7.5話 琉生side④
――愛という名の、静かな独占
勝手口を閉めると、夏の熱気が頬にまとわりついた。
さっきまでいた花屋の涼しさが、もう恋しくなる。
店の前へ回り、ガラス越しに中を覗いた。
みあは作業台の前に立っていた。
紫のキキョウを眺めて、少し笑っている。
あの顔が好きだった。
昔から、みあは好きな花を見つけると、ああいう顔をする。
ほかの花と何が違うのか、俺にはよく分からなかった。
でも、みあが嬉しそうにしているから、俺も好きになった。
キキョウ。
花言葉は、変わらぬ愛。
それから、永遠の愛。
何年も前に教えてもらった言葉を、俺は今でも覚えている。
みあは、よく覚えていたね、と笑っていた。
忘れるわけがない。
みあが好きだと言ったものは、ずっと覚えていた。
◇
歌舞伎町へ着く頃には、日が少し傾いていた。
店へ入り、控室の鏡の前に座る。
ミルクティー色の髪を指先で整えながら、さっきのみあの言葉を思い出した。
『似合ってると思うよ。もう見慣れてるから、違う色になったら、ちょっと寂しいかも。』
思わず、口元が緩む。
みあは知らない。
俺がこの色にした理由も。
ずっと変えずにいる理由も。
みあがミルクティーを好きだから。
ただ、それだけだった。
初めて染めた日も、みあは似合っていると言ってくれた。
あのときの顔を、今でも覚えている。
だから、変える理由なんてなかった。
鏡の前に置かれた名札へ、視線を落とす。
キョウヤ。
この名前も、そうだった。
みあが好きなキキョウから、『キョウ』の音を取った。
誰にも由来を話したことはない。
店の人間も、客も、ただの源氏名だと思っている。
それでよかった。
俺だけが知っていればいい。
みあの好きなものを身につけて、みあの好きな花の名前を名乗る。
そのくらい、許されるでしょ。
スマートフォンを手に取り、仕事用のメッセージを開く。
いくつもの通知が並んでいた。
今夜の来店を知らせるもの。
次はいつ会えるのかと尋ねるもの。
昨夜の礼を伝えてくるもの。
一つずつ目を通し、相手に合わせて返事を打つ。
甘い言葉を欲しがる子には、それらしい言葉を。
少し冷たくされるほうが喜ぶ子には、短い返事を。
誰に何を言えば喜ぶのか。
そんなことは、もう分かっていた。
俺が本気になる必要はない。
だって、俺が好きなのは、みあだけだから。
◇
一通り返信を終え、スマートフォンを伏せた。
椅子の背にもたれ、目を閉じる。
目を閉じると、花屋の奥で聞いた言葉が浮かんだ。
『……私だけ、楽しみにしてたのかも。』
母の日の前。
みあが、昔の男の話をしてくれたときのことだった。
食事に行く約束をしていたのに、相手から連絡が来なくなったという。
あの日のみあは、困ったように笑っていた。
『何がいけなかったんだろうね。』
何も。
みあは、何も悪くない。
約束を守らなかった男が悪い。
みあを待たせて、寂しい思いをさせるような奴だったんだから。
俺なら、そんなことはしない。
みあが行きたいと言った場所には、どこへだって連れていく。
忙しくても、会う時間を作る。
連絡だって、必ず返す。
みあが楽しみにしていることを、俺が忘れるわけがない。
それなのに。
どうして、みあはあんな男たちを好きになったんだろう。
昔から、そうだった。
みあに近づいてくる男は、何人もいた。
優しそうに笑って、もっと話したいと言う。
食事に誘ったり、連絡先を聞いたり。
みあは誰にでも優しいから、相手を簡単には疑わない。
俺は、そんな男たちを何人も見てきた。
そして、何人も遠ざけてきた。
みあの知らないところで。
別に、大したことはしていない。
少し注意しただけだ。
それだけで、みあに会いに来なくなった。
連絡をしなくなった奴もいた。
本当に好きだったなら、そんなことで諦めたりしないでしょ。
俺が少し言ったくらいでいなくなるような男が、みあを幸せにできるわけがない。
そんな奴ら、みあにふさわしくない。
