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甘い蜜に溺れる花は夜に染まる  作者: アル


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10/15

7話 紫の花に、秘めたまま

あの雨の日以来、琉生のお父さんが店を訪れることはなかった。


琉生も、自分からあの日のことを話そうとはしなかった。

いつもの時間に顔を出して、私の食事を気にしたり、高い棚のものを取ってくれたりする。


私も、何かを聞き出そうとは思わなかった。


ただ、奥の扉を叩く音がすると、少しだけほっとする。

顔を見て、声を聞いて。

今日も来てくれたのだと確かめてから、手元の仕事に戻るようになっていた。


七月に入り、店へ届く花の色も変わった。


ひまわりの明るい黄色。

涼しげな白いトルコキキョウ。


その間で、私がつい目を留めてしまうのは、小さな鉢に咲いた紫のキキョウだった。


午後の客足が途切れた頃、鉢を作業台へ移す。

葉の陰に隠れた花がよく見えるよう、少しだけ向きを変えた。


開いた花の隣には、ふっくらと膨らんだ蕾がある。

薄い紙を内側から膨らませたような形。

まだ閉じたその中に、五つの花びらが折り畳まれている。


覗き込んでいると、奥から聞き慣れたノックがした。


「開いてるよ。」


ほどなくして、琉生が店へ顔を出す。

薄手のシャツの袖をまくった腕に、外の暑さが残っているようだった。


「みあ、何見てるの。」


私の手元へ視線を落とし、彼が目を細める。


「今年も入ったんだね。」


「うん。今朝届いたの。」


琉生は作業台の向こうへ回らず、私の隣に立った。


「みあ、これが入ると嬉しそうだよね。」


「そんなに分かる?」


「分かるよ。いつも、ほかの鉢より長く見てる。」


言われて、花に添えていた手を引っ込める。

ちょうど今も、手入れより眺めている時間のほうが長かった。


「……好きなんだもん。」


「知ってる。」


返事があまりに早くて、思わず笑ってしまった。


琉生も笑う。

その目は一度キキョウへ落ちてから、また私に戻った。


「今年も、紫なんだね。」


「白もきれいだけど、やっぱりこの色が好き。」


花びらの縁へ、窓からの光が薄く透けていた。

中心へ向かうほど深くなる紫を、目でたどる。


華やかな花に囲まれていても、この花を見ると、少し呼吸がゆっくりになる。

昔から、理由をうまく説明できないまま好きだった。


「この蕾もね、かわいいでしょう。」


指を近づけると、琉生が身をかがめた。


「うん。」


「明日には開くかな。」


「開いたところ、見せてね。」


「琉生が来る前に咲いちゃうかもしれないよ。」


「じゃあ、咲いたら写真送って。」


顔を上げると、すぐ近くに彼の横顔があった。


「お花の写真で起こしちゃわない?」


「起きたら見るから。」


何でもないことのように言って、琉生はもう一度蕾を見た。


毎年、同じ季節に同じ花を仕入れる。

私には当たり前の繰り返しだった。


その中で私がどんな顔をしていたかまで、琉生は覚えている。


そう思うと、少しくすぐったかった。


◇


鉢の縁についた土を布で拭っていると、琉生がぽつりと言った。


「変わらぬ愛、だったよね。」


手を止めて、隣を見る。


彼は紫の花を見ていた。


「花言葉。」


「……うん。よく覚えてたね。」


以前、話したことがあった。

いつだったのか、私のほうはすぐに思い出せない。


この鉢の前だったかもしれないし、二階で図鑑を広げていたときかもしれない。

琉生がまだ小さかった頃は、花の名前と一緒に、そんな話もよくしていた。


「永遠の愛、ともいうんだよね。」


私が続けると、琉生は小さく頷いた。


「それも覚えてる。」


「すごいね。私が話したことなんて、忘れててもおかしくないのに。」


布を畳みながら笑う。


琉生は、笑わなかった。


「みあが好きだって言ったから。」


静かな声だった。


顔を上げると、目が合う。

何か言い足すのかと思ったけれど、彼はそのまま私を見ていた。


