第一章11話「本当の空」
「……おい、あれは……なんだ?」
東方面の窓に張り付いていたヴァンスおじさんが、信じられないものを見るように声を震わせた。
鉄鎖巷を束ねる責任者として、普段ならどんなトラブルにも冷静に対処し、住民たちを導いてきたはずの彼の声が、ひどく上擦り、掠れている。
僕はベッドから這い出し、重い体を引きずって窓際へと向かった。
最初は季節外れの厚い雨雲か、あるいは工場区画で大規模な事故でも起きて大量の黒煙が噴き出しているのかと思った。
しかし、目を凝らしてよく見れば、それは雲や煙などという曖昧で不定形なものではないことがすぐに分かった。
遥か上空。本来なら見上げるだけの青空があるはずの場所に、鋭く描かれた直線と滑らかな曲線で構成された、あまりにも巨大で無機質な何かが蓋をするように張り出していたのだ。
それは、ただの飛行船などというスケールではない。西方都市の全景すら覆い隠すほどの、規格外の巨大な構造物。
「何よ……空から、何か降ってきているわ……!」
僕の後ろから窓の外を覗き込んだエレナおばさんが、口元を両手で押さえ、恐怖に顔を引きつらせた。
あんなものが、どうして空に浮かんでいるんだ。
いや、浮かんでいるんじゃない。少しずつ、だが確実に、その巨大な影は僕たちの頭上へと近づいてきていた。
空を覆う巨大なそれは、複雑なパイプラインのようなものや、かつては美しかったであろう彫刻の残骸のようなものが張り付いているのが、薄暗い中でもはっきりと見て取れる。
それは、ただそこにあるだけで、地上に生きる僕たちの生存本能を根底からへし折るような、圧倒的な質量の暴力だった。
「……楽園都市、オルビタス=Ø」
僕のすぐ隣で、フィナがぽつりと呟いた。
彼女の黄金の瞳には、かつて自分が生きていた場所の末路を見るような、ひどく静かな悲哀が浮かんでいた。
「まさか、完全に底が抜けるのがこれほど早いとは……。もう、あの中央ですら、世界を支えるだけの力は残っていなかったのですね。……いや、もしかして意図的に……?」
彼女の呟きが意味することを僕の脳が理解するよりも早く、世界が悲鳴を上げた。
――ギギギィィィッ……!!
およそ生物の耳では処理しきれないほどの巨大な摩擦音が、天から降り注いだ。
それは、世界を支えていた見えない巨大な柱がへし折られ、分厚いガラスの天井が悲鳴を上げながら歪んでいくような、不快で暴力的な音だった。窓ガラスがその音波だけでビリビリと震え、部屋の空気が微細に振動する。
「きゃああっ!」
隣の部屋で眠っていたはずのイリスが、悲鳴を上げて仮設の居間へと飛び出してきた。
その顔は恐怖で完全に蒼白に染まり、震える両手で耳を塞いでいる。
「な、なに!? パパ、ママ! 外から変な音が……っ」
「イリス、こっちへ来なさい!」
エレナおばさんが駆け寄り、震えるイリスの体を強く抱きしめた。
「大丈夫よ、大丈夫だから……!」
必死に娘を宥めるエレナおばさんの声も、上空から降り注ぐ不気味な軋み音にかき消されそうになっていた。イリスの華奢な体が、エレナおばさんの腕の中でガタガタと震えているのが分かる。
つい先日まで、一緒に宝探しをして笑い合っていた幼馴染の姿。
三日前、あんなにも無邪気に夢を語っていた僕たちは、今、得体の知れない恐怖に怯えきっている。
僕が守りたいと願い、愛した日常の象徴とも言える彼女が泣いているのに、僕はただ突っ立って、空を見上げることしかできなかった。
逃げなければならないと頭では分かっている。
けれど、そのあまりにも巨大な絶望を前にして、足が完全にすくんでしまっていたのだ。
僕という人間がヴァルトリアの血を引いていようといまいと、母さんが十五年間優しい嘘をついて僕を庇ってくれていようといまいと、そんなことはもうどうでもよかった。
あの空が落ちてくれば、そんな個人の事情や葛藤など、まとめて押し潰されて無に還るのだから。
――ドゴォォォォンッ!!!
直後、空を覆っていた巨大な天蓋の底面に、蜘蛛の巣のような黒い亀裂が縦横無尽に走った。
そこから、眩いほどの閃光と、どす黒い炎が火山のように噴き出す。
空が割れたのだ。
雲間から次々と降り注ぐ街の残骸や炎の数々。
「落ちて……くる……!」
ヴァンスおじさんが、絶望に満ちた声で呟いた。
その言葉を合図にしたかのように、天蓋の一部がガコッと完全に剥がれ落ちた。
それは、見上げるほど巨大な純白の大理石の塊だった。
空に浮かぶ都市の、ほんの一部の破片に過ぎないのだろう。だが、それが重力に従って地上へと落下してきた時の破壊力は、想像を絶するものだった。
大気を引き裂く轟音が響き、真っ赤な摩擦熱を帯びた純白の巨岩が、隕石のように僕たちの街へと向かって落ちてくる。
――ズドォォォンッ!!
