6話 雨の底で、ほどける声
六月に入ってから、雨の日が続いていた。
入口のガラスには細い水の筋が幾つも流れ、その向こうで、紫陽花の鉢が濡れている。
私はカウンターに広げた包装紙を棚へ戻し、壁の時計を見上げた。
もうすぐ午後二時半になる。
そろそろ琉生が来るかもしれない。
店の奥に乾いたタオルを一枚置いておく。
傘を差していても、肩や髪を濡らしてくることがあるから。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
顔を上げると、男の人が傘を畳んでいた。
濡れた紺色の上着。髪には、白いものが多く交じっている。
その人は花を見ずに、私を見た。
「……美秋ちゃん?」
すぐには、誰なのか分からなかった。
けれど、声を聞いて、記憶の奥にあった顔が重なる。
「琉生の、お父さん……?」
「ああ。久しぶりだね。」
最後に顔を合わせたのがいつだったのか、思い出せない。
私が覚えているより頬が痩せ、目元の皺が深くなっていた。
「まだ、お店を続けていたんだね。」
「はい。」
短く答えると、お父さんは店の奥へ視線を動かした。
「琉生は、ここに来ているかな。」
鋏の横に置いていた手を、引き寄せる。
「……何か、ご用ですか。」
「連絡がつかなくてね。昔から、ここにはよく来ていただろう。美秋ちゃんなら、何か知っているかと思って。」
傘の先から落ちた雫が、床に小さな染みを作った。
「一度、謝りたくて。」
その言葉に、私は顔を上げた。
お父さんは、濡れた傘を両手で持ち直した。
「妻が出ていってから、あの子のことを、ろくに見てやらなかったんだ。食事も用意しないで、何日も家を空けたりして。」
雨が、庇を叩いていた。
「酒を飲むと、腹が立って……手を上げたこともあった。」
指先が、冷たくなる。
琉生が、いつもお腹を空かせていたことは覚えている。
夕飯を食べていくかと聞くと、小さく頷いたことも。
帰る時間になってから、急に口数が少なくなることもあった。
けれど、家の中で何をされていたのか。
琉生は、自分から話さなかった。
「あの頃は、俺も余裕がなくてね。」
お父さんの声が続く。
「今は酒もやめたんだ。遅いとは思うけど、ちゃんと反省している。あの子にも、それを伝えたくて。」
何と返せばいいのか、分からなかった。
私に頭を下げられても。
私が、その言葉を受け取っていいはずがない。
そのとき、奥でノックが響いた。
トントン、と二回。
少し間を置いて、もう一度。
いつもなら、すぐに返事をしていた。
今日は声が出るより先に、ドアノブの回る音がした。
「みあ、開いてたから――。」
聞き慣れた声に、胸が詰まる。
琉生が、店へ続く出入口に顔を出した。
髪の先が少し濡れている。
私を見つけた口元には、まだ、いつもの笑みがあった。
その目が、入口のほうへ動いた。
笑みが消えた。
◇
「琉生。」
お父さんが呼んだ。
琉生は、何も答えなかった。
片手に持ったスマートフォンを、ゆっくりと下ろす。
「……何で、ここにいるの。」
低い声だった。
お父さんは、ほっとしたように息をついた。
「会えてよかった。お前と、一度ちゃんと話がしたくて。」
「何で、ここなんだよ。」
今度は、少し声が大きくなった。
琉生の視線が、私へ向く。
何かを確かめるような、ひどく落ち着かない目だった。
「みあに、何話したの。」
「昔のことだよ。お前に悪いことをしたって。美秋ちゃんにも、随分世話になったから。」
「やめろよ。」
短い言葉に、お父さんの口が閉じた。
「勝手に来て、勝手に……。」
続きが、途切れる。
琉生は一度唇を結び、私から目をそらした。
いつもなら、私が困るより先に笑ってくれる。
少しからかうようなことを言って、何でもない顔で隣に立つ。
今は、そのどれもなかった。
「琉生。俺は、謝りに来たんだ。」
お父さんが、一歩近づいた。
「もう、あの頃とは違う。一度でいいから、話を聞いてくれ。」
伸ばしかけた手に、琉生の肩が小さく跳ねた。
靴底が床を擦る。
後ろへ引いた足が、出入口の縁に当たった。
その音を聞いた瞬間、私はカウンターを出ていた。
「今日は、帰ってください。」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
お父さんが、私を見る。
「でも、せっかく会えたんだから、少しだけでも。」
「今は、話せる様子ではありません。」
琉生のほうを振り返らずに、続けた。
「お願いします。帰ってください。」
店の中が静かになった。