だから、俺は間違っていない。
みあが傷つく前に、相手の本性が分かっただけ。
ただ、それだけのことだった。
◇
それでも、みあが寂しそうにしているのを見るのは嫌だった。
誰かからの連絡を待って。
来なくなった理由を考えて。
最後には、自分のどこがいけなかったのかと悩む。
そんなこと、考えなくていいのに。
みあは、何も変わらなくていい。
優しいところも。
少し心配性なところも。
好きな花を眺めて、嬉しそうに笑うところも。
全部、そのままでいい。
俺は、ずっと好きだった。
ほかの男が気づかなかった魅力も、俺は知っている。
みあがどんなに歳を重ねても。
花屋で働く時間が増えて、少し疲れた顔をしていても。
俺には、ずっとかわいい人だった。
だから、余計に腹が立つ。
みあのことを大切にできない男が、簡単に近づこうとすることも。
その程度の男に、みあが傷つけられることも。
もう、そんな思いをさせたくない。
三十歳になったら。
あの約束を、もう一度みあに伝える。
今度は、子供の冗談なんかじゃない。
俺はもう、みあの隣に立てる。
仕事をして、金も貯めてきた。
みあに不自由な思いをさせないために、できることはしてきた。
あとは、みあが俺を選んでくれればいい。
……違う。
選んでもらえるように、ずっと頑張ってきたんだ。
みあの好きなものを覚えて。
みあが困っていれば助けて。
いつでも帰ってこられる場所に、俺がいるように。
だから、きっと大丈夫。
あの約束を、みあはまだ覚えている。
忘れていたとしても、俺が思い出させればいい。
どうせ最後には、俺がみあと一緒になるんだから。
◇
「キョウヤさん、そろそろお願いします。」
控室の扉が開いた。
「うん。今行く。」
立ち上がり、鏡の前で上着を整える。
いつもの顔を作る。
柔らかく笑って、相手の目を見る。
何を言えば喜ぶのか。
どこまで近づけば、もっと俺を欲しがるのか。
そんなことは、もう考えなくても分かった。
スマートフォンを手に取る。
みあからの連絡は、まだない。
明日、キキョウが咲いたら写真を送ってくれると言っていた。
きっと、朝になったら一番に鉢を見に行くのだろう。
咲いていたら、光の当たる場所へ移して。
きれいに撮れた一枚を、俺に送ってくれる。
そう考えると、明日が少し楽しみになった。
スマートフォンをポケットへしまい、扉へ向かう。
その途中で、ふと思った。
みあが、俺のしてきたことを知ったら。
きっと、怒るだろう。
そんなことをしなくてもよかったのに、と。
どうして勝手なことをしたの、と。
あの優しい顔を曇らせてしまうかもしれない。
それだけは、嫌だった。
みあに嫌われたくない。
昔から、それだけは怖かった。
だから、知らなくていい。
みあが今まで出会った男たちのことも。
その男たちが、どうして離れていったのかも。
俺が、何をしてきたのかも。
何も知らないまま、俺の隣で笑っていてくれればいい。
だって、みあ。
俺は、誰よりもお前を幸せにするつもりなんだから。
店内へ続く扉を開ける。
低い音楽と、琥珀色の照明。
今夜も、俺を待っている女の子たちがいる。
その誰にも、俺の本当の気持ちは渡さない。
俺が何年も大切にしてきたものは、一つしかない。
鏡の中に置いてきた、藤田琉生の顔。
それを知っているのは、みあだけでいい。
「キョウヤ!」
黒いソファには、見慣れた女の子が座っていた。
俺に気づくと、嬉しそうに手を振る。
「遅い。ずっと待ってたんだけど。」
「へえ。そんなに俺に会いたかった?」
隣へ腰を下ろして笑えば、彼女は満足そうに頬を緩めた。
あと少し。
あと少しで、みあは三十歳になる。
十五年前の約束を、俺は一度だって忘れていない。
みあが誰のものにもならないように。
ずっと、そばで見てきたんだから。
これからも、そうするだけ。
――俺の愛情は、何も間違っていない。
そう思いながら、今夜も俺は、誰かの恋人のように微笑んだ。