鉄鎖巷の北側。いつも僕たちが廃品を拾いに行っていた、あの油と鉄の匂いが染み付いたスクラップの山のあたりに、その巨大な純白の破片が突き刺さった。
凄まじい地鳴りが起きた。
大地がトランポリンのように跳ね上がり、立っていることなど不可能なほどの揺れが家全体を襲う。
間髪入れずに、爆発的な衝撃波が僕たちの家を激しく揺さぶった。
「きゃああぁぁッ!!」
「伏せろ!!」
バリンッ! という鋭い音と共に、僕の目の前にある東の窓ガラスが粉々に砕け散った。
ヴァンスおじさんの叫び声に従い、僕は無我夢中で床に身を伏せる。
吹き込んできた爆風には、土埃だけでなく、何かが焼け焦げたようなひどい熱気と、鉄の溶けるような強烈な匂いが混じっていた。
「ゲホッ、ゴホッ……! 母さん、無事か!?」
「ええ、私は大丈夫! ノアは!?」
「僕も平気だ……!」
床に這いつくばりながら、僕は周囲の無事を確認した。
フィナは咄嗟に光の結界を薄く展開したのか、飛散したガラスの破片を弾き落とし、涼しい顔で膝をついている。ヴァンスおじさんとエレナおばさんも、イリスを庇うようにして床に伏せていた。
だが、この家はもう限界だった。
元々廃材を継ぎ接ぎして作ったような粗末な二階建ての家だ。さっきの衝撃波で壁には巨大なヒビが入り、天井を支える鉄骨が嫌な音を立てて軋んでいる。パラパラと天井から木屑や埃が落ちてきていた。
「ダメだ、ここは持たない! フェリンさん、ノア、フィナ君! 全員外へ出ろ!! 東の第三ブロック地下にある避難所へ向かうぞ!」
ヴァンスおじさんが、瓦礫の粉を払いながら立ち上がり、鋭く叫んだ。
鉄鎖巷の管理者としての顔つきに戻った彼の声には、有無を言わせない説得力があった。
「でも、外は空からあんなものが……!」
「ここにいても家ごと潰されるだけだ! 走れ!!」
考えている余裕なんてなかった。
僕たちは無我夢中で立ち上がり、軋んで歪んだ玄関のドアを力任せに蹴り開けて外へと飛び出した。
一歩外へ出た瞬間、僕の視界に飛び込んできたのは言葉を失うほどの地獄だった。
「誰か、誰か助けてくれぇっ!!」
「嫌、嫌だぁぁっ! 死にたくないっ!」
「助けてママ! パパ!」
煤けたオレンジ色に染まった通りには、逃げ惑う人々の叫び声と、パニックに陥って泣き叫ぶ子供たちの声が満ちていた。
空からは、最初の破片に続くように、純白の大理石や、見たこともない壮麗な彫刻が施された巨大な瓦礫が、燃え盛る火の粉を纏いながら雨のように降り注いでいた。
――ドドォォン! ガシャンッ!!
僕の目の前で、母さんがよく買い物をしていた古ぼけた市場の屋根が、空から落ちてきた巨大な鉄柱によって一瞬で粉砕された。
いつも顔を合わせれば野菜の値段をまけてくれたおばちゃんの店が、肉を焼く香ばしい匂いが漂っていた屋台が、無慈悲な大理石の塊によって平らに押し潰される。
――ズガンッ!!
