4.5話 琉生side②
みあが店へ出ていくと、奥は少し静かになった。
カップを二つ、テーブルへ置く。
一つを春馬くんの前へ滑らせてから、俺も椅子に座った。
「ありがとう。」
「うん。」
足元の箱には、淡いピンクの花が入っていた。
透明なフィルムの内側で、白い小花が細い枝を広げている。
みあが、春馬くんたちの結婚記念日のお祝いに用意した花だった。
「結婚して、もう一年なんだね。」
「早いよな。自分でもそう思う。」
春馬くんはカップを持ち上げ、少しだけ息を吹きかけた。
「家のほうは?みあから、埼玉に買ったって聞いたけど。」
「だいぶ慣れたよ。最初は、部屋が増えた分、どこに何を置いたか分からなくなってたけど。」
「春馬くん、昔もよく探し物してたよね。」
「よく覚えてるな。」
「みあと一緒に探したこと、あるから。」
サッカーの練習へ行く直前になって、片方の靴下がないと言い出す。
俺たちが探している間に、本人は別のものを取りに二階へ行く。
そんなことが、何度かあった。
春馬くんが、苦笑する。
「あれは悪かった。」
「今さらだね。」
他愛のない話だった。
昔から顔を知っている人と、久しぶりに会ったときの、短い近況報告。
店のほうから、みあの声が聞こえた。
「少し、白を入れてみましょうか。」
顔を向けると、出入口の向こうに、花を持つ手が見えた。
俺がここで待っていることなんて、今は気にしていない。
それでいい。
仕事をしているときのみあを見るのは、好きだった。
「なあ、琉生。」
呼ばれて、視線を戻す。
春馬くんは、カップから手を離していた。
「姉ちゃんのこと、好きなの?」
唐突だった。
けれど、答えに迷うような質問ではなかった。
「好きだよ。」
春馬くんの目を見て、続ける。
「ずっと前から、ずっと好き。」
春馬くんは、何も言わなかった。
俺を見たまま、少しだけ眉を寄せる。
からかわれるかと思った。
いつからだとか、本人には言ったのかとか、聞かれるのかもしれないとも思った。
けれど、春馬くんは一度店のほうへ目をやると、それきり何も尋ねなかった。
俺も、それ以上は話さなかった。
カップの中で、ミルクティーの表面がかすかに揺れている。
ずっと前から。
口にした言葉の先に、一つの部屋が浮かんだ。
今も、この天井の上にある部屋。
俺の知らない顔で笑っていた、十七歳のみあ。
◇
小学六年生の頃だった。
その日も俺は、いつものように花屋へ行った。
店に入ると、みあのお母さんが、カウンターで花を包んでいた。
「こんにちは。」
「いらっしゃい、琉生くん。」
顔を上げたお母さんが、俺の視線を追って笑う。
「みあなら、上にいるよ。」
「うん。」
何も疑わずに、奥へ進んだ。
靴を脱いで、階段を上がる。
二階へ行けば、みあがいる。
俺が来ると、みあはいつも手を止めて、笑って迎えてくれた。
俺はそれを、当たり前のことだと思っていた。
「みあー。」
ノックもせずに、部屋のドアを開けた。
窓際の低いテーブルに、教科書とノートが広げられていた。
その向こうで、高校二年生のみあが、男と並んで座っていた。
肩が触れるくらい近くに。
テーブルの端では、二人の手が重なっていた。
みあが、何か言って笑った。
そのあと、男を見上げて、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
ほんの一瞬だった。
それでも、分かってしまった。
俺に向ける笑顔とは、違った。
「……琉生?」
みあが顔を上げた。
男の手から指を離し、立ち上がろうとする。
「来てたんだ。」
俺は返事ができなかった。
「弟?」
男が尋ねた。
「ううん。近所の子。小さい頃から、よくうちに来てるの。」
近所の子。
間違ってはいない。
俺はみあの弟ではないし、家族でもない。
でも、二人の間からそう説明されると、急に、自分だけが部屋の外にいるような気がした。
「琉生。この人、同じ学校の人でね。」
みあが、少しだけ言いよどむ。
さっきと同じ顔で、隣を見た。
「私の、彼氏なの。」
知っている言葉だった。
どういう相手のことをいうのかも、分かっていた。
なのに、みあの口から聞くと、うまく意味がつながらなかった。
だって、みあは。
そこまで考えて、その先が続かない。
何を言えば、この男がいなくなるのか分からなかった。
鼻の奥が痛くなった。
瞬きをすると、目の前がぼやけた。
「琉生?」
みあの声が変わる。
泣くつもりなんてなかった。
小さな子供みたいに、ここで泣きたくなんてなかった。
なのに、一度こぼれると止まらなかった。
「どうしたの。何かあった?」
近づいてきたみあの向こうで、男が困ったように立ち上がる。
その姿が嫌で、俺はみあの横をすり抜けた。
「みあをとるな!」
