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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第42話 聞かないで



 丘には、今日も柔らかな風が吹いていた。

 紫色のスイートピーが、まるで呼吸するように静かに揺れている。


 昼でも夜でもない曖昧な時間。

 光と闇がわずかに溶け合う、その一瞬だけ。


 俺は、そこに立っていた。


 そして当然のように、彼女もまたそこにいた。


「また来たのね」


 呆れを含んだ声だった。

 けれど、かつてのような鋭い拒絶はもうない。


「来ると言っただろ」

「本当に毎日来る人がある?」

「いるだろ。ここに」

「暇なの?」


 グレースは小さく息を吐く。

 その仕草に、胸の奥がわずかに緩む。


 何も変わっていないようでいて、すべてが違う。

 それでも、今この瞬間だけは確かに“彼女がいる”。


 思わず笑ってしまった。


「何よ」

「いや」

「気持ち悪いわね」

「久しぶりにその台詞を聞いたと思ってな」

「失礼ね」

「お前にだけは言われたくない」

「何ですって」


 くだらないやり取り。

 何度も繰り返したはずの言葉。


 それなのに、失われていた時間が一気に戻ってくるような錯覚を覚える。


 だが同時に、胸の奥では焦りが燻っていた。


 黄昏は短い。

 触れることすら叶わないまま、彼女は必ず消える。

 

 このままでは足りない。

 ただ会えるだけでは、もう足りない。


 隣にいてほしい。

 二度と失いたくない。



 数日後。


 王宮書庫は、夜の静寂に沈んでいた。


 積み上げられた禁書の山の中で、レオナルドは一冊の文献を開く。


 そこに書かれていた一文が、視界に焼き付いた。


『断絶された存在は、自ら現世への帰還を望まぬ限り、完全な復帰は不可能である』


 呼吸が止まる。


「……そういうことか」


 道はある。

 確かに存在している。


 だがそれは“外側から引き戻す方法”ではなかった。


 鍵はただ一つ。


 本人の意思。

 戻りたいという願い。


 それがなければ、どれだけ手を尽くしても意味がない。


 胸の奥が冷たく沈んでいく。


(グレースは……戻る気がない?)



