5話 花の陰に、沈む言葉
開店してから、入口のベルが何度も鳴っていた。
母の日を翌日に控えた店には、赤やピンクのカーネーションが並んでいる。
普段は包装紙を広げているカウンターにも、受け取りを待つ花束が増えていた。
壁に留めた予約の控えを、一枚ずつ確かめる。
午前中のうちに、もう少し準備を進めておきたかった。
「こんにちは。」
声に顔を上げると、山本さんが入口に立っていた。
細い縁の眼鏡をかけた、四十代の男性。
月に何度か、自宅に飾る花を買いに来てくださる常連さんだ。いつも襟の整ったシャツを着て、花の扱い方を真面目に聞いて帰られる。
「いらっしゃいませ。」
「今日は、母のところへ行くので。少し早いんですが。」
「母の日のお花ですね。どんなお色がお好きですか?」
「明るい色が好きだと思います。あまり大きくなくてもいいので。」
濃いピンクのカーネーションに、白い小花を合わせる。
手元で向きを変えてお見せすると、山本さんは目元を和らげた。
「いいですね。喜びそうです。」
花を包んでいる間も、山本さんは少し離れたところから、私の手元を見ていた。
リボンを結び終えた頃、控えめに声をかけられる。
「秋野さん。」
「はい。」
「母の日が落ち着いたら、一度お食事でもいかがですか。」
指先に残っていたリボンの端を離す。
顔を上げると、山本さんは眼鏡の位置を直した。
「お店の外でも、ゆっくりお話ししてみたくて。」
穏やかな声に、返事をためらった。
山本さんは、いつも丁寧に花を扱ってくださる。
話していて、嫌な思いをしたこともない。
けれど、店を離れて、二人で向かい合ったら。
私は、何を話せるだろう。
花のことなら、自然に言葉が出てくる。
その話がなくなったあとも、私といて楽しいと思ってもらえる自信はなかった。
今は親しくしてくださっていても、もっと私を知れば、気持ちが変わるかもしれない。
そういう寂しさには、もう、あまり触れたくなかった。
「……ありがとうございます。でも、お食事は遠慮しておきますね。」
笑顔を作って、そう答えた。
「そうですか。急に、すみません。」
「いえ。いつもありがとうございます。」
それ以上は尋ねられず、少しだけほっとした。
そのことが、かすかに寂しかった。
花束を差し出すと、山本さんは両手で受け取った。
「では、また。」
「はい。お母様にも、喜んでいただけるといいですね。」
ベルが鳴り、その背中がガラス戸の向こうへ遠ざかる。
何度も顔を合わせているから、気軽に誘ってくださっただけなのかもしれない。
そう思うことにして、カウンターに残った葉を集めた。
次の注文の控えを、手元へ寄せる。
ほどなく、また扉が開いた。
◇
午後二時を過ぎた頃、勝手口に聞き慣れたノックが響いた。
「開いてるよ。」
花束を持ったまま返事をすると、琉生が顔を覗かせた。
「みあ。忙しそうだね。」
「うん。明日の準備もしたいんだけど、なかなか進まなくて。」
「何からやればいい?」
そう言いながら、もう上着を脱いでいる。
「手伝ってくれるの?」
「そのつもりで来たよ。」
素直に甘えることにした。
「じゃあ、奥の空いた花桶、洗ってもらっていい? あと、持ち帰り用の袋も出しておきたくて。」
「分かった。」
琉生は袖をまくり、重ねてあった花桶を持ち上げた。
私は作りかけの花束へ戻る。
その間にもお客様が来て、電話が鳴った。
花を選び、包み、渡す。
一つ終わると、次の控えへ目を向ける。
昔、母もこの時期には、なかなか椅子へ座らなかった。
父に声をかけられても、あと一つだけ、とリボンを結んでいた。
同じ言葉を、私も今日は何度か口にしている。
「みあ、これでいい?」
濡れた手を拭き終えた琉生が、カウンターの隣に立っていた。
差し出されたのは、大きいほうの持ち帰り袋だった。
「うん。ありがとう。今、取ろうと思ってた。」
「この花束、入れるんでしょ。」
頷いて、受け取る。
袋の場所も、花束を入れる向きも、いつの間にか覚えてくれている。
説明をしなくても手が借りられることが、今日はとてもありがたかった。