今度は、僕が幼い頃によくよじ登って遊んでいた鉄塔が、斜めに落ちてきた建物の破片によってへし折られた。
倒れた鉄塔が周囲の粗末な住居を巻き込み、巨大な土埃と悲鳴を上げる。
昨日までそこにあった人々の営みが、笑顔が、生活が、何の慈悲もなく、ただの物理的な質量によってすり潰されていく。
ここは、僕が生まれ育った街だ。
汚くて、空気が淀んでいて、それでも、僕にとっては世界の全てだった場所。
それがあまりにもあっけなく、空から降ってきたかつての楽園の残骸によって蹂躙されていく。
「ノア、早く!!」
立ち尽くしていた僕の腕を、母さんが強く引いた。
僕はハッと我に返って走り出した。
先頭をヴァンスおじさんが走り、エレナおばさんとイリス、そして僕と母さん、最後尾をフィナが走る。
周囲には、僕たちと同じように避難所へと向かって走る住人たちがひしめき合っていた。
互いに肩をぶつけ合い、転んだ者を踏み越えそうになりながら、ただ前へ前へと進む。
だが、その頭上から容赦なく巨大な残骸が降り注ぐ。
「ぎゃあぁっ!!」
少し前を走っていた男の頭上に、軽自動車ほどの大きさの破片が直撃した。
鈍い音と、飛び散る赤い飛沫。
悲鳴を上げる間すらなかった。人間の体が、あんなにも簡単に潰れてしまうという現実に、僕は胃液がせり上がってくるのを感じた。
「ひっ……いや、いやぁっ!」
「イリス、前を見て走りなさい! 立ち止まっちゃダメ!」
隣で泣き叫ぶイリスの手を、エレナおばさんが必死に引いている。
あぁ、終わるんだ。
僕は走りながら、落ちてくる無機質に白で埋め尽くされた空を見上げた。
僕の愛した、煤まみれで温かかったこの日常が、今完全に終わろうとしている。
僕がヴァルトリアの血を引いていようが関係ない。
鑑定士の言葉も、ペンダントに隠された秘密も、もはや何の意味も持たない。
どれだけ拒絶しようと、どれだけ目を背けようと、この圧倒的な暴力の前では、僕のささやかな願いなど一瞬で塵に還るのだ。
ただの廃品漁りとして生きたかった。イリスと一緒にガラクタを集め、母さんの作った薄味のスープを飲んで、笑い合いたかった。
……そんなささやかな日常すら、この世界は許してくれないのか。
「もう少しだ! あの角を曲がれば、避難所の入り口が――」
先頭を走るヴァンスおじさんが前方を指さし、張り裂けそうな声で叫んだ。
その言葉の通り、煤けた建物の合間に、地下へと続く頑丈な鉄扉が見え隠れしていた。
入り口の前には、パニックになった住民たちが殺到していた。
あそこに入れれば、少なくとも空からの瓦礫は防げる。ここから数メートル。ほんの数十歩の距離だ。
助かる。誰も失わずに済む。
ヴァンスおじさんが管理者としての腕章を掲げ、怒号を上げながら道を切り拓く。
「カナヴェルだ! 道を開けてくれ!!」
その威厳に押され、人混みの中からわずかに道が切り開かれた。
ヴァンスおじさんはエレナおばさんの背を押し、続いて母さんを入り口へと押し込んだ。
「さあ、早く中へ! ノア、イリス、フィナ君、続いて!!」
あと数センチ先。
僕の手が、ヴァンスおじさんの指先に触れようとした、その刹那だった。
――ゴオォォォォォォォッ!!
鼓膜が破裂するかと思うほどの、高周波の摩擦音が頭上から降り注いだ。
本能が、死を予感して全身の毛を逆立たせる。
「……ッ、二人とも下がってください!!」
最後尾にいたフィナが悲痛な叫びを上げ、僕とイリスの動きを止めるべく大きく声を上げる。
空を覆う天蓋から、先ほどの破片とは比べ物にならないほど巨大な――あのビジョンで僕が視た純白の塔に似たものの一部が、真っ直ぐに、僕たちのいる場所へと向かって落下してきていた。
――ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!!
衝撃波が、世界の形を歪めた。
凄まじい閃光と共に爆発的なエネルギーが解放される。
僕は咄嗟にイリスとフィナを庇うような態勢をとった。
すぐに突き飛ばされたような衝撃を受け、そのまま数メートル先まで背後へ吹き飛ばされた。
砂埃と熱風、そして耳鳴りがしていることにも遅れて気づく。
視界が真っ白に染まり、その瞬間、自分が今立っているのか、どこにいるのかすら分からなくなった。
「……ぁ、カハッ……!」
肺から無理やり空気が絞り出され、喉の奥が熱い。
僕は震える腕で瓦礫を押し退け、顔を上げた。
「母……さん……?」
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
そして、その先にあった光景に、僕は絶望した。
「……そんな」
避難所の入り口があった場所は、巨大な純白の大理石によって完全に圧し潰されていた。
頑丈だったはずの鉄扉は、歪んだ瓦礫の山の下に埋もれ、見る影もない。
入り口を塞いだのは、ただの岩ではない。それ自体が数階建てのビルほどもある、空の街の残骸だ。
「ヴァンスおじさん! 母さん!! 誰か、返事をしてくれ!!」
僕は狂ったように瓦礫に駆け寄り、素手で岩を叩いた。
だが、人間の指先がどれほど血に塗れようと、その瓦礫はびくともしなかった。
壁一枚隔てた向こう側にいるはずの母さんたちの声は一切聞こえない。
爆音が去った今、火の粉の舞った静寂が世界を支配する。
「無駄です……ノア」
いつの間にか僕の隣に立っていたフィナが、僕の肩に手を置いた。彼女の頬には切り傷があり、そこから一筋の血が流れている。
「今の崩落で、この区画の避難路は完全に遮断されました。人力でこじ開けるのは……不可能です」
「そんなこと、あるかよ……っ! この中に、三人とも……!」
「ノア、落ち着いて!」