先に目をそらしたのは、私のほうだった。


「……そっか。」


嬉しい、と素直に言えばよかったのかもしれない。


けれど、自分が思っていたより大切に覚えられていたことに、うまく言葉が出なかった。


鉢の向きを、ほんの少し直す。

さっき整えたばかりなのに。


「琉生は、何かある?」


「何が?」


「好きな花。」


隣で、彼がわずかに首を傾けた。


「みあが選んでくれたのは、好きだよ。」


「それじゃ、おすすめしがいがありすぎるね。」


「いいでしょ。毎回楽しみにできる。」


今度はいつもの笑い方だった。


私も笑って、拭き終えた鉢を両手で持ち上げた。

琉生が隣の鉢を少しずらし、戻す場所を空けてくれる。


紫の花が揺れた。


その揺れが収まるまで、二人で並んで見ていた。


◇


「何か飲んでいく?」


尋ねると、琉生は壁の時計を見た。


「うん。まだ大丈夫。」


奥のテーブルに、二つのグラスを並べる。

冷やしておいた紅茶に牛乳を注ぐと、濃い茶色の中を、白い筋がゆっくりほどけた。


暑くなってからは、冷たいミルクティーを用意することが増えていた。

私が飲みたくて作っているものだけれど、琉生もいつも同じものを飲む。


氷を入れたグラスを差し出すと、彼は短く礼を言った。


「外、暑かった?」


「うん。ここに来るまでに溶けそうだった。」


「ちゃんと水分取ってね。」


「今、取ってる。」


グラスを少し持ち上げてみせる仕草に、笑ってしまう。


私も向かいへ座り、一口飲んだ。

紅茶の香りのあとに、柔らかなミルクの味が残る。


「ほんと、みあってミルクティー好きだよね。」


向かいで琉生が笑った。


挿絵(By みてみん)


「うん。ほっとするんだよね、この味。」


「俺も好きだけど。」


そう言って、彼もグラスに口をつける。

その頬に、淡い色の髪がさらりとかかった。


グラスの中へ視線を落としてから、もう一度、琉生を見る。


「そういえば、琉生の髪の色も、ずっとミルクティー色だね。」


「……うん。」


「ほかの色にしたくなったりしないの?」


琉生はグラスを置き、少しだけ首を傾けた。


「みあは、この色どう思う?」


「似合ってると思うよ。もう見慣れてるから、違う色になったら、ちょっと寂しいかも。」


答えると、彼の目元が柔らかくなった。


「じゃあ、このままでいようかな。」


「自分の好きな色にしていいんだよ?」


「うん。だから、これでいいの。」


迷いのない返事だった。


そんなに気に入っていたんだ。

長く変えない理由に納得して、私はまたグラスを持ち上げた。


好きな花が見える。

好きな飲み物があって、向かいには琉生がいる。


次のお客様が来るまでの、短い休憩。

特別なことは何もないのに、時計を見るのが惜しかった。


◇


先にグラスを空にした琉生が、椅子を引いた。


「そろそろ行くね。」


「うん。今日も無理しないでね。」


流しへグラスを運ぶ背中についていく。

受け取ろうとすると、彼は自分で軽くすすいでから置いた。


勝手口で靴を直し、こちらを振り返る。


「写真、忘れないでね。」


「キキョウ?」


「うん。咲いたら。」


「分かった。送るね。」


琉生は満足そうに笑った。


「行ってきます。」


「いってらっしゃい。」


扉が閉まる。

少しの間、その向こうの足音を聞いていた。


やがて通りの音に紛れてしまってから、店へ戻る。


作業台には、畳んだ布が残っていた。

片づけようとして、またキキョウに目が留まる。


蕾はまだ、ふっくらと閉じたままだった。


明日の朝、店へ下りてきたら、最初に確かめよう。

咲いていたら、光のきれいなところへ鉢を移して。

琉生が起きたときに見られるよう、写真を送ろう。


鉢の下に落ちた、小さな葉を拾う。


変わらぬ愛。


琉生の声で思い出したその言葉を、胸の内で繰り返した。


ずっと覚えていてくれたのだと思うと、見慣れた紫が、いつもより少しだけ愛おしかった。




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