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甘い蜜に溺れる花は夜に染まる  作者: アル


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12/15

8話 花の陰で、弱さを預ける

九月も終わりに近づくと、店先に差し込む光が、少しずつ奥まで届くようになった。


花桶には、淡い桃色のコスモスと、深い赤のケイトウ。

朝、入口の鉢に水をやる時間だけは、風の涼しさに秋を感じる。


「こんにちは。」


からん、とベルが鳴った。

山本さんが、いつものように小さく会釈をして入ってくる。


「いらっしゃいませ。」


食事のお誘いを断ったあとも、山本さんは変わらず花を買いに来てくださっていた。

夏の間も、月に何度か。

花の名前や水の替え方を尋ね、帰り際には、また、と笑う。


あの日の話が出ることはなかった。

初めのうちに感じていた気まずさも、顔を合わせるたび、少しずつ薄れていた。


今日は、白いリンドウを選ばれた。

長さを整えて包み、花を差し出すと、山本さんは持っていた紙袋へ手を入れた。


「これ、よかったら。」


透明な袋の中に、小さなくまのぬいぐるみが入っていた。

両手で包めるくらいの大きさで、薄茶色の体に、丸い耳がついている。


「出先で見つけまして。お店に置いたら合いそうだなと思ったんです。」


「私に、ですか?」


「いつも、きれいに選んでいただいているお礼です。ほんの気持ちなので。」


かしこまった贈り物というほどでもない、小さな袋だった。

中のくまは、短い足を前に投げ出して座っている。


「……かわいいですね。ありがとうございます。」


受け取ると、山本さんの目元が和らいだ。


「よかった。」


袋から出し、カウンター脇の棚に置いてみる。

ショップカードを入れた木箱の隣。

少し首の傾いた姿がかわいらしくて、指先で向きを直した。


「ここなら、お客様にも見ていただけますね。」


「ええ。いいですね。」


山本さんは、棚を見て微笑んだ。

それから花を持ち直し、いつもと同じように会釈をして帰っていった。


ガラス戸の向こうへ、その背中が遠ざかる。


私は空になった袋を畳み、次の花桶へ手を伸ばした。


◇


午後、勝手口を三度叩く音がした。


「開いてるよ。」


返事をして、手元の花へ視線を戻す。

朝にはまだ売り場に出せると思った花びらが、縁から茶色くなっていた。

傷んだところを取り除いてみても、売り物にはできそうになかった。


「みあ。」


顔を上げると、琉生が棚の前に立っていた。


「これ、どうしたの。」


目で示された先に、小さなくまが座っている。


「午前中に、お客様からいただいたの。山本さんっていう、よく来てくださる方。」


「……その人が、くれたんだ。」


琉生は、ぬいぐるみを見ていた。


「いつものお礼だって。かわいいでしょう。」


「うん。」


少し間を置いて頷くと、彼は私の隣へ来た。

手に持ったままの花に、視線が落ちる。


「それ、もうだめなの?」


「うん。思ってたより、傷むのが早くて。」


売り場から下げた花を、手元でそっと回す。

まだきれいな部分もあった。

けれど、お金をいただいて渡すことはできない。


「少し、多く仕入れすぎちゃった。」


何本入れて、何本売れたか。

帳面に数字を書くのは、夜、一人になってからだった。


花桶の空いたところを見るより、売れなかった花を数えるほうが、ずっと長く感じる日がある。


「……難しいね。」


思ったより小さな声が出た。


琉生が、こちらを向く。


「花のこと?」


「うん。それも。お店のことも。」


笑って終わらせようとして、うまく口元が動かなかった。


手の中で、乾きかけた葉がかすかに鳴った。


「お父さんたちだったら、もう少し上手にできたのかなって。たまに、思うの。」


琉生は何も言わず、私の手から花を受け取った。

作業台の端へ、そっと置く。


「少し座ろう。」


◇


奥のテーブルには、午前中に開いたままの仕入れの帳面があった。

端へ寄せると、琉生が向かいの椅子に座った。


何から話せばいいのか、分からなかった。

さっき口にした言葉だけが、二人の間に残っている。


