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甘い蜜に溺れる花は夜に染まる  作者: アル


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8/15

6話 雨の底で、ほどける声

六月に入ってから、雨の日が続いていた。


入口のガラスには細い水の筋が幾つも流れ、その向こうで、紫陽花の鉢が濡れている。

私はカウンターに広げた包装紙を棚へ戻し、壁の時計を見上げた。


もうすぐ午後二時半になる。

そろそろ琉生が来るかもしれない。


店の奥に乾いたタオルを一枚置いておく。

傘を差していても、肩や髪を濡らしてくることがあるから。


入口のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ。」


顔を上げると、男の人が傘を畳んでいた。

濡れた紺色の上着。髪には、白いものが多く交じっている。


その人は花を見ずに、私を見た。


「……美秋ちゃん?」


すぐには、誰なのか分からなかった。

けれど、声を聞いて、記憶の奥にあった顔が重なる。


「琉生の、お父さん……?」


「ああ。久しぶりだね。」


最後に顔を合わせたのがいつだったのか、思い出せない。

私が覚えているより頬が痩せ、目元の皺が深くなっていた。


「まだ、お店を続けていたんだね。」


「はい。」


短く答えると、お父さんは店の奥へ視線を動かした。


「琉生は、ここに来ているかな。」


鋏の横に置いていた手を、引き寄せる。


「……何か、ご用ですか。」


「連絡がつかなくてね。昔から、ここにはよく来ていただろう。美秋ちゃんなら、何か知っているかと思って。」


傘の先から落ちた雫が、床に小さな染みを作った。


「一度、謝りたくて。」


その言葉に、私は顔を上げた。


お父さんは、濡れた傘を両手で持ち直した。


「妻が出ていってから、あの子のことを、ろくに見てやらなかったんだ。食事も用意しないで、何日も家を空けたりして。」


雨が、庇を叩いていた。


「酒を飲むと、腹が立って……手を上げたこともあった。」


指先が、冷たくなる。


琉生が、いつもお腹を空かせていたことは覚えている。

夕飯を食べていくかと聞くと、小さく頷いたことも。

帰る時間になってから、急に口数が少なくなることもあった。


けれど、家の中で何をされていたのか。

琉生は、自分から話さなかった。


「あの頃は、俺も余裕がなくてね。」


お父さんの声が続く。


「今は酒もやめたんだ。遅いとは思うけど、ちゃんと反省している。あの子にも、それを伝えたくて。」


何と返せばいいのか、分からなかった。


私に頭を下げられても。

私が、その言葉を受け取っていいはずがない。


そのとき、奥でノックが響いた。


トントン、と二回。

少し間を置いて、もう一度。


いつもなら、すぐに返事をしていた。


今日は声が出るより先に、ドアノブの回る音がした。


「みあ、開いてたから――。」


聞き慣れた声に、胸が詰まる。


琉生が、店へ続く出入口に顔を出した。

髪の先が少し濡れている。

私を見つけた口元には、まだ、いつもの笑みがあった。


その目が、入口のほうへ動いた。


笑みが消えた。


◇


「琉生。」


お父さんが呼んだ。


琉生は、何も答えなかった。

片手に持ったスマートフォンを、ゆっくりと下ろす。


「……何で、ここにいるの。」


低い声だった。


お父さんは、ほっとしたように息をついた。


「会えてよかった。お前と、一度ちゃんと話がしたくて。」


「何で、ここなんだよ。」


今度は、少し声が大きくなった。


琉生の視線が、私へ向く。

何かを確かめるような、ひどく落ち着かない目だった。


「みあに、何話したの。」


「昔のことだよ。お前に悪いことをしたって。美秋ちゃんにも、随分世話になったから。」


「やめろよ。」


短い言葉に、お父さんの口が閉じた。


「勝手に来て、勝手に……。」


続きが、途切れる。

琉生は一度唇を結び、私から目をそらした。


いつもなら、私が困るより先に笑ってくれる。

少しからかうようなことを言って、何でもない顔で隣に立つ。


今は、そのどれもなかった。


「琉生。俺は、謝りに来たんだ。」


お父さんが、一歩近づいた。


「もう、あの頃とは違う。一度でいいから、話を聞いてくれ。」


伸ばしかけた手に、琉生の肩が小さく跳ねた。


靴底が床を擦る。

後ろへ引いた足が、出入口の縁に当たった。


その音を聞いた瞬間、私はカウンターを出ていた。


「今日は、帰ってください。」


自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


お父さんが、私を見る。


「でも、せっかく会えたんだから、少しだけでも。」


「今は、話せる様子ではありません。」


琉生のほうを振り返らずに、続けた。


