6.5話 琉生side③
みあの肩に額を預けたまま、雨の音を聞いていた。
背中を、手のひらがゆっくりと往復する。
ときどき止まって、また動く。
俺の呼吸を確かめているのだと、少し経ってから気づいた。
もう、あの男はいない。
扉が閉まる音も聞いた。
みあが、帰ってくださいと言ってくれたことも覚えている。
それなのに、袖を掴んだ指が離れなかった。
昔より、ずっと小さく見えた。
頬が痩せて、髪に白いものが交じっていた。
今なら、伸ばされた腕を振り払うことくらい、簡単にできたはずだった。
けれど、あの声に名前を呼ばれた途端、体が先に思い出した。
どこを見ていればいいのか。
何を言わずにいれば、済むのか。
考えるより早く、息をひそめていた。
みあには、見られたくなかった。
重い花を運べるようになった。
高い棚にも、俺なら手が届く。
困っていれば、隣から助けられる。
そうやって少しずつ、あの頃とは違う自分を見せてきたのに。
「……みあ。」
呼ぶと、すぐ近くで返事がした。
「うん。」
その声を聞いて、目を閉じた。
昔から、俺が呼ぶのはこの名前だった。
◇
みあと遊ぶようになったのは、四歳の頃だった。
近所に住んでいる、小学三年生のお姉ちゃん。
五つの年の差は、あの頃の俺には、ひどく大きかった。
花屋の前でしゃがんでいると、隣にしゃがんでくれた。
俺が読めない鉢の札も、みあは読めた。
「これ、なんてかいてあるの。」
尋ねれば、一つずつ教えてくれる。
覚えたつもりで、次の日には忘れていた。
それでも、みあはまた教えてくれた。
店の奥から、おばさんが呼ぶ。
「みあ、おやつにしよう。」
みあ。
その響きが呼びやすくて、俺も真似をした。
「みあ。」
振り向いてくれた。
「なあに、琉生。」
用事がなくても呼んだ。
振り向いてほしくて、何度も。
あの頃はまだ、夕方になれば家へ帰っていた。
また明日、と手を振って。
次の日も会えることを、疑わずに。
◇
八歳のとき、母親が家を出ていった。
別の男がいたのだと知ったのは、父親の口からだった。
俺に説明するための言葉ではなかった。
酒を飲んだ夜に、何度も同じことを吐き捨てた。
聞きたくなくても、覚えてしまった。
母親の靴がなくなった玄関には、しばらく、空いた場所だけが残っていた。
俺は父親と暮らすことになった。
最初のうちは、帰ってくる音を待っていた。
腹が減っても、もうすぐ帰るかもしれないと思った。
やがて、冷蔵庫を開けるより先に、テーブルの上に金が置かれていないか探すようになった。
何日も帰らないことがあった。
帰ってきたと思えば、知らない女の人が一緒だった。
玄関に知らない靴がある日は、なるべく自分の部屋から出なかった。
父親が一人で酒を飲んでいる夜も、静かにしていた。
一度だけ、明日の朝に食べるものがないと言ったことがある。
父親は、缶を置いて俺を見た。
「そんな目で見るな。」
何のことか分からず、黙っていた。
「母親にそっくりだな。」
だから目を伏せた。
今度は、それが気に入らなかったらしい。
「何か言えよ。」
言えば怒るのか。
言わなければ怒るのか。
手が上がる直前まで、答えが分からなかった。
それからは、足音を聞くようになった。
廊下を歩く速さ。
扉を閉める音。
冷蔵庫から、次の缶を出す気配。
学校の時計より、そういうもののほうが気になった。
◇
その日、俺はランドセルを背負ったまま、花屋の横に立っていた。
中へ入るつもりで来たのに、足が止まった。
昨日も来た。
その前の日も、夕飯を食べさせてもらった。
入口の向こうで、おばさんがお客さんと話していた。
邪魔をしてはいけない気がして、壁に背中をつけた。
「琉生?」
顔を上げると、みあがいた。
中学校の制服を着て、鞄を肩に掛けていた。
少し前までランドセルだったのに、その服になってから、急に遠い人に見えることがあった。
「来てたの。中、入らない?」
「……うん。」
返事をしても動かない俺を、みあは少し見ていた。
「私、お腹空いちゃった。一緒に何か食べよう。」
俺が答える前に、勝手口へ回る。
扉を開けてから、振り返った。
「琉生も、おいで。」
叱られるようなことは、何もしていない。
それなのに、その一言を聞いて初めて、肩の力が抜けた。
二階へ上がると、みあは鞄を置き、台所へ行った。
冷凍されたご飯をレンジで温めて、茶碗によそう。
炊飯器の横にあったふりかけを、二つ持ってきた。
「どっちがいい?」