イリスが僕の服の裾を掴み、泣きじゃくりながら叫んだ。
「もう一区画先にも別の入り口があるってパパが言ってた! あそこなら繋がってるかもしれない!」
イリスの指さす先、炎に包まれた街のさらに奥。
確かに、そこにもう一つの避難経路があることを僕は知っていた。
「……そう、だよな」
一度だけ背後に立ちふさがる白い瓦礫を振り返り、僕は拳を血が滲むほど固く握りしめた。
「行こう……ッ」
僕たちは再び走り出した。
猛火と降り注ぐ瓦礫の雨。その中で孤立した三人の影は、崩壊していく西方都市の荒野へと消えていった。
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その頃、西方都市を包囲する巨大な外壁のさらに外側。
汚染された大気が渦巻く高台の上に、二つの人影が悠然と佇んでいた。
地上の阿鼻叫喚を、まるで神の視点から眺めるような冷徹な静寂。
「……まったく、そこまでやりますか。セリグラードの連中も、加減というものを知らない」
銀髪のロングヘアを風に揺らし、暗殺者・セラヴィスが忌々しげに吐き捨てた。
彼女の赤い瞳には、夕陽のように赤く染まった西方都市の崩壊劇が、克明に映し出されている。
「空を支える理が崩れたのです。彼らも必死なのでしょう」
隣で静かに答えたのは、ヴァルトリアの騎士・ローヴェルだった。
彼は腕を組み、純白の大理石が地上を蹂躙していく様を、無機質な青い瞳で見つめている。
「しかし、あの小娘――フィナお嬢様は、まだあの中にいらっしゃる」
「ええ。ですが、ご安心を。彼女が焔牙層で連れていたあの少年……彼が目覚めている。末裔としての力があの欠片によって呼び覚まされたようです」
セラヴィスは懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、そこに浮かび上がる座標を確認した。
「お嬢様と共にいる、あのもう一人の少女……イリスと言いましたか。あれにはセリグラードの印が刻まれていました。当初は警戒対象としていましたが……」
セラヴィスは、数日前の出来事を思い返した。
焔牙層の混乱の中でフィナと離れて一人で彷徨っていたイリスを、二人は陰から捕捉していたのだ。
その時、彼女の腕に刻まれた呪印を見つけ、即座に処理すべき敵の道具として認識したが――。
「あの時の少女ですか。……あれはひどい有様でしたね」
ローヴェルが、ふっと口元を緩めた。
「服は泥まみれ、髪は鉄屑に絡まってボロボロ。ヴァルトリアの裁定者様に引き合わせるとなると、あまりにも見苦しかったですね」
「ええ。だからこそ、私が少しばかり整えてあげただけのこと。ヴァルトリアの騎士が同行する者に汚らわしい身なりは許されませんから」
当初、イリス本人は自分が誰に整えられたのかも、その瞬間に何が起きたのかも記憶にない。だが、彼女の服や髪がはぐれる前よりも綺麗になっていたのは、このものたちの気まぐれによるものだった。
「セラヴィス。お嬢様はまだ力が完全に戻っていらっしゃらない。あの中央の刺客を退けた代償は大きいようだ。……手助けをすべきではないか?」
ローヴェルの提案にセラヴィスは赤い瞳を細め、しばらくの間、崩落する街を黙って見つめていた。
やがて彼女は身に纏ったコートを翻し、一歩前へと踏み出した。
「……仕方ありませんね。お嬢様を無様に見捨てるなど、教育係の名が廃ります」
セラヴィスは、しぶしぶといった様子でローヴェルの提案を呑んだ。
だが、その瞳の奥には、かつて自分が教え込んだ少女への複雑な愛着の気持ちが滲んでいた。
「行きましょう、ローヴェル。……裁定者様の鍵を拾いに」
二人の姿が、一瞬にして風の中に溶けるように掻き消えた。
それは、地上の住人たちには決して到達できない、圧倒的な速さだった。
崩れゆく西方都市。
その最東端へ向かって、二つの影が白銀を纏って駆け出した。
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肺が焼ける。喉の奥にへばりついた煤煙と砂塵が、呼吸のたびに喉をヤスリで削るように痛めつけていた。
瓦礫の山を越え、崩落した建造物の合間を縫うようにして僕たちは走り続けた。
だが、どれほど足を動かしても、周囲の景色に変化はなかった。
右を見ても左を見ても、そこにあるのは無残に粉砕された鉄とコンクリートの残骸だけだ。かつてこの場所には誰が住み、どんな日常があったのか。それを想像することすら不可能なほど、都市は徹底的に破壊されていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
隣を走るイリスの呼吸が、いつ止まってもおかしくないほどに乱れている。
彼女の細い手首を掴み、僕はただ機械的に足を動かす。
避難所はもう一区画先にあるはずだ。ヴァンスおじさんが言っていたもう一つの入り口。そこへ行けば、もしかしたら瓦礫の向こう側に消えた母さんたちに会えるかもしれない。
だが、ふと顔を上げた視界の先。
その先にあるはずだった建物は、空から降ってきた巨大な大理石の破片によって、文字通り更地にされていた。
避難所の入り口があったはずの場所には、巨大なクレーターが穿たれ、そこからどす黒い炎と煙が噴き出している。
――無駄だ。
どこへ行っても、もう逃げ場なんてない。
僕が愛したこの街は、逃げるべき道も、守るべき場所も、すべて空から落ちてくるかつての楽園だったものによって塗り潰されてしまったのだ。
思考が白く濁っていく。希望という名の細い糸が、プツンと音を立てて切れるのを感じた。
その時だった。
――ドォォォォォンッ!!!!!
