第42話 知らないままでいたかった
その夜は眠ることができなかった。
王宮書庫の窓の外には深い夜が広がり、静まり返った空間には、時折ページをめくる音だけが小さく響いている。
机の上には読みかけの文献が山のように積まれていた。
だが、どれだけ文字を追っても内容は頭に入ってこない。
視線は紙の上を滑っているのに、意識だけが別の場所へ引きずられていた。
何度も、何度も。
脳裏に浮かぶのは、黄昏の丘で聞いたあの言葉だった。
『戻らない』
静かな声だった。
怒りも拒絶もない。
ただ事実を告げるような穏やかな声音だったからこそ、その一言は深く胸に突き刺さっていた。
理由はないと言った。
自分が待っていることも。
帰る場所があることも。
すべて理解しているような顔で頷きながら、それでも彼女は戻らないと言ったのだ。
「……何なんだよ」
掠れた声が、静寂の中へ溶けていく。
理解できない。
いや、違う。
理解したくなかった。
グレースが自分を想っていることは分かっている。
黄昏の時間だけ起こるあの奇跡のような再会が、その何よりの証拠だった。
あれは自分だけの願いでは成立しない。
光と闇の魔力が共鳴し、互いを求め合っているからこそ繋がっている。
向こうもまた、自分に会いたいと思っている。
それだけは疑いようがなかった。
だからこそ分からない。
会いたいと願っているのに、なぜ戻ろうとしないのか。
その理由を話そうとしないのか。
まるで、自分だけが知らない何かがあるようだった。
ふと、脳裏を過ったのは、記憶を失っていた頃のことだった。
中庭でエドガーと向かい合っていたグレース。
演習で、二人だけで何かを話していた姿。
記憶を失っていたはずなのに、それでもあの光景は理由の分からない苛立ちを覚えた。
なぜそう感じるのか、当時の自分には分からなかったが。
ただ、エドガーに向けられるグレースの視線を見るたび、理由もなく胸の奥がざわついた。
——まさか。
そんな考えが一瞬だけ頭を過る。
だが、すぐに振り払う。
グレースが自分を想っていることだけは疑いようがない。
それなのに胸の奥に生まれた黒い感情は、簡単には消えてくれなかった。
もし自分の知らないところで、彼女がエドガーに何かを打ち明けていたのだとしたら。
もし自分には言えない理由を、エドガーだけが知っているのだとしたら。
そんな考えが浮かぶたび、どうしようもなく胸がざわついた。
だが、どれほど考えても答えは見つからない。
グレースは確かに苦しそうだった。
戻りたくないと言ったときも。
理由を尋ねたときも。
まるで、自分自身を必死に押し殺しているようだった。
それなのに何も話してくれない。
何一つ説明してくれない。
考えれば考えるほど答えは遠ざかり、胸の奥だけが重く沈んでいく。
手にしていた本を閉じると、疲れたように額を押さえた。
積み上げられた文献も、禁術も、存在干渉の理論も、今は何一つ意味を持たないように思えた。
欲しい答えは、どこにも書かれていない。
「……お前は、何を隠しているんだ」
ぽつりと低く吐き出すように零れた問いは、誰もいない書庫へ虚しく落ちた。
当然、返事はない。
静まり返った夜だけが、変わらずそこにあった。
そのとき、背後から声が落ちた。
「やっぱりここいたか」
振り返ると、そこにエドガーが立っていた。
いつもよりわずかに表情が硬い。
どこか迷いを含んだような顔だった。
「なあ」
「……何だ」
先ほどまで考えていたことが頭をよぎる。
今は顔を見たくなかった。
自分が何を言ってしまうか想像がつかない。
その気持ちから短く返すと、エドガーはしばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。
「最近、変な夢を見る」
手の動きが止まる。
「夢?」
「ああ」
エドガーは額に手を当てるようにして、わずかに目を伏せた。
「……誰かが泣いているようなんだ」
その一言で、空気の質が変わる。
「顔は見えない。ただ、……何かに耐えているようだった。それと——扉の向こうで、誰かが話していた」
静かに続く声が、妙に現実味を帯びていく。
嫌な予感が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
「誰かが言っていたんだ」
「何を」
「——距離を置くべきだ、と」
その瞬間、胸の奥が跳ねた。
呼吸が一拍遅れる。
エドガーの声は淡々としていた。
だが、その内容だけが異様に鮮明に突き刺さる。
「このままでは身体が持たない、と」
その言葉は、俺自身も聞いていた。医師に距離を置けと言われ、それでもグレースから離れるつもりはないと答えたのだから。
だが、エドガーは今、「扉の向こうで」その声を聞いたと言った。
——まさか
あのとき、グレースもそこにいたのか?
だからあいつは、何も言わずに離れようとしたのか。
思わずエドガーを見つめる。
さっきまで胸を掻き回していた得体の知れない感情が、今はひどく馬鹿らしく思えた。
こいつは何も関係なかったのだ。
「……馬鹿だろ」
掠れた声が漏れる。
怒りではなかった。
理解でもない。
ただ、遅れて押し寄せてきた現実への拒絶だった。
「そんな理由で」
拳が震える。
机の縁を掴む指に力が入り、白くなる。
「全部捨てたのか、お前は」
掠れた声が零れ、胸の奥が鈍く痛む。
戻りたくなかったわけではない。
戻れなかったのだ。
俺が壊れないように。
俺が生きられるように。
ただそれだけのために、彼女は願いを押し殺していた。
黄昏の丘で見せた笑顔も、苦しそうに伏せた瞳も、理由を語ろうとしなかった沈黙も。
そのすべてが今になって一つの意味を持ち始める。
「……馬鹿だ」
それが責める言葉ではないことくらい、自分でも分かっていた。
胸が痛かった。
どうしてそんなことをした。
どうして一人で抱え込んだ。
どうして俺に何も言わなかった。
理解できない。
理解できないのに、苦しいほど胸が締め付けられる。
自分の未来も、生きて帰る道も。
そして俺と過ごすはずだった時間さえも。
彼女は、そのすべてを手放してまで俺を選んだ。
その事実だけが、どうしようもなく胸を熱くした。
ゆっくりと目を閉じる。
ただ一つだけ確かなのは——もう二度と、彼女を失いたくないということだった。
書庫の静寂は、ただ遠くの記憶のように黄昏の光だけがどこかで揺れている気がした。
やっと最終章です……!
第四部『追還の王太子』が始まります。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