「すぐに、どうにかなるわけじゃないんだけどね。」


帳面の角を、指先で押さえた。


「ちゃんとお客様も来てくださるし、注文もあるし。今日みたいなことだって、初めてじゃないのに。」


琉生は頷いた。

先を促す言葉もなく、私を見ている。


「……これからも、ずっとできるのかなって。」


口にすると、胸の奥が頼りなくなった。


「私が体を壊したら、とか。何か大きなものが壊れて、お金が必要になったら、とか。考え始めると、きりがなくて。」


両親がいた頃も、きっと楽なことばかりではなかった。

私が知らないところで、二人で話していたこともあったのだろう。


今は、仕入れの量も、注文を受けるかどうかも、最後には自分で決める。

迷ったまま決めたことを、夜になってから何度も考え直す。


「お母さんなら、どうしたかなって。聞けたらいいのにね。」


そこで笑おうとしたら、喉が詰まった。


俯く。

エプロンの膝に、小さな葉の欠片がついていた。


困らせてしまった。

これから仕事へ行く人に、こんな話をして。


謝ろうと顔を上げたとき、琉生が静かに尋ねた。


「みあは、どうしたいの。」


「……私?」


「うん。この店、続けたい?」


それには、迷わなかった。


「続けたい。」


口にしてから、もう一度頷く。


「お父さんたちのお店だからっていうのも、あるけど。それだけじゃなくて。」


入口のほうへ目を向けた。

扉の向こうに、包装紙の端と、花桶に挿した赤い花が見える。


「何を選んだらいいか分からないって来た方が、帰るときには嬉しそうに花を持ってくださるでしょう。ああいう顔を見るのが、好きなの。」


誰に渡すのか。

どんな場所へ飾るのか。

話を聞きながら花を選び、最後にリボンを結ぶ。


渡した花のその後を、次に来たとき教えてもらえることもある。

喜んでもらえました、と言われると、私まで嬉しくなる。


「大変だなって思う日もあるけど。……やっぱり、ここでお花を売っていたい。」


琉生は、少しの間黙っていた。

それから、ゆっくり頷いた。


「じゃあ、続けていけるように考えよう。」


当たり前のように言われて、彼を見る。


「俺、仕入れのことは分からないけど。重いもの運んだり、片づけたりはできるから。」


「もう、たくさん手伝ってもらってるよ。」


「話を聞くのも、できるよ。」


その声に、返しかけた言葉が止まった。


琉生はテーブルの上へ目を落とし、また私を見た。


「花を渡したとき、お客さんがどんな顔してるか、俺も見てるよ。」


思いがけない言葉に、顔を上げる。


「みあに選んでもらって、嬉しそうに帰っていく人、何人もいるでしょ。」


頷こうとすると、目の奥が熱くなった。


「みあがやってきたこと、ちゃんと残ってると思う。」


帳面の角から、指を離す。

強く押さえすぎて、指先が白くなっていた。


「……そうだと、いいな。」


琉生は、それ以上何も言わなかった。

私が息を整える間も、向かいに座っていてくれた。


時計の針が進む音がする。


そろそろ、彼の支度の時間を気にするべきだった。

いつもなら、もう大丈夫、と椅子を引いていたと思う。


けれど、今日は立ち上がれなかった。


「琉生。」


「ん?」


「時間、まだ大丈夫?」


彼は時計を見てから、頷いた。


「うん。」


膝に置いていた手を、そっとほどく。


「……もう少しだけ、聞いてもらってもいい?」


琉生の目元が、柔らかくなった。


「いいよ。」


挿絵(By みてみん)


短い返事だった。

それを聞いた途端、次の言葉が出てきた。


閉店したあとの、静かすぎる店のこと。

また花を余らせてしまうのが怖くて、翌日の仕入れの数を、何度も考え直してしまうこと。


話はまとまらなかった。

途中で同じことを言っていると気づいても、琉生は遮らなかった。


店のほうで、かすかに紙が鳴った。

空調の風に、包装紙の端が揺れていた。


明日になれば、また私が花を選ぶ。

今夜も帳面を開いて、今日の数字を書くだろう。


それでも、今は。


言葉にできずにいた不安の続きを、この人の前で探していてもよかった。




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