すぐ近くで、これまでとは比べ物にならないほど巨大な爆発が起こった。
爆風に煽られて僕の体は紙切れのように地面へと叩きつけられる。
頭の中で、キーンという高い耳鳴りが鳴り響く。
揺れる視界。舞い上がる火の粉。
僕は倒れたまま動くことができないでいた。
ただ、天を仰ぐようにして空を見上げることしかできなかった。
そこには、遥か上空で崩壊し、落ちてきた都の姿があった。
誰もが存在すら忘れかけていた楽園都市。
燃え盛る空、響き渡る叫び。
西方都市に残された人々は、楽園都市の崩壊が何を意味するのかをまだ知らない。
「……ノア?」
「ノア、足が止まって……」
僕は、空を見上げた。
街がそのまま空から落ちてきているんだ、こんなことは前代未聞だ。
落ちゆく街並みを、まるで他人事かのように凝視し続ける。
燃え盛る大気の中を、巨大な塔が、神殿が、大理石の広場が、ゆっくりと、けれど確実に僕たちを圧し潰そうと降りてくる。
「ねえ、ノア……!」
震える声に、僕はハッとして視線を落とした。
イリスが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕の服の裾をぎゅっと掴んでいた。
彼女は僕の体を勢いよく揺らしながら、必死に僕の名を呼んでいる。
何をそんなに焦っているというのか。
今はもう、何をしても意味がないというのに。
ゆっくりと、世界の音が帰ってくる。
爆音と悲鳴が混ざり合う、終焉の音色。
僕は、フィナへと力なく声を掛けた。
「フィナ、僕もう何が何だか、分からなくなってきたよ」
黄金色の瞳が、炎の照り返しを受けて悲しげに揺れている。
「……私は――」
フィナが何かを言いかけた、その時だった。
彼女の言葉を遮るように、突然、目の前に男女の二人組が現れた。
それは、この地獄絵図のような光景の中では、あまりにも異質な存在だった。
瓦礫の雨も、立ち込める煙も、彼らの周囲だけは避けて通っているかのように静止している。
汚れ一つない、中央の様式を思わせる洗練された装い。
一人は表情が固く、寡黙で少し圧のある男性だった。
銀髪の刈り上げヘアを短く整え、冷徹な青い瞳が僕たちを射すくめている。簡易的な鎧を着用しており、隣の女性を護衛する騎士であることは一目で分かった。
そしてもう一人は、凛々しく整った顔立ちの女性だった。
長い銀髪を後ろでまとめ、赤い瞳には感情の一切が読み取れない。騎士の男性とはまた違った、刺されるような冷たい圧を放っていた。
「こんな所にいらっしゃったのですね」
女性の声が、涼やかに響く。
「……っ」
その視線がフィナを捉えた瞬間、フィナの体が微かに震えた。
僕は、自分の体がボロボロであることも忘れ、明らかに動揺したフィナを背後へと隠すように移動させて少し前に出た。
彼女がヴァルトリアの人間であろうとなかろうと、僕にとっては命を救ってくれた恩人であり、そして……先ほど、僕にお兄様と縋り付いてきた、不器用な少女なのだから。
「……誰だよ、お前ら。……ん、イリス?」
精一杯の虚勢を張って、僕は目の前の死神たちを睨みつけた。それに、振り返るとイリスの姿がいつの間にか消えていることに気づいた。
しかし、今目の前に立ちふさがるこの二人から目をそらすことはできなかった。
「……ほう」
僕の虚勢に、騎士の男が僅かに眉を動かした。
だが、そこに僕への敬意はなく、路傍の石ころが動いた程度の関心でしかない。
「お友達ですか? お嬢様、そろそろお時間ですのでこちらへ」
銀髪の女性――フィナからセラヴィスと呼ばれたこの女性は、関心する男性を気にした様子もなくずかずかと僕たちのもとへと踏み込みながら問いかけてきた。
「そ、そっちから名乗るのが礼儀ってものじゃ――」
僕は震える声を絞り出し、彼女を制止しようとした。
だが。
「セラヴィス、やめて!」
背後でフィナの悲痛な叫び声が響いた瞬間。
目の前にいたはずの女性が、音もなく掻き消えたと思ったら、どこかから鈍い音が聞こえて、僕は意識の中へと誘われた。
少し勇気を出して踏み出したものの、一瞬でそれを無へと帰えられたのだった。
首筋に受けた見えない一撃が、僕の脳のスイッチを強制的に切断する。
地面へと崩れ落ちていく感覚すら曖昧になり、僕の視界は完全な暗黒へと落ちていった。
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――ア。
何か聞こえる、段々と遠くなる声。
深い、冷たい水底へと沈んでいくような感覚の中で、呼びかけが木霊する。
――ノア。
なんだ? 一体、誰が、僕の事を……。
――ノア……お兄ちゃん。
誰、なんだ?