「お待たせしました。」
お客様に花を渡して振り返ると、カウンターに散っていた紙の切れ端が片づいていた。
その空いた場所に、次の包装紙を広げる。
隣では、琉生が細く残ったリボンを巻き直していた。
◇
午後四時を回って、ようやく客足が途切れた。
鋏を置くと、指の付け根に少し痛みを感じた。
手を開いたり閉じたりしていると、琉生がこちらを見る。
「少し休んだら。」
「うん。でも、明日の分の袋だけ出しておきたいな。」
「それは俺がやるから。」
作業台の横の丸椅子を寄せてくれる。
座って初めて、足の裏がじんと疲れていることに気づいた。
「ありがとう。助かる。」
琉生は棚から袋の束を下ろし、持ち手が絡まないよう、一枚ずつ揃え始めた。
「母の日が終わったら、少し休みなよ。」
「うん。たまには、外でゆっくりご飯でも食べたいな。」
「行きたいところ、あるの?」
「……前に、気になってたお店があったんだけどね。」
膝の上で、エプロンの皺を伸ばす。
「何年か前、何度か一緒にご飯を食べた人がいたの。その人と、母の日が終わったらまた会おうって約束してて。」
行きたい店を選んでおいて、と言われていた。
夜、二階の部屋で、いくつも店の写真を見比べた。
窓際の席がある、小さな店。
食事のあとに出てくるデザートがおいしそうで、ここにしようと決めた。
「お店も決めてたんだけど、直前になって、仕事が忙しくなったって。」
落ち着いたら連絡するね。
最後に届いた言葉を、そのときは疑わなかった。
私も忙しかったから、そういうことはあると思った。
五月が終わっても、次の約束は決まらなかった。
「私も、忙しいって話ばかりしてたから。面倒になっちゃったのかもね。」
琉生は、袋を一枚持ったまま、手を止めていた。
「……私だけ、楽しみにしてたのかも。」
笑って言うと、少し情けなかった。
もう、顔もはっきりとは思い出せない。
それなのに、何を着ていこうかと考えたことや、連絡が来るたびにスマートフォンを手に取ったことは、まだ覚えている。
次も会ってくれる。
そんな小さなことを、あの頃は嬉しいと思っていた。
「何がいけなかったんだろうね。」
顔を上げると、琉生と目が合った。
返事はなかった。
彼は私を見たあと、手元へ視線を落とした。
袋の持ち手を、ゆっくりと揃え直す。
困らせてしまったのかもしれない。
今さら、こんな話をされても。
「ごめんね。昔のことなのに。」
そう付け足したところで、入口のベルが鳴った。
私は立ち上がり、エプロンを整えた。
「いらっしゃいませ。」
花桶の前で足を止めたお客様へ向かう。
後ろで、紙の擦れる小さな音がした。
◇
次のお客様を見送る頃には、店先の光が少し傾いていた。
「みあ、そろそろ行くね。」
琉生が、椅子に掛けていた上着を手に取る。
壁の時計を見て、慌てて頷いた。
お礼に何か飲んでもらおうと思っていたのに、結局、落ち着いて座ってもらう時間もなかった。
「ごめんね。ずっと働かせちゃった。」
「俺がやりたくて来てるんだから。」
「でも、疲れたでしょ。これからお仕事なのに。」
「平気だよ。」
そう言って笑う顔に、私も少し笑った。
洗い終えた花桶が、奥に重ねてある。
明日使う袋も、手の届くところに揃っていた。
一人だったら、まだあの花桶さえ洗えていなかったかもしれない。
勝手口へ向かう背中に、声をかけた。
「琉生。」
「ん?」
「明日も、少しだけ頼んでもいい?」
振り返った琉生の口元が、ふっと緩んだ。
「もちろん。今日と同じくらいには来られるよ。」
「ありがとう。無理はしないでね。」
「みあもね。」
いつものように返されて、頷く。
「いってらっしゃい。お仕事、頑張ってね。」
「うん。また明日。」
扉が閉まった。
しばらく、その前に立っていた。
明日の予約は、今日より多い。朝のうちに済ませておきたいことも、まだいくつもある。
それでも、午後になれば琉生が来てくれる。
そう思うと、壁に並ぶ控えを、さっきより落ち着いて見られた。
私はカウンターの横に積んでいた箱を、少し奥へ寄せた。
明日、琉生が動きやすいように。




