4話 贈る花に、こぼれた本音
淡いピンクの花の間に、白い小花を添える。
器をゆっくり回し、どこから見ても花が重なりすぎていないことを確かめてから、私は鋏を置いた。
夕方の光が、カウンターの端まで届いている。
花びらを包む薄いフィルムが、その光を受けてかすかに鳴った。
入口のベルが、からん、と鳴る。
「姉ちゃん、来たよ。」
顔を上げると、弟の春馬が扉を押さえたまま立っていた。
「待ってたよ。ちょうど今、仕上がったところ。」
二つ年下の春馬は、去年結婚した。
今は埼玉に一軒家を買い、奥さんと二人で暮らしている。
今日は初めての結婚記念日で、私から二人へのお祝いにアレンジメントを用意した。
春馬は、それを受け取りに来てくれたのだった。
カウンターへ近づいた春馬が、花を覗き込む。
「おお。いいね。」
「新しいおうちに飾ってもらえたらと思って。どうかな。」
「うん。こういうの、好きだと思う。」
答えながら、春馬が少し笑った。
花を見ているのに、その向こうにいる人のことを考えている顔だった。
「これ、そのまま飾れるんだよな?」
「うん。器に入ったままで大丈夫。お水の足し方も、ここに書いてあるから。」
小さなカードを添えると、春馬は真面目な顔で目を通した。
「車、近くに停めてある。倒れないようにするには、どこに置けばいい?」
「座席だと傾いちゃうから、平らなところに。この箱に入れておくね。周りも少し詰めておくから。」
「助かる。」
箱を用意しながら、思わず笑ってしまった。
「何だよ。」
「昔はお花になんて、全然興味なかったのにと思って。」
「今も詳しくはないよ。」
「でも、ちゃんと持って帰る方法は聞くんだね。」
春馬が、少しだけ視線をそらす。
「せっかく作ってくれたんだから、きれいなまま持って帰りたいだろ。」
「うん。そうだね。」
子供の頃の春馬は、いつもサッカーボールを追いかけていた。
学校から帰ってくると、鞄を置くなり外へ飛び出していく。
店を手伝ってと声をかけても、聞こえたのか聞こえなかったのか、返事だけしていなくなることも多かった。
泥のついた靴で店へ入り、母に叱られていた姿を、今でもよく覚えている。
その弟が今は、家で待つ人のために、花を大切に持ち帰ろうとしている。
箱の底を支える手に、銀色の結婚指輪が見えた。
もう一年たつのに、ふとしたときに目が留まる。
「結婚記念日、おめでとう。二人で飾ってね。」
改めて言うと、春馬が照れくさそうに笑った。
「ありがとう。」
◇
箱を持った春馬を、店の奥へ招いた。
「少し飲んでいく?紅茶でよければ。」
「うん。まだ時間あるから。」
春馬は小さなテーブルの椅子を引き、慣れた様子で腰を下ろした。
足元には、花の入った箱を置く。
「新しい家はどう?もう片づいた?」
「だいたいは。まだ開けてない段ボール、何個かあるけど。」
「それ、ずっとそのままになるやつじゃない?」
「この前も同じこと言われた。」
誰に、とは聞かなくても分かった。
私が笑うと、春馬も笑った。
電気ケトルに水を入れ、棚からカップを取り出す。
「早いよね。結婚して、もう一年なんて。家も買って、すっかり落ち着いちゃって。」
「落ち着いたっていうか。やることは、まだいろいろあるよ。」
「それでも、二人で考えられるんでしょ。」
何気なく口にしてから、少しだけ羨ましいのだと気づいた。
どこに家具を置くか。
まだ片づいていない荷物を、いつ開けるか。
そんな小さなことを、一緒に決める相手がいる。
「私なんて、今年で三十なのに。相手もいなくて。」
笑いながら言ったつもりだった。
けれど、カップを並べる音が、いつもより大きく聞こえた。
「何だよ、急に。」
「さっき、奥さんのことを考えて嬉しそうにしてたから。お姉ちゃん、ちょっと寂しくなっちゃった。」
「そんな言い方するなよ。」
困ったように返されて、私も笑う。
寂しいと口にしてしまえば、それで済む気がした。
弟相手の、少し情けない愚痴。
ここでおしまいにして、違う話をすればよかった。