お父さんは私の向こうを見ていたけれど、やがて、伸ばしかけていた手を下ろした。
「……分かった。」
傘を持ち直し、入口へ向かう。
扉の前で、一度足が止まった。
「琉生。悪かったと思っているのは、本当なんだ。」
背後から、返事はなかった。
ベルが鳴る。
開いた扉から湿った風が入り、カウンターのリボンが揺れた。
傘が開くのを、ガラス越しに見送る。
その姿が路地の角を曲がってから、私は入口の札を裏返した。
少しの間だけ、店を閉めようと思った。
◇
振り返ると、琉生はまだ同じ場所に立っていた。
「……ごめん。」
顔を上げないまま、彼が言った。
「店なのに。大きい声、出して。」
「ううん。」
近づくと、スマートフォンを握る指に、強く力が入っているのが見えた。
「奥に座ろう。」
琉生は少し遅れて頷いた。
いつものテーブル。
いつもの椅子。
けれど、腰を下ろした琉生は、上着も脱がず、膝の上を見ていた。
私も向かいへは行かず、隣の椅子を引いた。
雨の音が、さっきより近かった。
「……何、聞いた?」
琉生が尋ねる。
どこまで答えていいのか、少し迷った。
それでも、聞いていないふりはしたくなかった。
「ご飯を用意してもらえなかったことと。……お酒を飲むと、叩かれたこと。」
膝の上で、彼の指が動いた。
私は、その先を尋ねなかった。
いつからだったのか。
どれくらい、つらかったのか。
知りたいと思う気持ちはあった。
でも、今ここで思い出してもらう必要はなかった。
「……昔の話だよ。」
琉生はそう言って、口元だけで笑おうとした。
「もう、平気だと思ってたんだけど。」
その笑みは、すぐに崩れた。
「声、聞いたら……。」
続きを待っても、言葉は出てこなかった。
代わりに、浅い息がこぼれる。
私はテーブルに置かれたタオルへ手を伸ばした。
来たら渡そうと思って、置いておいたものだった。
「髪、濡れてるよ。」
差し出すと、琉生はそれを見てから、ゆっくり受け取った。
両手で持ったきり、髪には当てない。
乾いた布が、指の間で小さくよじれた。
「話さなくていいよ。」
俯いた顔へ、声をかける。
「今は、ここにいよう。」
琉生の喉が動いた。
何か飲めるものを用意しようと、椅子から少し腰を浮かせる。
その瞬間、袖が引かれた。
強い力ではなかった。
けれど、私はすぐに座り直した。
琉生が、私の袖を掴んでいた。
「……まだ、行かないで。」
顔を見られたくないように俯いたまま、かすれた声で言う。
胸の奥が、痛くなった。
「行かないよ。」
袖を掴んだ手に、自分の手を重ねる。
冷えた指先が、一度だけ動いた。
「ここにいるから。」
しばらくして、琉生の額が、私の肩に触れた。
少しかがまなければ届かない高さに、彼は黙って頭を預けた。
濡れた髪が首元に触れる。
私は空いている手を、その背中へ回した。
薄い上着の下で、息をするたびに肩が上下する。
何度か背中を撫でているうちに、その間隔が少しずつ長くなった。
私より背が高くなっても。
重い花を、軽々と運べるようになっても。
こんなふうに、触れるまで分からないことがある。
今日は、私がそばにいなくては。
一人で平気な顔をさせたくなかった。
「みあ。」
肩口で、くぐもった声がした。
「うん。」
「……もう少し、このままでいて。」
背中に添えていた手が止まる。
いつもは私のほうが、もう帰るのかと時計を気にしていた。
次に来る日を聞きたくなって、飲み終えたカップを片づけるふりをしたこともある。
今日は、琉生が私を引き留めている。
「うん。いいよ。」
答えると、袖を掴む指から、少しだけ力が抜けた。
それでも、手は離れなかった。
小さい頃も、琉生は何も話さず、私のそばに座っていることがあった。
お腹が空いているなら、何か食べさせてあげられた。
眠そうなら、毛布を掛けてあげられた。
けれど、今知った痛みに、私が何をしてあげられるのかは分からなかった。
背中に添えた手を、ゆっくり動かす。
今は、こうしていればいい。
琉生が自分で、そばにいてほしいと言ってくれたのだから。
何もできずにいるようだった胸のつかえが、少しだけほどけた。
大人になって、私の手を借りなくてもできることが増えた。
最近では、私のほうが助けられてばかりいる。
それでも、つらいときには、こうして頼ってくれる。
袖に残る指の感触を確かめながら、私はもう一度、彼の背中を撫でた。
窓の外では、雨が降り続いている。
琉生が自分から顔を上げるまでは、このままでいよう。
そう思うと、添えていた手にも、ようやく迷いがなくなった。




