第一章9話 「記憶の底で光るもの」
――ドクンッ!!
胸の奥で、いや、魂の根源で何かが弾ける音がした。
ポケットの中に入っていた記憶の欠片が、まるで自らの意志を持った心臓のように激しく脈打ち、あり得ないほどの高熱を放ち始めている。
だが、その熱を熱いとは感じなかった。むしろ、凍りついてしまいそうだった僕の心に、絶対的な何かを注ぎ込んでくるような不思議な感覚だった。
「ククク……ハハハハハ!! なんと脆く、なんと愚かな!」
男の下劣な笑い声が、ひどく遠く、歪んで聞こえる。
極限の絶望と引き換えに、僕の体感時間は恐ろしいほどに引き伸ばされていた。舞い散る土埃が空中で静止し、血に染まった
フィナの純白のドレスが、スローモーションのように目に焼き付いている。
視界が、ぐらりと揺れた。
そして次の瞬間、僕の脳内に、堰を切った濁流のように記憶が流れ込んできた。
――それは、走馬灯だった。
『……どう? フィナちゃんのお口に合うといいんだけど』
今朝の食卓。使い込まれた木のテーブルで、母さんが心配そうにスープを差し出していた。
具材の野菜は鉄鎖巷で採れる安物ばかりで、出汁に使っている干し肉だって少し固い。それでも、母さんが作ってくれるその薄味のスープは、僕にとって何よりも安心できる日常の味だった。
『……ひどく、温かいですね』
不器用な手つきで野菜を切ってくれた、エプロン姿のフィナ。冷徹な処刑人などではなく、ただの年相応な少女のように見せた、あの微かな、けれど確かな微笑み。
『おーい、ノア! 今日も一緒に宝探しに行かない?』
油と鉄の匂いが染み付いたスクラップの山で、無邪気に笑いかけてくるイリスの顔。いつか一緒に中央へ行こうと、馬鹿みたいな夢を語り合った日々。
『助けたい人が、いるのでしょう?』
焔牙層の薄暗い牢屋の中。絶望していた僕の前に現れた、黄金の瞳。あの日、彼女が差し伸べてくれた手があったから、僕は大好きな日常へと帰ってくることができたのだ。
それなのに。
……なぜ、奪われなければならないんだ。
僕たちはただ、この煤まみれの街で、ささやかに生きていたかっただけだ。
温かいスープを飲んで、ガラクタを拾って、明日もまた同じように笑い合えればそれでよかった。
そう、それでよかったんだ。
それなのに、セリグラード家の奴は……中央の奴らは、勝手な理屈で僕たちを下層のゴミ屑と見下し、虫けらのように踏み躙り、ようやく見つけた大切な人すらも、容赦なく奪っていく。
理不尽だ。
こんな理不尽が、許されていいはずがない。
『――ノア、お兄ちゃん』
その時。
走馬灯の最後に、全く見覚えのない、不可解な記憶が唐突にフラッシュバックした。
純白の石畳が敷き詰められた、美しい庭園。
見たこともない色鮮やかな花々が咲き乱れ、澄み切った噴水の水音が優しく響いている。
そこには、黄金色の髪をした幼い少女がいた。顔は光に包まれたようにぼやけていて、はっきりとは見えない。だが、僕とその少女は、お互いに手を取り合い、心の底からの安心感に包まれながら、無邪気に笑い合っていた。
誰だ。君は一体、誰なんだ。
分からない。
だけど、魂が、心臓が、血の最後の一滴までもが叫んでいた。
あの温もりを、僕の半身とも言えるあの大切な存在を、二度と失ってはならないのだと。
「……あぁ」
僕の口から、ひどく冷たく、乾いた声が漏れた。
悲しみなんて感情はとっくに消失していた。
死に対する恐怖など欠片も残っていなかった。
僕の全身を満たしていたのは、自らの器すら焼き尽くしてしまいそうなほどに純度の高い、絶対的な怒りだった。
「……ククク、どうしました? 恐怖のあまり、ついに声も出なくなりましたか」
男の嘲笑が、再び鼓膜を叩く。
瓦礫の向こう側で銀の鐘を弄りながら、僕を見下ろしていた。
「処刑人の小娘は再起不能。あなたの幼馴染は、私が音を鳴らせばいつでも挽肉に変えられる。……さぁ、どうしますか、裁定者殿? あなたともあろう方が、無様に命乞いでもしてみせますか? あぁ、今は記憶のないただのゴミ屑でしたね」
僕は、腕の中で血に染まっているフィナを、そっと床に寝かせた。
冷たくなりかけている彼女の頬に触れ、僕は静かに立ち上がる。
「……ッ?」
その瞬間、男の笑い声がピタリと止まった。
顔に明らかな違和感の表情を浮かべる。
――ギシィィィッ。
部屋の空気が、いや、空間そのものが歪み、悲鳴のような軋み音を上げたのだ。
「なんだ……? 風が、止んだ……?」
吹き飛んだ壁の穴から絶え間なく吹き込んでいた夜風が、ピタリと止まっていた。
空中に舞っていた土埃が、まるで重力を失ったかのように、不自然にその場に静止している。
そして、その異常現象の中心にいるのは、他でもない僕だった。
「貴様……ただのゴミ屑が、何をした?」
男が一歩、後退る。
その声には、先ほどまでの余裕はなく、得体の知れないものに直面した時の警戒が混じっていた。
「……もう、奪わせない」
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
男の姿を、真っ直ぐに視界の中央に捉える。
「僕の日常も。大切な人も……もう二度と、お前たちなんかに、奪わせない」
僕がそう宣言した瞬間。
ポケットの中の記憶の欠片が限界まで熱を持ち、全身の血管を駆け巡るように、目にも止まらぬ光の奔流が体内を駆け上がった。
「な……なんだ、その目は!?」
