8.5話 琉生side⑤
みあが話し終えても、俺はすぐには立たなかった。
テーブルの端に寄せられた帳面。
その角を押さえていた指が、今はカップに添えられている。
「ごめんね。いっぱい話しちゃった。」
「謝らなくていいよ。」
そう返すと、みあは少しだけ笑った。
目元には、まだ疲れが残っていた。
それでも、さっきまで何度も言葉を飲み込んでいた唇から、ゆっくり息がこぼれる。
閉店したあとの店が、静かすぎる。
その言葉を聞いたとき、思い出した夜があった。
俺は、あの静けさを知っていた。
みあが二十二歳で、俺がまだ十七歳だった頃。
店の灯りを、二人で消した夜のことを。
◇
勝手口を叩いても、すぐには返事がなかった。
二回。
少し待って、もう一回。
中で何かが動く音がして、ようやく声がした。
「……開いてるよ。」
扉を開けると、みあは流しの前にいた。
足元には、空になった花桶がいくつも並んでいる。
表の扉には、もう閉店の札が掛かっていた。
売り場の灯りは半分だけ消され、壁際の花が、暗がりに白く浮いている。
おじさんとおばさんが亡くなってから、店を開けるようになって、まだ間もない頃だった。
カウンターの内側には、おばさんのエプロンが掛かったままだった。
誰も使っていないのに、きれいに畳み直されていた。
「琉生。どうしたの?」
「帰りに、灯りが見えたから。」
みあは頷いて、手元へ目を戻した。
「もう少しで終わるから。座ってていいよ。」
もう少し。
そう言うわりに、片づいていないものが多かった。
床に散った葉も、作業台に積まれた包装紙も、そのままになっている。
鞄をいつもの椅子に置き、制服の袖をまくった。
「これ、洗えばいい?」
一番手前の花桶を持つと、みあが顔を上げた。
「大丈夫だよ。制服、濡れちゃう。」
「脱げばいいでしょ。」
上着を椅子の背に掛けた。
もう一度、花桶へ手を伸ばす。
みあは何か言いかけて、それから、流しの脇に置いてあったブラシを渡してくれた。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん。」
受け取った柄が、濡れていた。
それだけのことなのに、妙に嬉しかった。
◇
花桶の内側を洗い、水を切って伏せる。
みあに置き場所を聞きながら、一つずつ片づけた。
水が跳ねて、シャツの袖口が濡れた。
捲り直していると、隣からタオルが差し出される。
「ほら。やっぱり。」
みあが少し笑った。
「これくらい、すぐ乾くよ。」
そう答えながら、受け取った。
水仕事が終わると、床を掃いた。
作業台の下に入り込んだ葉を集め、長い茎を袋へ入れる。
その間に、みあは翌日の注文を確かめていた。
何度も同じ紙へ目を落とす。
鉛筆を持ったまま止まり、思い出したように何かを書き足す。
「次、何すればいい?」
尋ねると、みあは店内を見回した。
「もう、いいよ。ありがとう。すごく助かった。」
けれど、自分は座ろうとしなかった。
「みあは?」
「私?」
「まだ、やることあるんでしょ。」
手元の紙へ視線を落とし、みあは小さく頷いた。
「帳面だけ。今日の分、つけておかないと。」
奥のテーブルには、領収書や伝票が広がっていた。
脇に置かれたカップの紅茶は、すっかり冷めている。
俺は鞄を床へ下ろし、椅子を引いた。
「俺も、ここにいていい?」
みあが俺を見た。
いつもなら、いいよ、とすぐに返してくれる。
その日は少し黙ってから、頷いた。
「……うん。」
◇
帳面の前のほうには、おばさんの字が残っていた。
細くて、少し右に傾いた数字。
途中から、みあの字に変わっている。
俺は向かいに座り、渡された伝票の日付と金額を読み上げた。
みあが帳面に書いて、計算機を押す。
難しいことは、何もできなかった。
仕入れを増やしたほうがいいのか。
この注文を受けて、ちゃんと儲けが残るのか。
そんなことは、聞かれても分からない。
それでも、紙を一枚ずつ揃えることはできた。
「これ、同じ日だよ。」
「あ、本当だ。そっちに置いてもらっていい?」
言われたところへ置く。
みあの手元から、少しずつ紙が減っていく。
最後の一枚を渡したとき、みあが小さく息をついた。
「一人だと、何回も見直しちゃって。全然、進まなかったの。」
「また読もうか。」
「ううん。今日は、もう大丈夫。」
帳面を閉じるのかと思った。
けれど、みあの手は、開いたページの上に残った。
「お母さんね。」
声が落ちた。
「こういうの、いつやってたんだろう。」
俺は何も答えられなかった。
「一緒にお店にいたのに、知らないことばっかり。」
鉛筆の先が、紙に触れた。