西方都市で幼馴染のイリスと共に育ち、母さんと僕の二人だけで生きてきたんだ。
フィナが僕を呼ぶ声は、こんなに幼くはなかったはずだ。
――ノア、私の可愛い子。
母さん? ……違う、知らない声だ。
母さんの声じゃない。もっと高貴で、悲しみに満ちた、でも確かに僕を愛してくれていた誰かの声。
――忘れないでください。
いや、僕はこの人を、知っている。
あの記憶の欠片に触れた時から、ずっと胸の奥底に引っかかっていた、絶対的な喪失感の正体。
漆黒の暗闇の中で、眩いほどの黄金が揺れた。
そして、悲痛なまでの願いを込めた言葉が、僕の魂に直接刻み込まれる。
あなたは、ヴァルトリアの栄光を取り戻す、鍵なのですから――。
その言葉を最後に、僕の意識は完全に暗闇の中へと消えていった。
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冷たい風が、僕の頬を撫でた。
それは、煤煙と油の匂いが染み付いた、いつもの鉄鎖巷の風ではなかった。
もっと無機質でひどく乾いていて、何の匂いも持たないどこか遠くから吹き抜けてくるような空虚な風だった。
「……う、あ……」
乾ききった喉から、ひび割れたような声が漏れる。
重い鉛でできているかのようなまぶたを、時間をかけてゆっくりと押し上げた。
最初に視界に飛び込んできたのは、どんよりと濁った灰色の空だった。つい先ほどまで僕たちの頭上を覆い尽くし、絶望的なまでの轟音を上げ崩落していた楽園都市の巨大な影は、もうそこにはない。
代わりに、空からは灰のような細かな塵が、雪のように静かに、果てしなく舞い落ちていた。
僕は軋む体に鞭を打って、ゆっくりと上半身を起こした。
首筋に鋭い痛みが走る。あの銀髪の女性――セラヴィスに打ち据えられた場所だ。
記憶が、濁流のように脳裏に蘇ってくる。
崩壊する街。空から降り注ぐ純白の建造物。爆発によって塞がれた避難所の入り口。瓦礫の向こう側に消えた母さんたち。泣き叫ぶイリス。
「母、さん……! イリス!」
僕は弾かれたように立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、そのまま無様に瓦礫の上へと転がった。
手のひらに、鋭い痛みが走る。見れば、僕が手をついた場所には、美しい彫刻が施された大理石の破片が転がっていた。
「いてッ、ここは……どこだ……?」
顔を上げた僕は、目の前に広がる光景に息を呑み、完全に言葉を失った。
何もない。
本当に、何一つとして、残っていなかった。
僕が倒れていたのは、少し小高い瓦礫の山の上だった。そこから見渡す限りの世界が、ただの更地と化していたのだ。
密集していた粗末なバラック小屋も、空気を汚していた巨大な工場の煙突も、迷路のように入り組んでいた路地裏も。そのすべてが、空から落ちてきた圧倒的な質量によってミキサーにかけられたように粉砕され、平らな荒野へと変貌している。
遠くの方角を見て、僕はようやく自分がどこにいるのかを理解した。
ひしゃげた巨大な鉄柱の残骸。それは、あの日の朝、イリスと共に白燈街へと向かうために潜り抜けた、あの巨大なターミナルゲートの成れの果てだった。
つまりここは、西方都市の最東端だ。
普段なら、ここから西を見渡せば、地平線が見えないほどに建物が密集し、人々の生活の熱気が渦巻いていたはずだ。
しかし今は、ただ果てしなく続く瓦礫の地平線が、灰色の空と交わっているだけだった。
「嘘、だろ……」
震える声が、誰の耳にも届くことなく冷たい風に掻き消されていく。
生存者の姿はどこにも見当たらなかった。
悲鳴も、泣き声も、助けを呼ぶ声すら聞こえない。あまりにも広大な破壊の痕跡だけがそこにあり、まるで、今この世界には自分しか存在していないのではないかという、狂ってしまいそうなほどの孤独感が僕を襲った。
『――あなたは、ヴァルトリアの栄光を取り戻す、鍵なのですから。』
不意に、意識を失う直前に脳裏に響いたあの声が、鮮明に蘇ってきた。
「……鍵、だと?」
僕は、血の滲んだ両手を見つめながら、ひどく乾いた声で呟いた。
「ハハッ、ふざけるなよ……。栄光を取り戻す? これがか? この地獄が、お前たちの言う栄光だって言うのか……!」
誰もいない荒野に向かって、僕は自嘲気味に叫んだ。
僕がそのヴァルトリアという呪われた血を引いているせいで、母さんたちは十五年間も嘘をつき続け、イリスは危険に巻き込まれ、そして今、僕の日常は跡形もなく消え去ってしまった。
そんなふざけた一族の栄光のために、僕が鍵になるなどと、誰が認めるものか。
「……随分と、威勢がいいですね」
突然、背後から冷ややかな声が鼓膜を打った。