男が、弾かれたように叫び声を上げた。
その目には、はっきりとした恐怖が宿っていた。
無理もない。
今、男を見据えている僕の瞳は、見慣れた黒色ではなかった。
昏い夕闇の部屋の中で、僕の双眸は、まるで世界そのものを裁く神の光のように、眩いほどの黄金色に光を放っていたのだから。
「黄金の、瞳……ッ!?」
男の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
彼のような御三家に連なる暗殺者が、その瞳の持つ意味を知らないはずがなかった。
「ば、馬鹿な……あぁ、あり得ない! ヴァルトリアの血統とその記憶は、そこの小娘を除いてとうに途絶えたはず! …………しくじったのか? まさか、こんな煤まみれの最下層に……?」
男が震える手で銀の鐘を構え直すが、その手はガタガタと情けなく痙攣していた。
僕の全身から放たれるのは、魔力や殺気といった生易しいものではない。
空間そのものを支配し、対象の存在すらも否定するような、規格外の重圧。先ほど男が放った弔いの音色すら、今の僕からすればただのそよ風に等しかった。
「……落ちろ」
僕は黄金の瞳を細め、ただ静かに、一言だけ命じた。
その言葉は、まるで世界の理そのものを書き換えるような、絶対的な力を持っていた。
空間に響いた瞬間。
ドンッ!!! と、目に見えない巨大な鉄塊が天から叩きつけられたような、暴力的な重力が白装束の男を襲った。
「ぐ、がぁぁぁッ!?」
男は為す術もなく床に這いつくばり、ひび割れた床板と瓦礫の山に顔面を沈めた。
「ふざ、けるな! 私が、下層のゴミ屑ごときに……!」
男は血走った目で僕を睨み上げ、盾として立たせていたイリスの背後に隠れるようにして、震える手で銀の鐘を乱暴に振り鳴らした。
「消し飛べ、バケモノォォッ!!」
弔いの音色の最大出力。先ほどフィナの結界を粉砕した青黒い呪波が、暴風となって僕へと牙を剥く。同時に、男の周囲には幾重にも重なる結界が展開された。
しかし、僕の足は一歩も退かなかった。退く気など欠片もなかった。
ただ真っ直ぐに、黄金の瞳で呪波を睨みつける。
それだけで、致死の音波は僕の数メートル手前で、見えない壁に衝突したように霧散して消えた。
「な、に……っ!?」
驚愕に目を見開く男へ向け、僕はゆっくりと足を踏み出す。
その一歩が床を踏み鳴らした瞬間、男の絶対防御であるはずの結界に、ピキッ、と亀裂が走った。
「あ、ああ……アアァァァッ!?」
パリンッ、パリンッ! と、幾重にも重なっている月模様の刻まれた結界が、ただ僕が近づくというだけの事実によって、安物のガラス細工のように次々と粉砕されていく。
「この子を、放せ」
僕の手が虚ろな瞳で立ち尽くすイリスの肩に触れる。
その瞬間、僕の体から溢れ出した黄金の光が彼女を優しく包み込んだ。
ジジジッという肉の焦げるような音と共に、イリスの左腕に刻まれていた月と鐘の呪印が、光に焼き払われるようにして完全に消滅する。
「……あっ……」
呪縛から解放されたイリスは、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。僕は彼女の体をそっと受け止め、瓦礫の上に寝かせる。
パキンッ――。
甲高い音を立てて、男の手に握られていた銀の鐘が真っ二つに割れた。
「あ、あぁ……私の、セリグラードの祝福が……」
術の暴走と結界の崩壊による凄まじい反動が、男の肉体を内側から破壊する。男の目、鼻、口からドス黒い血が噴き出した。
「……ッ、バケモノめ! 運よく生き残った亡霊の分際でッ!」
男は血反吐を吐きながら、悪鬼のような形相で僕を睨みつけた。
「ククク、だがすでに世界の底は抜けかけている! 貴様が生き延びようと、いずれこの偽りの空は落ち、楽園都市の業火に焼かれる運命だ……ッ!」
その不吉な呪詛を吐き捨てると同時に、男の体がどす黒い煙に包まれた。
煙が晴れた後には、血の跡だけが点々と外の暗闇へ続き、白装束の死神の姿は完全に消失していた。
----------
敵の気配が完全に消え去った。
その事実を認識した瞬間、ポケットの中で激しく脈打っていた記憶の欠片もいつの間にか砕け散っていたことに気づき、視界を染めていた黄金の光がスッと抜け落ちる。
「……が、はっ……!」
途端に、全身の骨が砕け、内臓がねじ切られるような凄まじい激痛が僕を襲った。
規格外の力を宿されていた器で無理やり引き出した代償。両足から力が抜け、僕はたまらず床に倒れ込んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
息が上手く吸えない。視界が急速に暗闇に飲まれようとしている。
だが、まだ眠るわけにはいかない。
僕は血を吐きながら、這いずるようにしてフィナの元へ向かった。
「フィナ……」
血だまりの中で目を閉じている彼女の細い首筋に、震える指を当てる。
……トクン、トクン。
微かだが、確かに脈を打っている。生きている。
振り返れば、気絶している母さんの胸も静かに上下しており、イリスの顔色も先ほどの死人のような蒼白さから、少しずつ血色を取り戻し始めていた。
「……よかった」
全員、生きている。
誰も、失わずに済んだんだ。
その事実を確認し、深く安堵した瞬間。
僕の意識を繋ぎ止めていた最後の糸がプツンと切れ、僕は抗えない深い暗闇の底へと落ちていった。