数字のないところに、小さな点がつく。
みあはそれを見つめていた。
「今日も、お客様に聞かれてね。前にお母さんが作ったのと、同じ感じでお願いできますかって。」
「……うん。」
「どんなのだったか、お話を聞いて。作ってみたら、喜んでくださったんだけど。」
そこで言葉が途切れた。
「帰ってから、お母さんに聞こうって思っちゃった。」
冷えた紅茶の表面に、天井の灯りが映っていた。
「どんなお花、使ったのって。」
みあは笑おうとしていた。
唇の端を少し上げて、でも、そのまま俯いた。
店の奥には階段がある。
何度も上がった。
お腹が空いた日も、家に帰りたくなかった日も。
上からおばさんが呼んでくれて、みあと一緒に夕飯を食べた。
今は、誰の足音もしなかった。
「……聞けないんだった。」
その声があまりに小さくて、椅子を近づけた。
何か言いたかった。
けれど、俺が知っている言葉では、どうにもならない気がした。
テーブルの端にあったティッシュの箱を、みあの手元へ寄せる。
みあは一枚取った。
目元へ押し当てるまで、少し時間がかかった。
俺は、黙って座っていた。
◇
しばらくして、みあが顔を上げた。
「ごめんね。」
首を横に振ると、また謝りそうな顔をした。
だから、先に立った。
「何か、飲む?」
「……うん。」
冷たい紅茶を片づけて、ケトルに水を入れる。
棚からカップを二つ出した。
どこに何があるかは、知っていた。
何年も、みあが俺のために用意してくれるのを見てきたから。
ティーバッグの箱を開けていると、背中に声がした。
「琉生。」
振り向いた。
みあは時計を見ていた。
「もう、帰る時間?」
帰らなければならない理由を、探しているような聞き方だった。
「まだ、平気。」
そう答えると、みあの指が、閉じかけた帳面から離れた。
「じゃあ……飲み終わるまで、一緒にいてくれる?」
湯の沸く音が、大きくなった。
俺は頷いた。
「うん。」
それだけ返すのに、喉が少し詰まった。
いつも、俺が言っていた。
まだ帰りたくない。
もう少し、ここにいたい。
みあは何度も、その続きを聞かずに隣へ座ってくれた。
そのみあが、俺を引き留めていた。
泣いているのに。
おじさんも、おばさんも、もう帰ってこないのに。
嬉しいと思ってしまった。
みあの寂しさがなくなるなら、そのほうがよかった。
今日のことも、明日の店のことも、何も心配せず眠ってほしかった。
それなのに、俺が帰らないと分かったときの、あの顔を。
ほんの少し、力の抜けた目元を。
もう一度見たいと思った。
カップを持つ手に、力が入った。
「……熱いから、気をつけて。」
いつも言われている言葉を、そのまま返した。
みあは両手でカップを包み、小さく頷いた。
◇
紅茶を飲み終えてから、二人で戸締まりをした。
表の鍵を確かめて、奥へ戻る。
みあが最後の灯りへ手を伸ばす前に、俺を見た。
「明日も、来る?」
「来ていいの?」
「うん。」
迷わず返ってきた声に、胸の奥が熱くなった。
「今日、琉生が来てくれて、よかった。」
その言葉を、みあは今も覚えているだろうか。
俺は忘れなかった。
翌日も、その次も、勝手口を叩いた。
何も頼まれない日には、座って学校の話をした。
花桶を洗う場所も、箒をしまう場所も、もう聞かずに済んだ。
◇
「琉生、そろそろ行かないと。」
目の前のみあの声に、顔を上げた。
窓から差す九月の午後の光が、テーブルの縁を照らしている。
あの夜の帳面は、もうここにはない。
今、みあの手元にあるのは、彼女の字で埋められた帳面だった。
もう、仕事へ向かう時間だった。
「うん。」
椅子を引く。
みあも立とうとしたから、そのままでいいと手で示した。
「また来るね。」
「うん。ありがとう。」
あの夜より、手伝えることは増えた。
それでも、両親に聞きたかったことを、代わりに答えてやることはできない。
店の灯りを消したあとの寂しさも、俺が来たくらいで、全部なくなるわけじゃない。
だから、話してほしかった。
困ったとき。
一人で考えて、眠れなくなる前に。
俺を呼んでほしかった。
勝手口へ向かいながら、振り返る。
みあは帳面を自分の前へ戻していた。
けれど、まだ開かず、俺を見送っていた。
十七歳の夜に言われたことを、今も胸の奥にしまっている。
来てくれて、よかった。
その一言が欲しくて通っているのだと知ったら、みあはどんな顔をするだろう。
「じゃあ、行ってくる。」
「うん。いってらっしゃい。」
扉を閉める前に、もう一度、その顔を見た。
みあが一人でも眠れる夜を願っていた。
その夜にも、俺の居場所があればいいと思っていた。