男の前まで行って、叫んだ。
声が裏返った。
涙で顔がぐしゃぐしゃなのも、相手が困っているのも、分かっていた。
それでも、ほかの言葉が出てこなかった。
「琉生、落ち着いて。」
みあが俺の肩に手を置いた。
男は何か言いかけ、それから、みあを見た。
「……今日は、帰るね。」
「あ、待って。」
「また連絡する。」
テーブルの上の教科書を鞄へしまい、男が部屋を出ていく。
みあは、俺の肩に置いた手をいったん離した。
「ちょっと、ここで待ってて。」
そう言って、男のあとを追った。
階段を下りていく足音が、二つ。
俺は動けないまま、それを聞いていた。
男がいなくなれば、元どおりになるはずだった。
なのに、みあまで部屋を出ていってしまった。
二人が座っていた場所に、みあのノートだけが開いていた。
◇
戻ってきたみあは、俺の前にしゃがんだ。
「少し、落ち着いた?」
頷くと、ハンカチで頬を拭いてくれた。
濡れたところに布が触れて、少しだけ冷たかった。
「びっくりしたよ。急に泣くんだもん。」
みあの声は、いつもと同じだった。
俺が転んだときも、何も言わずに店の隅へ座っていたときも、こうして顔を覗き込んでくれた。
「でも、あんな言い方はだめだよ。あの人も、びっくりしてた。」
俺は、膝の上で手を握った。
「……うん。」
「それと、部屋に入るときはノックしてね。」
もう一度、頷いた。
みあは俺の返事を待ってから、そっと頭に手を置いた。
いつもなら、それだけで安心できた。
花屋に来てよかったと思えた。
でも、その日は違った。
戻ってきてくれた。
俺の顔を見て、名前を呼んでくれた。
欲しかったはずのことが、全部戻ってきている。
それなのに、胸の奥は、少しも静かにならなかった。
みあはもう、さっきみたいには笑わなかった。
あの男の顔を見て、恥ずかしそうに目を伏せたみあ。
その表情だけが、ハンカチで涙を拭われても、消えずに残っていた。
俺が九歳の時に、結婚の約束をした。
そのときから、みあが好きだった。
けれど、いつかという言葉の中にあった願いが、その日、急に痛くなった。
大きくなるのを待っている間にも、みあは誰かを好きになる。
俺の知らないところで、その人のために笑う。
そのことを、初めて知った。
「もう大丈夫?」
みあが、優しく尋ねる。
俺は頷いた。
大丈夫ではなかった。
でも、何が欲しいのかを言葉にしたら、もっと困らせる気がした。
頭を撫でてくれる手に、黙って触れた。
この手で、あの人と手をつないでいた。
俺も、そうしてほしかった。
泣いたから慰めるためにではなく、みあのほうから、俺の手を取りたいと思ってほしかった。
◇
「お待たせ。」
声に、顔を上げた。
みあが、空いた花の包みを片づけながら戻ってくる。
春馬くんはカップを置き、足元の箱へ手を伸ばした。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るよ。」
「うん。待たせちゃって、ごめんね。」
「大丈夫。お祝い、ありがとう。二人で飾るよ。」
春馬くんが立ち上がると、みあは箱の中をもう一度確かめた。
器の周りの詰め物を、指先で少し直す。
「奥さんに、よろしくね。お水は毎日、見てあげて。」
「分かった。」
花を両手で持った春馬くんが、俺にも軽く頷く。
「じゃあな、琉生。」
「うん。またね。」
みあが、店の入口まで見送りに行った。
ベルが鳴って、二人の声が遠ざかる。
テーブルには、手をつけられなかったみあのミルクティーが残っていた。
カップの縁へ手を添えると、もう、ほとんど熱くない。
「何、話してたの?」
戻ってきたみあが尋ねた。
「新しい家のこととか。昔のこととか。」
「春馬、何か変なこと言ってなかった?」
「別に。」
答えると、みあは安心したように笑った。
それから時計を見上げ、俺に目を戻す。
「琉生、時間は大丈夫?」
「うん。もう行く。」
残っていたミルクティーを飲み、椅子を引いた。
「ごちそうさま。」
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
勝手口へ向かう俺を、みあが見送る。
その顔に、まだ俺の知らないものがある。
あの日、ほかの男に向けられていた笑顔を、俺は今も覚えていた。
ドアノブに手をかけ、振り返る。
「みあ。」
「ん?」
俺を見た。
呼べば、いつものように。
「……また、来るね。」
「うん。待ってる。」
その言葉を受け取って、扉を閉めた。
一枚の扉を隔てれば、みあはすぐに仕事へ戻るのだろう。
俺がどんな顔で立っているのかも、知らないまま。
泣けば向けてもらえる優しさには、もう、何年も前から満たされていなかった。
欲しいのは、あの日、俺を泣かせたほうの笑顔だった。




