいほどの不安が滲んでいた。
その瞬間、僕の脳裏に、あの気絶する直前に見た光景が重なった。
純白の石畳。咲き乱れる色鮮やかな花々。
そして、僕と手を取り合い、心から楽しそうに笑い合っていた、黄金色の髪の少女。
夢なのか、それとも、失われた僕の記憶の一部なのか。
「フィ……ナ……?」
名を呼ぶと、彼女の黄金の瞳が大きく見開かれた。
その瞳に、じわりと涙が溜まっていく。
冷徹な処刑人、誇り高きヴァルトリアの令嬢。そんな幾重にも重ねられた仮面が、僕の目覚めという一点において、あまりにも脆く崩れ去っていくのが分かった。
「よかった……ああ、本当によかった……っ」
彼女は僕の横たわるベッドの傍らに膝をつき、震える指先で僕の右手を包み込んだ。
その手は、驚くほど冷えていた。
僕が眠っている間、彼女はずっとこうして、僕の命が繋ぎ止まっていることを確認していたのだろうか。
「……どれくらい、眠っていたんだ……?」
「丸三日です。あなたの体は、内側から燃え尽きようとしていました。あのような……人の身で扱いきれるはずのない力を、無理やり引き出した反動がこれほどまでとは」
彼女の声は掠れ、懺悔でもしているかのように弱々しかった。
三日。
僕はそんなに長い間眠っていたのか。
「イリスは……母さんは、無事なのか……?」
「フェリン殿は無傷です。イリス・カナヴェルも、呪印の消失による衰弱はありましたが命に別状はありません。彼女は毎日様子を見に来ていますよ。今は隣の部屋で休んでいます」
「そうか、みんなに心配かけちゃったな」
フィナは、僕を安心させるように、ゆっくりと言い含めるように言葉を紡いだ。
その丁寧な所作が、かえって彼女の心の余裕のなさを露呈させている。
彼女は僕の手を握る力を、無意識のうちに強めた。まるで、少しでも気を抜けば、僕という存在が再びあの黄金の光の中に溶けて消えてしまうのではないかと、恐れているかのように。
「……無事だったのですね……」
彼女が強く握った僕の手を見つめながら、ポツリと、独り言のように漏らした。
それは、これまで僕に向けてきた、毅然とした言葉ではなかった。
もっと深く、魂の奥底から絞り出されたような、ひどく無防備で、柔らかい響き。
「……お兄様」
その響きが、僕の鼓膜に触れた瞬間。
全身の細胞がざわめき、心臓が大きく跳ね上がった。
お兄様。
僕に、妹はいない。
物心ついた時から、僕は母さんと二人きりだった。
いや、あの記憶の欠片に触れた後から薄っすらと常に感じていた。ずっとこの胸の内にある感情、それに、僕じゃない僕の記憶の存在。
それでも、鉄鎖巷の薄暗い空の下で廃品を拾い、その日の食いつなぎを必死に考えてきた、ただの孤児だ。
高貴な名前も、血統も、そんなものは僕の人生には一欠片も存在しなかった。
なのに、なぜ。
彼女にそう呼ばれた瞬間、あの日溜まりのような庭園の記憶が、耐え難いほどの郷愁を伴って胸を締め付けるのか。
「……やめろ」
僕は絞り出すような声で、彼女の言葉を遮った。
握られていた手を、自分でも驚くほどの拒絶感を持って引き抜こうとする。だが、体に力が入らず、その動作はただ弱々しく彼女の手を振り払うに留まった。
「僕は……お兄様なんて、そんな御大層な人間じゃない。僕はノアだ。鉄鎖巷の、ただの廃品を漁って生きてきたノアなんだ!」
先ほどの、いや、三日前の嘘のような光景をフラッシュバックさせながら、自分にも言い聞かせるような大きな声が部屋の中に虚しく響く。
そうだ。僕はここで生きている。
母さんがスープを作ってくれて、イリスとガラクタを拾って笑い合う。
そんな、取るに足らないけれど、何よりも大切な日常が僕の真実だ。
黄金の瞳。裁定者。ヴァルトリア。
そんなものはこの街に必要ない。
それを受け入れてしまったら、僕が愛してきたこの15年間のすべてが、嘘になってしまうような気がした。