「ッ!」
僕は弾かれたように振り返り、足元の鉄パイプを咄嗟に拾い上げて構えた。
そこには、三つの影が立っていた。
一人は、黄金の髪を煤で汚した少女――フィナ。
一人は、無機質な青い瞳で僕を見下ろす男騎士――名前はまだ知らない。
そしてもう一人が、先ほど僕の意識を刈り取った張本人である女性――セラヴィスだった。
「お前ら……!」
僕は歯を剥き出しにし、セラヴィスに向かって鉄パイプの先端を向けた。
だが、彼女は僕の敵意などそよ風程度にしか感じていないように、微かに鼻で笑っただけだった。
「無駄な抵抗はおやめなさい。今のあなたは、器の底が抜けてただオイルを垂れ流しているだけの、出来損ないのランタンと同じです。私が本気になれば、あなたの瞬き一つ分の時間すら奪わずに、その首を刎ねることができますよ」
セラヴィスは、赤い瞳を細めて僕を品定めするように見つめた。
悔しいが、彼女の言う通りなのだろう。僕の手は情けなく震え、鉄パイプを握る握力すらまともに残っていない。先ほどの不可視の一撃を思えば、彼女の言葉がただのハッタリではないことは、本能が完全に理解していた。
「ノア……無茶をしないでください」
フィナが、心配そうに僕へと歩み寄ってきた。
その両手には、布で包まれた丸い物体と、水筒のようなものが握られている。
「……なんだよ、それ」
「食べ物です。……セラヴィスに手伝ってもらい、崩落を免れた区画の倉庫から少しだけ調達してきました。あなたは三日間まともに食事をとっていなかった。まずは、お腹に何かを入れてください」
フィナは、少し申し訳なさそうに包みを僕の足元へと差し出した。
布の間から見えたのは、少し焦げた黒パンと乾燥した肉の塊だった。今のこの世界においては、金貨一枚よりも価値のある食料だ。
僕の胃袋が、その匂いを嗅ぎ取って痛いほどに収縮した。
「……毒でも入ってるんじゃないのか」
憎まれ口を叩く僕に、フィナは悲しそうに目を伏せた。
だが、隣にいたローヴェルが、呆れたようなため息をついた。
「初めましてになるでしょうか、ローヴェルと申します。まず、我々があなたを殺すつもりなら、わざわざこの安全な最東端まで運んだりしませんよ。それに、毒を盛るまでもない。あなたは今、放置しておけば勝手に死ぬような状態なのですから」
「どういうことだ……」
「セラヴィスが言った通りです」
ローヴェルは瓦礫の山の上に立ち、遥か遠くの灰色の空を見つめながら口を開いた。
「あなたのその力は、長年の封印から強引に解き放たれたことで極めて不安定な状態にあります。今のあなたは、その輝きを隠すこともできず、ただ強大な光を撒き散らしているだけの歩く標的だ。……もしこのまま中央都市の連中に見つかれば、一瞬で消し炭にされるでしょうね」
「中央都市の、連中……?」
「ええ。この世界を支配し、今もなお互いに血みどろの権力闘争を繰り広げている、御三家のことです」
セラヴィスが、ローヴェルの言葉を引き継ぐようにして語り始めた。
彼女の声は、この状況にあってもひどく冷静で、まるで学校の教師が歴史を教えるかのような淡々とした響きがあった。
「政治と裁定を司る『北中央都市』のヴァルトリア家。
信仰と霊術を司る『東中央都市』のセリグラード家。
そして、防衛と軍事を司り、絶対の壁として君臨する『西中央都市』のシュヴァルゼン家。
……先日、あなたの命を狙ってきた刺客は、セリグラードの犬でした。彼らは、ヴァルトリアの正統な後継者であるあなたが生きていると知れば、何度でも、どんな手を使ってでも殺しにくるでしょう。それに今は伏せますが、敵は他にも……」
「……だから、なんだって言うんだ」
僕は、鉄パイプを杖代わりにして、なんとかその場に立ち上がった。
「僕が誰の血を引いていようと、お前たちの権力争いなんて知ったことじゃない。僕には行かなきゃならない場所があるんだ。母さんたちが瓦礫の向こう側で僕を待ってる……探さなきゃならないんだよ!」
僕は三人に背を向け、自分が歩いてきたであろう西の方角へと歩き出そうとした。
しかし。
「この更地を、その血塗れの素手で掘り返すおつもりで?」
セラヴィスの冷たく、残酷な言葉が僕の背中に突き刺さった。
「何年かかるか分かりませんよ。仮に掘り出せたとしても、その時にはすでに息絶えているでしょう。それとも、あの不安定な黄金の力を再び暴走させて、瓦礫ごと彼女たちを消し飛ばすおつもりですか?」
「……ッ、うるさい!!」
僕は振り返り、叫んだ。
「じゃあどうしろって言うんだ! 僕に、母さんたちを見捨てて逃げろって言うのか!!」
「見捨てるのではありません。生き延びるために、今は退くのです」