「……でも、本当に。私、女としての魅力がないのかなって、思うことはあるよ。」
春馬の手が止まった。
手持ち無沙汰に触っていた、箱の持ち手から指が離れる。
「何で。」
「だって、付き合っても長続きしたことないし。もう、しばらく彼氏もいないしね。」
最初から、うまくいかなかったわけではない。
会う約束をするのが楽しみだったことも、連絡が来るたびに嬉しくなったこともあった。
けれど、いつの間にか、次の約束が決まらなくなる。
少しずつ連絡が減って、気がつけば、私だけが待っていた。
そういうことが重なると、相手より、自分の中に理由を探すようになった。
一緒にいても、つまらなかったのだろうか。
もっと、甘えたりすればよかったのだろうか。
考えても、今さら誰にも確かめられない。
「お花を選ぶときみたいに、相手が何を欲しがってるのか分かったらいいんだけどね。」
冗談に戻したくて、そう付け足した。
春馬は笑わなかった。
私を見たあと、何かを考えるように視線を落とす。
「……それ、姉ちゃんだけのせいじゃないかもよ。」
紅茶の袋に伸ばしかけた手が止まった。
「どういう意味?」
「いや。」
春馬は一度口を開いて、それから言い直した。
「相手の問題とか、タイミングとか。姉ちゃんばっかり悪かったとは限らないだろ。」
「……そうかな。」
「そうだよ。」
いつもより、少し低い声だった。
慰めてくれているのだろう。
そう思ったのに、最初の言葉だけが、うまく飲み込めずに残った。
◇
勝手口が鳴った。
トントン、と二回。
少し間を置いて、もう一度。
「開いてるよ。」
返事をすると、ドアノブが回った。
「みあ。」
顔を覗かせた琉生が、テーブルのほうへ目を向ける。
ミルクティー色の髪が、傾いた光に柔らかく透けていた。
「春馬くん、久しぶりだね。」
「おう。久しぶり。元気だった?」
「うん。春馬くんも、元気そう。」
琉生は後ろ手に扉を閉めた。
黒い上着の肩に、小さな花びらが一枚ついている。
「琉生、ちょっと待って。」
「ん?」
そっと取って見せると、琉生が自分の肩を見た。
「どこでついたんだろ。」
「裏に置いてある鉢かな。今、風が強かったから。」
指先の花びらを片づけ、棚からカップをもう一つ出した。
「出勤前?今、紅茶淹れるところだけど、飲んでいく?」
「飲む。」
迷いのない返事に、少し笑ってしまった。
琉生が、いつもの椅子を引く。
春馬は足元の箱を自分のほうへ寄せ、場所を空けた。
「その花、どうしたの?」
「今日、結婚記念日なんだ。姉ちゃんがお祝いにくれるっていうから、取りに来た。」
「そっか。おめでとう。」
「ありがとう。」
二人の声を聞きながら、濃いめに淹れた紅茶へミルクを注ぐ。
三つのカップの中で、白い筋がゆっくりほどけていった。
そのとき、店の入口のベルが鳴った。
「はーい。」
店へ向けて返事をし、手を止める。
「ごめん、先に飲んでて。琉生、カップ持っていってもらっていい?」
「いいよ。」
受け取ろうとする手に、持ち手を向ける。
「熱いから、気をつけてね。」
「分かってる。」
柔らかく返された声を背に、私は店へ出た。
「いらっしゃいませ。」
入口には、買い物袋を持った女性が立っていた。
「小さな花束をお願いできますか。お友達の誕生日に。」
「もちろんです。どんなお色がお好きな方ですか?」
話を聞きながら、壁際の花へ目を向ける。
その人のために選ぶ色が、少しずつ頭の中でまとまっていった。
奥の話し声は、ここまではよく聞こえない。
カップを置く、小さな音だけがした。
私は花桶から一本抜き取り、女性へ差し出す。
「こちらはいかがでしょう。柔らかい色ですけど、ほかのお花と合わせると、明るくなるんですよ。」
女性が、嬉しそうに頷いた。
誰かが誰かを思う気持ちに、花を選ぶ。
そうして喜んでもらえるこの仕事が、私は好きだった。
それでも今日は、花を束ねる指が止まるたび、春馬の左手に光っていた指輪を思い出した。