「お兄……ッ、ノア……」
フィナの手が、空中で彷徨うように止まった。
彼女の瞳に浮かんだのは、拒絶されたことへの悲しみだけではない。
すべてを察しながらも、それでも僕の意思を尊重しようとする、深い葛藤の色。
彼女は唇を噛み締め、震える手をゆっくりと自分の胸元で握りしめた。
「す……すみません。私は、少し混乱しているようです。……あなたが無事でよかったです、はい。……今は、それだけで」
彼女は再び、処刑人としての仮面を被り直そうとしていた。
だが、その声は隠しきれないほどに震えており、黄金の瞳に宿った脆い光が、彼女の言葉が嘘であることを雄弁に物語っていた。
僕は、彼女から視線を逸らした。
見つめてしまえば、自分の内側にある何かが、彼女の想いに共鳴して崩壊してしまいそうだったからだ。
気まずい沈黙が部屋の中を満たしていく。
僕は自分の震える右手をじっと見つめながら、暗闇の中で僕を呼んでいた声を、必死に頭の隅へと追い出そうとしていた。
僕はただのノアだ。
そう、ただの、ノアなんだ。
そう自分に呪いをかけるように繰り返しながら、僕はかつて見たこともないほど白々しい光を放つ、窓の外の空を、ぼんやりと眺めていた。
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フィナとの間に流れる、刺すような沈黙。
それを破ったのは、仮設された居間の重い扉がゆっくりと開く音だった。
「……目覚めたのね、ノア」
入ってきたのは、母さん――フェリンだった。
その手には、湯気を立てる木製のボウルが握られている。使い込まれた木の盆の上でスプーンが微かに音を立てていた。母さんの顔には、安堵を通り越して何か重い決意を固めたような、静かな覚悟が刻まれていた。
「母さん……」
「フィナちゃん、ありがとう。ずっと付きっきりで看病してくれて。……少し、代わってもいいかしら」
フィナは、まだ震えの止まらない自分の手を隠すように立ち上がると、短く「はい」とだけ答え、部屋の隅へと退いた。黄金の瞳は伏せられ、その表情は再び無機質なものへと戻っていたが、その指先がエプロンの端を固く握りしめているのを、僕は見逃さなかった。
母さんはベッドの脇に腰を下ろすと、スープの入ったボウルをサイドテーブルに置いた。そして、僕の手をそっと取り、自分の掌で包み込んだ。15年間、僕を慈しみ、育ててくれた、温かくて、少し荒れた、大好きな母さんの手だ。
「さっき、聞こえてしまったわ。あなたがフィナちゃんに……自分の名前を叫んでいたのが」
母さんの声は穏やかだったが、その瞳は僕の心の奥底を覗き込むように真剣だった。
僕は思わず目を逸らした。
「……僕は、鉄鎖巷のゴミ山を漁って、母さんにスープを作ってもらう……そんな、どこにでもいるガキのはずなんだ」
「ええ。そうね。あなたは私の自慢の息子よ。……でもね、ノア」
母さんはそこまで言って言葉を切り、部屋の入り口へと視線を向けた。
「ヴァンスさん、エレナさん。……入ってきてくださる?」
呼びかけに応じるように、隣の部屋から二人の人物が姿を現した。
一人は、ヴァンス・カナヴェル。鉄鎖巷を管理する責任者であり、イリスの父親だ。普段は毅然とした態度で住民をまとめる彼だが、今はその眉間に深い皺を刻み、沈痛な面持ちで立っている。
もう一人は、彼の妻であり、イリスの母親であるエレナ・カナヴェル。彼女は、目を覚ました僕を見て、優しく、けれどどこか悲しげな微笑みを浮かべた。
「ヴァンスおじさん……エレナおばさんまで」
「ノア、目覚めてくれて本当によかった。イリスもずっと心配していたよ。今は疲れて眠っているが、君が目を覚ましたと知れば、また騒ぎ出すだろう」
ヴァンスおじさんは低く響く声でそう言うと、フェリンの横に立った。