ローヴェルが、静かに、しかし力強い声で言った。
「あの避難所は、ある程度の崩落には耐えられる構造になっているはずです。彼女たちが無事に中へ入れていれば、いずれ近隣住民の救助隊か、自力での脱出が可能でしょう。……しかし、あなたがここに残れば、あなた自身が死ぬだけでなく、あなたを狙う刺客の巻き添えになって彼女たちを確実に死なせることになります」
その言葉は、僕の感情的な反発を完璧に叩き潰す、あまりにも正論な事実だった。
僕がここにいることが、母さんたち皆を危険に晒す。
力を制御する術がない以上、彼女たちを守ることなど不可能なのだと。
「……じゃあ、どうすればいい」
僕は、唇から血が滲むほど強く噛み締めながら、地面を睨みつけた。
「どうすれば、力が戻るんだ……。どこへ行けば、僕は母さんたちを守れるようになるんだよ」
僕の問いに、セラヴィスとローヴェルは一瞬だけ視線を交わした。
そして、セラヴィスが赤い瞳を僕に向けてはっきりと告げた。
「南方都市です」
「南方、都市……」
「ええ。現在、御三家の刺客は北、東、西の都市に集中しているのを確認できており、南方は彼らの監視網から外れた完全な無法地帯となっています。治安は最悪ですが、中央の刺客から身を隠し、あなたの状態を正常に戻すにはそこしかありません」
無法地帯、南方都市。
幼少の頃から、あの付近には絶対に近寄るなと何度も大人たちに言われてきた、犯罪者とスラムの巣窟。
だが、今の僕にはその最悪の選択肢しか残されていなかった。
僕は、果てしなく続く瓦礫の荒野をもう一度見渡した。
母さん。イリス。ヴァンスおじさん、エレナおばさん。
彼らの無事を確認することは、この有様では絶対に不可能だ。
――生き延びて、強くなるしかない。
母さんが僕を十五年間守ってくれたように。
今度は、僕が彼女たちを守れるだけの絶対的な力と、あの理不尽な中央の連中を裁くための真の黄金の力を手に入れるために。
「……分かった」
僕は、手に持っていた鉄パイプを、音を立てて瓦礫の上へと放り投げた。
「行くよ。南方都市へ」
僕の決意を聞いて、ローヴェルは短く頷き、セラヴィスは「賢明な判断ですね」とだけ言った。
「ノア……!」
フィナが、自分のことのように安堵の表情を浮かべ、僕に一歩近づいてきた。
その顔は、冷徹なヴァルトリアの処刑人としての仮面などどこにもない、ただ僕を純粋に心配し、慕ってくれる一人の少女の顔だった。
思えば、彼女もまた、この理不尽な世界で十五年間、僕という存在しないかもしれない兄を探し続けて、たった一人で戦ってきたのだ。
僕を助けるために、あの刺客の呪波を自らの体で受け止めてまで。
僕は、差し出されたパンと水筒を受け取ると、わざとぶっきらぼうな声で言った。
「……それとさ。フィナ」
「は、はい」
「仕方ないからさ、その……認めてやるよ。……お前が、一応、僕の妹だってことはさ」
僕のその言葉を聞いた瞬間。
フィナは、まるで時間が止まったかのように目を丸くして固まった。
黄金の瞳が、信じられないものを見るように数回瞬きをする。
そして次の瞬間、彼女の白い頬がパァッと明るく染まり、その顔に、今まで見たこともないような、年相応の、花が咲いたような眩しい笑顔が浮かんだ。
「……はいっ……! はい、お兄様っ!!」
彼女の目からは、嬉し涙のようなものがポロポロと溢れ落ちていた。
そのあまりにも真っ直ぐで、大袈裟な喜びに、僕は思わず毒気を抜かれ、ため息をつきながらも、少しだけ口角が上がってしまうのを隠せなかった。
「やれやれ。先が思いやられますね」
セラヴィスが、呆れたように肩をすくめる。
「さあ、ではさっそく出発しましょうか。もたもたしている暇はありません。我らヴァルトリアの栄光が完全に消える前に、やらねばならないことが山積みですからね」
そう言って歩き出す死神たちの背中を、僕は黒パンをかじりながら追いかけた。
不味い。信じられないくらい、硬くて不味いパンだった。
母さんの作ってくれた、あの温かくて優しい薄味のスープが、どうしようもなく恋しかった。
振り返れば、西方都市の瓦礫の向こうで、分厚い灰色の雲の隙間から、ほんのわずかな陽光が差し込もうとしていた。
これまでの日常は完全に終わりを告げた。
だが、これは終わりではない。
奪われたものを取り戻し、狂った世界の理を裁くための、果てしなく遠い、新たな追憶の始まりなのだから。
この11話にて、ついに第一章が終わりました。
次は幕間を挟んでから、第二章へと進んでいく予定です。
投稿途中から隔日での投稿になりましたが、
なんとかここを迎えられてよかったです(;´・ω・)……。