 その日の黄昏も、いつもと同じ丘に彼女は立っていた。

 紫のスイートピーが風に揺れ、昼と夜の境目のような曖昧な光が、彼女の輪郭だけを淡く浮かび上がらせている。


 その姿を見た瞬間から、言葉を選んでいたわけではなかった。

 ただ、胸の奥で固まっていた何かが、もうこれ以上黙っていられないと告げていた。


「今日はやけに難しい顔してるわね」


 先に口を開いたのはグレースだった。


 けれどその声音には、以前のような鋭さも拒絶もなく、どこか距離を測るような静けさが混じっている。


 すぐには答えず、ただ彼女を見ていた。

 まるで確かめるように、逃がさないように。


 風が一度だけ吹き抜け、二人の間の空気を切り裂く。


「なあ」

「何よ」

「戻って来い」


 その言葉が落ちた瞬間、世界が一瞬だけ息を止めたように静まった。


 花の揺れがぴたりと止まり、丘全体が凍りついたような錯覚すら生まれる。


 グレースの表情がわずかに強張る。


「……何を急に」

「戻れるんだろう」


 問いかけというより、確信に近い声音だった。


 沈黙が落ちる。

 否定は返ってこない。


 その沈黙だけで、胸の中では答えが形を持ちはじめていた。


「……方法はある」


 静かに告げると、グレースの瞳がわずかに揺れた。


「やっぱり、あるんだな」


 その反応すら、もう隠しきれないもののように見える。


「グレース。戻って来い」


 声が、少しだけ強くなる。

 それは命令ではなかった。

 理屈でもなかった。


 ただ手放すことを拒むような、必死な懇願だった。


 グレースは小さく息を吸い、それから短く首を振る。


「嫌よ」


 すぐに返された言葉には迷いも揺らぎもない。

 そのあまりの確かさに、呼吸が一瞬止まる。


「……何だって?」

「戻らない」

「理由は」

「ないわ」


 静かな声だった。

 まるで当然の事実を口にするように、感情の余白すらない。


「理由がない?」

「ええ」


 一瞬だけ言葉を失う。

 だが次の瞬間、どうしても確かめずにはいられなかった。


「俺がいる」

「いるわね」

「ここに居場所がある」

「そうかもしれない」


 否定はされない。

 むしろ彼女は、そのすべてを認めていた。


 それでも——結論だけは変わらない。


 グレースは一度だけ視線を逸らし、それから静かに告げる。


「でも戻らない」


 その一言が落ちた瞬間、丘に満ちていたすべての時間が、音もなく断ち切られたように感じられた。



 胸の奥が、ゆっくりと軋むように痛んだ。


「……俺がいるのにか」

「ええ」


 絞り出した言葉に、グレースは迷いなく頷く。


「……それでもか」

「ええ」


 その即答が、刃のように深く刺さる。


 喉がひくりと動く。

 それでも、どうしても言葉を止められなかった。


「じゃあ何でだ」


 問いかけた瞬間、空気が変わる。


 グレースは答えない。


 視線がわずかに逸れる。

 それだけで、沈黙の意味が形を持ってしまう。


 その沈黙が、何よりも残酷だった。


「俺じゃ駄目なのか……?」


 気づけば、そう漏らしていた。

 その声は、もう理屈でも問いでもなかった。

 ただ、崩れ落ちそうな心そのものだった。


 グレースは小さく目を伏せた。


「……ごめんなさい。それ以上は、聞かないで」


 その謝罪が何を意味するのか、レオナルドには分からなかった。


 ただ一つだけ確かなのは、彼女が決してこちらへ来ようとしていないという事実だった。


 理由は教えてくれない。

 戻ろうともしない。


 俺がいることも、居場所があることも認めながら、それでも拒絶する。


 ふと脳裏を過ったのは、記憶を失っていた頃のこと。


 中庭で並んでいた二人。

 演習のとき、俺には聞こえない声で何かを話していた二人。

 森で、こそこそと何かを隠していた二人。


 あの頃も、何も感じなかったわけじゃない。

 ただ、自分が選ばれない未来なんてあるはずがないと、どこかで思っていた。


(まさか——)


 そんなはずはない。

 そう思うのに。


 否定してほしい相手は、何も答えてくれない


 まるで見えない壁を隔てられたように、二人の距離だけが静かに広がっていく。


「なら何で……っ」


 黄昏がわずかに軋む。


 光が揺れ、影が伸びる。

 時間そのものが、少しずつ削れていくようだった。


 沈黙だけが続く。

 その沈黙が、答えよりも残酷だった。

 

「……頼む。教えてくれ」


 声が掠れる。

 その言葉に、グレースの肩が小さく震えた。


 けれど、それでも唇は開かない。


 沈黙だけが続く。


「俺は——お前がいなきゃ、駄目なんだ」


 喉の奥が詰まる。

 それでも、もう止められなかった。


 その言葉は告白でも祈りでもなく、ただ壊れかけた人間が最後に残した叫びだった。


 グレースの瞳が、ゆっくりと潤む。


「……お願い。聞かないで」


 震える声で溢れたその一言が、すべてを閉じた。


 理由は語られないまま。

 救いも与えられないまま。


 ただ、終わりだけが訪れる。


 そして——夜が来る。


 光が崩れ落ちていく。


 それは消えるというより、世界から剥がされていくようだった。


 粒子が風に溶けるようにほどけていく。


「グレース!」


 手を伸ばす。

 届くはずだと、まだどこかで思っていた。


 だが指先は、ただ空を切る。

 そこにあったはずの温度だけが、確かに消えていた。


 残されたのは、冷たい風だけだった。



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