この家には似つかわしくない、鉄鎖巷の権力者であるカナヴェル家の人々。だが、彼らの目は、単なる近所の知り合い以上の深い情を湛えていた。
「ノア。これから話すことは、私と、エレナ……そして、フェリンさんの三人で、十五年間守り通してきた嘘の話だ」
ヴァンスおじさんは、上着の内ポケットから古びた小さな布包みを取り出した。
彼が慎重にその包みを開くと、中から現れたのは一つのペンダントだった。
それは、錆びた鉄鎖巷の風景にはあまりにも異質な、白銀の輝きを放つ装飾品だった。その中心には双剣と王冠を模した、精緻で重厚な紋章が刻まれている。
「……っ」
その紋章を見た瞬間、僕の視界の端でフィナが息を呑む気配がした。
「憶えているかい、ノア。君が子供の頃、一度だけ見せようとしたことがあるが……君は、それをひどく怖がって泣いた。だから、フェリンさんはこれを私に預けたんだ」
ヴァンスおじさんは、そのペンダントを僕の目の前に差し出した。
裏面に目を向けると、そこには優雅な飾り文字で名前が刻まれていた。
「ノア……」
その後に続くはずの名前は、硬い何かで激しく叩かれたように無惨に潰されていた。銀の地金が歪み、何が書かれていたのか、一見して判別することは不可能だ。
「十五年前。鉄鎖巷の吹き溜まりのような路地裏で泣き叫んでいた赤ん坊を拾ったのは、私とエレナ、そしてフェリンさんの三人だった。……冷たい雨の中、君はこのペンダントだけを握りしめて、今にも消えそうな声で泣いていたんだ」
エレナおばさんが、当時の光景を思い出すように切ない声で言葉を継いだ。
「あんなに綺麗な服を着て、こんな高価な品を持った子がなぜあんな場所に捨てられていたのか……私たちには見当もつかなかった。ただ一つ分かったのは、その子の出自が、この西方都市にあるどんなものよりも重すぎるということだけ」
ヴァンスおじさんが、ペンダントの潰された文字を指先でなぞった。
「私はね、ノア。君を拾ってから数ヶ月後、どうしてもこの手がかりが気になり、ペンダントを白燈街にいる腕利きの鑑定士まで持ち込んだ。鑑定士は、歪んだ地金の角度や、わずかに残った筆跡の癖を数年がかりで分析してくれた。……昔、君が盗み聞きしていたのは、そのしばらく後に設けた一時的な報告の場だった」
心臓がドクンと跳ねた。あの時、母さんとカナヴェルおじさんたちが秘密裏に話していた、あの会話。
「さらに数年後、鑑定士は言った。この紋章、そして潰された文字の隙間から読み取れる家系の名は……唯一つ。中央都市の御三家、政治と裁定を司る――ヴァルトリアだ」
部屋の中に、重く、冷たく、言葉が落ちた。
逃れようのない目の前にある事実。
「……ノア・ヴァルトリア。それが、このペンダントに刻まれていた、君の真の名前だ」
僕は、差し出されたペンダントを、震える手で受け取った。
ひんやりとした金属の感触。指先から、かつての記憶の欠片に触れた時のような、あの嫌な熱が伝わってくる。
「……ふざけないでくれ」
僕は掠れた声で言った。
「ヴァルトリア? 伝承だと、人の明日を奪い、永遠を生きるバケモノなんだろ? そんな名前に、なんで僕の名が刻まれているっていうんだ……」
「ノア、聞いて」
母さんが僕の手を強く握りしめた。
「ヴァンスさんからその名前を聞いた時、私たちは考えたの。もし、中央の争いに巻き込まれて捨てられたのだとしたら、あなたの生存が知られれば、必ずまた命を狙われる。……だから誓ったの。ヴァンスさんとエレナさん、そして私の三人で、この秘密を墓まで持っていこうって」
「君を、ヴァルトリアの後継者としてではなく、ただのノアとして育てること。それが、鉄鎖巷で見つかった小さな命を、この汚い街の片隅で守り抜く唯一の方法だと思ったんだ」
ヴァンスおじさんの声には、友人を、そして息子同然に育った少年を守り抜こうとしてきた男の自負と、悲しみが混じっていた。