「お願いします。帰ってください。」


店の中が静かになった。


お父さんは私の向こうを見ていたけれど、やがて、伸ばしかけていた手を下ろした。


「……分かった。」


傘を持ち直し、入口へ向かう。

扉の前で、一度足が止まった。


「琉生。悪かったと思っているのは、本当なんだ。」


背後から、返事はなかった。


ベルが鳴る。

開いた扉から湿った風が入り、カウンターのリボンが揺れた。


傘が開くのを、ガラス越しに見送る。

その姿が路地の角を曲がってから、私は入口の札を裏返した。


少しの間だけ、店を閉めようと思った。


◇


振り返ると、琉生はまだ同じ場所に立っていた。


「……ごめん。」


顔を上げないまま、彼が言った。


「店なのに。大きい声、出して。」


「ううん。」


近づくと、スマートフォンを握る指に、強く力が入っているのが見えた。


「奥に座ろう。」


琉生は少し遅れて頷いた。


いつものテーブル。

いつもの椅子。


けれど、腰を下ろした琉生は、上着も脱がず、膝の上を見ていた。

私も向かいへは行かず、隣の椅子を引いた。


雨の音が、さっきより近かった。


「……何、聞いた?」


琉生が尋ねる。


どこまで答えていいのか、少し迷った。

それでも、聞いていないふりはしたくなかった。


「ご飯を用意してもらえなかったことと。……お酒を飲むと、叩かれたこと。」


膝の上で、彼の指が動いた。


私は、その先を尋ねなかった。


いつからだったのか。

どれくらい、つらかったのか。


知りたいと思う気持ちはあった。

でも、今ここで思い出してもらう必要はなかった。


「……昔の話だよ。」


琉生はそう言って、口元だけで笑おうとした。


「もう、平気だと思ってたんだけど。」


その笑みは、すぐに崩れた。


「声、聞いたら……。」


続きを待っても、言葉は出てこなかった。

代わりに、浅い息がこぼれる。


私はテーブルに置かれたタオルへ手を伸ばした。

来たら渡そうと思って、置いておいたものだった。


「髪、濡れてるよ。」


差し出すと、琉生はそれを見てから、ゆっくり受け取った。


両手で持ったきり、髪には当てない。

乾いた布が、指の間で小さくよじれた。


「話さなくていいよ。」


俯いた顔へ、声をかける。


「今は、ここにいよう。」


琉生の喉が動いた。


何か飲めるものを用意しようと、椅子から少し腰を浮かせる。

その瞬間、袖が引かれた。


強い力ではなかった。

けれど、私はすぐに座り直した。


琉生が、私の袖を掴んでいた。


「……まだ、行かないで。」


顔を見られたくないように俯いたまま、かすれた声で言う。


胸の奥が、痛くなった。


「行かないよ。」


袖を掴んだ手に、自分の手を重ねる。

冷えた指先が、一度だけ動いた。


「ここにいるから。」


しばらくして、琉生の額が、私の肩に触れた。


少しかがまなければ届かない高さに、彼は黙って頭を預けた。

濡れた髪が首元に触れる。


私は空いている手を、その背中へ回した。


挿絵(By みてみん)


薄い上着の下で、息をするたびに肩が上下する。

何度か背中を撫でているうちに、その間隔が少しずつ長くなった。


私より背が高くなっても。

重い花を、軽々と運べるようになっても。


こんなふうに、触れるまで分からないことがある。


今日は、私がそばにいなくては。

一人で平気な顔をさせたくなかった。


「みあ。」


肩口で、くぐもった声がした。


「うん。」


「……もう少し、このままでいて。」


背中に添えていた手が止まる。


いつもは私のほうが、もう帰るのかと時計を気にしていた。

次に来る日を聞きたくなって、飲み終えたカップを片づけるふりをしたこともある。


今日は、琉生が私を引き留めている。


「うん。いいよ。」


答えると、袖を掴む指から、少しだけ力が抜けた。

それでも、手は離れなかった。


小さい頃も、琉生は何も話さず、私のそばに座っていることがあった。

お腹が空いているなら、何か食べさせてあげられた。

眠そうなら、毛布を掛けてあげられた。


けれど、今知った痛みに、私が何をしてあげられるのかは分からなかった。


背中に添えた手を、ゆっくり動かす。


今は、こうしていればいい。

琉生が自分で、そばにいてほしいと言ってくれたのだから。


何もできずにいるようだった胸のつかえが、少しだけほどけた。


大人になって、私の手を借りなくてもできることが増えた。

最近では、私のほうが助けられてばかりいる。


それでも、つらいときには、こうして頼ってくれる。


袖に残る指の感触を確かめながら、私はもう一度、彼の背中を撫でた。


窓の外では、雨が降り続いている。


琉生が自分から顔を上げるまでは、このままでいよう。

そう思うと、添えていた手にも、ようやく迷いがなくなった。


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