指をさすと、選んだほうを俺の前へ置いてくれた。
「私も、そっちにしようかな。」
向かいに座り、袋を開ける。
俺は茶碗を持った。
温かかった。
一口食べると、急に腹が減った。
箸を動かしている間、みあは学校の話をした。
教室を間違えそうになったこと。
新しい先生の字が、黒板の端へ行くほど小さくなること。
俺があまり返事をしなくても、気にしなかった。
食べ終わる頃、窓の外が少し暗くなっていた。
時計を見た。
まだ、帰りたくなかった。
けれど、ここは俺の家ではない。
茶碗を置いても、立てずにいた。
みあは食器を重ねると、自分の鞄から教科書を出した。
「私、宿題しちゃうね。琉生も持ってきてる?」
頷いた。
「じゃあ、一緒にやろう。」
明るい声だった。
俺がここに残ることに、理由なんて要らないみたいに。
ランドセルを開けるとき、留め具がうまく外せなかった。
何度か指を滑らせている間も、みあは待っていてくれた。
◇
それからも、帰りたくない日は、花屋へ行った。
父親のことは話さなかった。
口にすれば、みあの顔が変わる気がした。
どうして。
いつから。
お父さんに聞いてみようか。
そんなふうに話が進んだら、次に家へ帰ったとき、何が待っているのか分からなかった。
だから、何も言わなかった。
みあも、無理には聞かなかった。
元気がないね、と顔を覗き込むことはあった。
けれど、俺が黙っていれば、そのまま隣に座っていた。
ある日、二階のソファで眠ってしまった。
目が覚めたとき、部屋は薄暗かった。
どこにいるのか分からず、慌てて体を起こす。
膝から、毛布が滑り落ちた。
「起きた?」
すぐそばに、みあがいた。
床に座り、低いテーブルでノートを広げていた。
「……寝てた?」
「うん。少しね。」
階下から、おばさんの声がした。
みあが返事をして、立ち上がる。
考えるより先に、服の裾を掴んでいた。
みあが振り向いた。
自分の手を見て、何か言わなくてはと思った。
でも、引き留めるための用事が見つからなかった。
「……まだ、行かないで。」
やっと言うと、みあはもう一度座った。
「うん。もう少し、ここにいようか。」
それだけだった。
どうして一人で待てないのかと、聞かなかった。
もう二年生でしょうとも、言わなかった。
俺は毛布を引き寄せ、みあの隣へ座った。
ノートの上を、シャープペンシルが動いている。
窓の外で、自転車のベルが鳴った。
下の店からは、二人分の話し声がした。
どの音にも、身構えなくてよかった。
みあの服を掴んだまま、また眠くなった。
夕方が来なければいいと思った。
この部屋の中だけ、時計が止まってしまえばいい。
みあが宿題を終えないまま、ずっと隣にいてくれたら。
あの頃の俺には、それくらいしか、願い方が分からなかった。
◇
背中を撫でる手が、ゆっくり下りてくる。
薄い上着越しに、その温かさを感じた。
二十四歳になっても、同じことを言っていた。
まだ、行かないで。
言いたかったことは、ほかにもあったはずなのに。
口から出てきたのは、あの部屋でやっと言えた言葉だった。
「……ごめん。重いよね。」
少し顔を上げようとすると、背中の手が止まった。
「大丈夫だよ。」
近くで、みあが言う。
「無理に離れなくていいから。」
喉の奥が詰まった。
甘えたいわけじゃない。
そう言えるほど、強くはなかった。
今はただ、この手を離してほしくなかった。
みあの肩に、もう一度額を寄せる。
父親が何を話したのか、どんな顔で聞いたのか。
まだ、全部を確かめる勇気はなかった。
けれど、みあは俺に、許してあげなよとは言わなかった。
帰ってくださいと、あの男に言った。
その声を、何度も思い返していた。
俺が何も言えずにいる間に、みあが閉めてくれた扉。
その内側に、今、二人でいる。
「もう少し、このままでいて。」
「うん。いいよ。」
袖を掴む指を、少し緩めた。
俺はもう、あの頃みたいに、夕方が来ることを怖がらなくていい。
自分の部屋がある。
食べるものも、自分で用意できる。
それでも、みあのいない毎日に帰れるようには、ならなかった。
いつか、この手が俺の背中から離れて。
別の誰かの帰りを待つようになったら。
そこまで考えて、目を閉じた。
今日だけそばにいてほしいわけじゃない。
けれど、その続きを言えば、この優しい手を困らせる。
だから今は、黙って温もりを受け取っていた。
窓の向こうで、雨が降っている。
まだ、やまなければいいと思った。