「……イリスも、知らないのか?」
「ああ。娘には一言も漏らしていない。君たちが仲良く育つ姿を見ながら、私たちはいつかこの秘密が暴かれる日を、心のどこかで恐れていた」
僕は、黄金の瞳をした少女――フィナを見た。
彼女は、壁に背を預けたまま、まるで彫像のように動かなかった。だが、その瞳からは、隠しきれない真実への渇望と、再会への歓喜が静かに溢れ出していた。
「……フィナ。君は、知っていたのか? 僕が、その名前を持っていることを」
フィナは、ゆっくりと歩み寄ってきた。
母さんの横を通り過ぎ、僕のベッドの横で立ち止まる。
「……確信はありませんでした。ただ、お母様から聞かされていたのです。兄上は生きて、下界へと逃がされたはずだと。……私は、あなたに会うためだけに西方に降りてきました。そして、偶然にもあの焔牙層で出会い、その魂の輝きに触れた時、私は悟ったのです」
彼女は、僕の手の中にあるペンダントに、自分の細い指を重ねた。
「そのペンダントは、私が持っているものと対になるものです。……お兄様。あなたは、私が十五年もの間、焦がれ続けた……ヴァルトリア家の正統なる後継者。私の、たった一人の、肉親です」
一瞬、その言葉を飲み込むような沈黙。
「……認めない」
僕は、重ねられた彼女の手を力任せに振り払った。
ベッドから身を乗り出し、激しい拒絶を持って彼女を、そして母さんたちを睨みつけた。
「そんな事実は認めない! 僕はヴァルトリアの血を継いでなんかいない……中央の貴族でも裁定者でもない! 僕は母さんの作ったごはんを食べて、イリスと笑い合って、この鉄鎖巷で生きてきたノアなんだ!!」
叫んだ拍子に、激しい咳き込みが僕を襲う。
喉の奥から鉄の味が広がり、胸の奥が焼けるように痛む。
それでも、僕は止まらなかった。
「……くッ、鑑定結果がどうした! 名前がどうした! そんな血筋のせいで……そんな名前のせいでフィナは血を流して、イリスは操られて、母さんは泣きそうになってるんじゃないか! そんなものが本当の自分だなんて、認められるわけないだろッ!!」
握りしめていたペンダントを、僕は床に叩きつけた。
乾いた音を立てて転がる白銀の輝き。
皮肉にも、銀製のペンダントは傷一つ受け付けなかった。
母さん――フェリンは、何も言わずに僕を抱きしめた。
「……ごめんなさい、ノア。本当のことなんて、一生言わずに済めばよかった。あなたが、ただのノアとして、ここで幸せに暮らしていければ、それでよかったのに」
母さんの胸の中で、僕は子供のように嗚咽を漏らした。
ヴァンスおじさんとエレナおばさんも、言葉を失って立ち尽くしていた。
フィナだけが、床に転がったペンダントを、祈るような、あるいは絶望に耐えるような瞳で見つめていた。
僕は、認めなかった。
自分が何者であるか。
どんな宿命を背負っているのか。
そんなもの、知らなければよかった。
混乱と拒絶の渦の中、僕は再び襲ってきた深い疲労感に身を任せようとした。
だが、その時。
不意に、スッと部屋の温度が一段階下がったような、ひやりとした感覚がその場にいる人の首筋を撫でた。
「……暗いな」
ヴァンスおじさんが、不思議そうに呟きながら、東方面の窓へと歩み寄った。
「今は早朝のはずだろう? ……なぜ、太陽が出ていないんだ」
彼の言葉に、僕は重い顔を上げた。
窓の外。いつもなら、工場の煙越しに白々しい朝日が差し込み、鉄鎖巷を鈍い金色に染める時間のはずだ。
だが、そこにあるのは、どんよりとした夜と朝の境界を塗り潰したような、不気味な薄暗闇だった。
雲か。
いや、雲にしてはその影はあまりにも濃く、あまりにも巨大だった。
僕たちの個人的な葛藤や、過去の真実などというちっぽけな問題を、一瞬で無に帰してしまうような。
そんな圧倒的な絶望の足音が、失われた陽光の代わりに静かに街を侵食し始めていた。




