第44話 再会は救いか
翌日の黄昏。
空を染めていた茜色はゆっくりと紫へ溶けはじめ、昼と夜の境界が曖昧になっていく。
気付けば足は黄昏の丘へ向かっていた。
考えるより先に身体が動いていたのだろう。
会えば何を言うのか。
そんなことは分からない。
聞きたいことは山ほどある。
怒りたいわけでも、責めたいわけでもない。
ただ、会いたかった。
会って顔が見たかった。
それだけだった。
丘の頂上へ辿り着いた瞬間、淡い光が揺れる。
もはや見慣れた光景に、胸が大きく鳴った。
やがて光の粒が集まり、一人の少女の姿を形作る。
その姿を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが、静かにほどけていく。
——会えた。
ただそれだけで、息が詰まりそうになる。
だが当の本人は違ったのか。
こちらを見た瞬間、露骨に目を見開いた。
「……え」
珍しく間の抜けた声だった。
まるで、ここに自分がいること自体がおかしいと言わんばかりに驚いている。
「何だその顔」
「……来るとは思わなかったのよ」
小さく零された言葉に、今度は俺の方が目を瞬かせる。
——来ないと思っていた?
なぜそんな疑問が浮かぶのか。
だが次の瞬間には理解した。
昨日の別れのとき、戻らないと言い理由も話さなかった。
確かにあれでは、愛想を尽かされたと思っていてもおかしくないのか。
そう考えた途端、妙な気分になった。
——俺を守るために全てを捨てたくせに。
彼女は、本気で自分が嫌われる可能性を考えていたのか。
「何で来ないと思った?」
「……別に」
答える気はないらしい。
だが、わずかに視線を逸らした横顔を見れば十分だった。
本当に気にしていないなら、そんな顔はしない。
そっぽを向いているが、グレースはわかりやすい。
いつものつれない態度にも愛おしさしか湧かない。
(……まぁ、それは前からか)
いつも俺をみてくれる。
王太子だからと畏まることもなく、飾らない態度で接してくれる。
王太子という肩書きでしかみられたことがない俺にとっては、何よりも大切な存在。
そして今、その理由がもう一つ増えてしまったことを、自覚している。
(お前は……俺のために、そこまでしたのか)
胸の奥が、静かに熱を持つ。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、どうしようもないほどの愛おしさだった。
王太子の俺に命をかけてくれる人はいても、きっと、ただの男になった自分に命をかけてくれる人はグレースしかいない。
「……ちゃんと寝なさいよ」
不意にグレースが言う。
いつものような、呆れ混じりの声だった。
「またそれか」
「またそれよ。……顔色、悪いもの」
「誰のせいだと思ってる」
「知らないわよ」
本当に知らない顔だ。
だが、俺はもう分かってしまっている。
グレースは、知らないふりが下手だ。
そして何より——隠していることがある時ほど、こうやって突き放す。
(……全部、知ってるんだろうな)
そう思うと、胸の奥が妙に落ち着いた。
昨日までの焦りはもうない。
代わりにあるのは、確信に近いものだった。
彼女は、自分のために何かを選んだ。
それを一人で抱えている。
「……馬鹿だな、お前は」
「何よそれ」
すぐに睨まれるが、少しも怖くない。
「失礼じゃない?」
「失礼じゃない」
「失礼よ」
「事実だろ」
「喧嘩売ってるの?」
いつものやり取りだが、不思議と心は軽かい。
怒っているその顔さえ、ただ愛おしいだけだった。
そして気付けば笑っていた。
「……何で笑うのよ」
「別に」
「絶対何か変なことを考えてるわ」
「考えてない」
「嘘つき」
そんなやり取りの間にも、黄昏の光はゆっくりと揺れていく。
別れの時間が近い。
それなのに、昨日ほど苦しくはない。
むしろ、妙に静かだった。
それはきっと——もう知ってしまったからだ。
グレースが、俺を見捨てたわけではないことを。
むしろ逆だということを。
そしてその事実は、重さではなく確かなものとして胸に残っている。
(……本当に、お前は)
視線の先で、光が少しずつ彼女を薄くしていく。
消えていくその姿を見ながら、静かに息を吐いた。
怒ることもできない。
突き放すこともできない。
ただ一つだけ、はっきりしているのは。
——彼女を、もう二度と失いたくない。
それだけだった。
黄昏が消えかける直前、一度だけ息を吐く。
「またな」
そう言った瞬間、グレースは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
それから視線を逸らし、小さく頷く。
「……ええ」
その声はどこか曖昧だった。
ほんの少しの間、何か言おうとして──やめる。
ただそれだけのはずなのに、胸の奥に妙な引っ掛かりが残る。
だが俺は、それを深く考えなかった。
(……何だ今の)
そう思いかけて、すぐに打ち消す。
ただの気のせいだと、自分に言い聞かせるように。
光が揺れ、彼女の姿が薄れていく。
最後に一瞬だけ交わった視線は、やけに静かだった。
それでも、その意味を測るにはまだ何も足りなかった。
◇
黄昏の余韻はしばらく胸の奥に残っていた。
先ほどまで確かにそこにいたはずの温度が、まだ指先に残っている気がする。
グレースは戻らないと言った。
だが、それは拒絶ではなかった。
自分の中では、すでに答えが出ていた。
(戻らないんじゃない。戻れないだけだ)
そう思った瞬間、胸の奥にあった焦りのようなものが、静かに形を変えていく。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、確信に近い何かだった。
ならば、やることは単純だ。
彼女が戻れない理由を取り除けばいい。
戻る意思があるのなら、それでいい。
なら、そのための条件を整えるだけだ。
「……なら簡単だ」
誰に言うでもなく、低く呟く。
問題は感情ではなく、理屈だ。
グレースの魔力の性質。
存在干渉の理論。
黄昏の現象。
そして何より——あの“繋がり”。
そのまま足を止めず、書庫へ向かった。
夜の王宮書庫は、さらに静かだった。
積み上げられた文献の影が、灯りに揺れて歪んで見える。
机に座ると、迷うことなく古い巻物を引き寄せた。
光属性と闇属性の干渉記録。
禁術扱いされている領域。
通常なら触れることすら避けられる領域だったが、今は躊躇はなかった。
ページをめくるたびに、理論は散らばっていく。
矛盾。
欠損。
そもそも観測されていない領域。
「……成立していない」
小さく眉をひそめる。
光と闇が共鳴する現象は確認されている。
だが、“安定した共存”の記録はない。
黄昏の再会は奇跡ではなく、異常だ。
理論の外側にある。
(じゃあ、どうやって維持されている?)
思考が進むほど、答えは遠ざかる。
文献を積み替え、別の巻物へと手を伸ばす。
存在干渉。
時間軸の重なり。
魂の位相。
どれも断片的で、繋がらない。
まるで最初から“完成させる気がない理論”のようだった。
「……足りない」
吐き出す声は、静かな書庫に溶けるだけだった。
どれだけ理屈を積み上げても、どこかで必ず崩れる。
その違和感だけが、じわじわと残る。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
そのときふと、目に入ったのは一冊の黒い本だった。
他のものと違う。
今まで何回もここにきているのに初めて目に入った。
まるで“混ざるべきではないもの”が、無理やり紛れ込んでいるような違和感があった。
吸い寄せられるように、その本に手を伸ばした。
表紙にはただ『日記』とだけ書いてある。
「……なんだ、これ」
パラパラとページを開いてみた次の瞬間、空気がわずかに変わった。
文字は整っておらず、記録でも論文でもない。
まるで誰かの独白をそのまま綴ったような歪な文章だった。
『彼女と、再び会うことができた』
指先が止まる。
それは、最近起きている現象と同じ言葉だった。
『だが、時間がない。この世界に留めておくことができない』
呼吸がわずかに浅くなる。
視線が自然と次の行を追った。
『彼女も、気づいているようだった。私はどうにか彼女を取り戻す方法を考えた。しかし彼女は迷っている』
ページをめくる音だけが、やけに大きく響く。
『彼女の存在は、この世界にとって異物だ。時間だけが過ぎていく』
胸の奥で、嫌な予感が形を持ち始める。
『それでも失いたくなかった。だから方法を探した』
その一文に続く文字は、どこか乱れていた。
焦りが滲んでいる。
『間に合うと思っていた。まだ時間はあると思っていた』
ページをめくった次の瞬間、手が止まる。
『間に合わなかった』
たった一行。
それだけだった。
無意識に震える指先で次のページを開く。
そこに残されていた最後の文章は——
『彼女は消えた』
その文字列は、ただの記録ではなかった。
まるで、まだ起きていない未来を——静かに告げているようだった。




