3話 夕暮れに、甘い棘
四月最初の夕方は、まだ少し肌寒かった。
ガラス戸の向こうを、真新しいスーツを着た人たちが通り過ぎていく。
店先の鉢植えには西日が差し、その影が、入口の敷石に細く伸びていた。
「この前の花、評判よかったよ。」
声に振り向くと、琉生がカウンターの横に立っていた。
出勤前に顔を出して、そのまま私の片づけを手伝ってくれている。
「本当? よかった。お祝いの席だったから、少し気になってたの。」
「写真も撮ってた。今度、見せるね。」
「ありがとう。楽しみにしてる。」
使い終えた花桶を重ねると、琉生がそれを持ち上げた。
奥へ運んでくれる背中にお礼を言ったところで、入口のベルが鳴った。
「こんにちは。」
扉の向こうから、見覚えのある青年が顔を覗かせる。
明るい茶色の髪に、少し下がった目尻。背が高く、人懐っこく笑う、爽やかな人だ。
「いらっしゃいませ。佐藤さん。今日はスーツなんですね。」
「はい。今日、入社式だったんで。」
少し照れたように、彼が襟元へ手をやった。
以前は大学の帰りに寄ってくれていたから、その姿が新鮮だった。
「そうだったんですね。おめでとうございます。」
「ありがとうございます。まだ全然、実感ないですけど。」
そう言って笑ってから、彼は店内の花へ目を向けた。
「今日も、彼女さんに?」
「はい。彼女も今日が入社式で。会う前に、何か買っていこうと思って。」
彼がこの店で選ぶ花には、いつも同じ相手がいた。
最初はすずらん。それからも、ときどき立ち寄っては、彼女に贈る花を選んでいく。
「それなら、スイートピーはいかがですか。」
壁際へ移動し、花瓶から赤い花を一本抜き取る。
薄い花びらが、春の光を透かして揺れた。
「スイートピーには、『門出』という花言葉があるんですよ。新しい生活のお祝いに、ぴったりだと思います。」
「門出。」
繰り返した彼が、少し身をかがめて花を覗き込む。
私も茎を傾けて、正面から見えるように差し出した。
「いいですね。それ。」
花を見つめる目元が、ふっと和らぐ。
きっと、渡す相手の顔を思い浮かべたのだろう。
「これ、一本でも包んでもらえますか?」
「もちろんです。」
カウンターへ戻ると、琉生がその内側に立っていた。
さっきまで動いていた手を止めて、こちらを見ている。
「琉生、そこの包装紙、取ってくれる?」
「……これ?」
「うん。ありがとう。」
差し出された紙を受け取り、カウンターへ広げた。
青年が琉生に軽く会釈をすると、琉生も小さく頷き返す。
茎の切り口を保水材で包み、花びらをつぶさないよう、ゆったりと紙を合わせていく。
淡い包装紙の中で、赤がいっそう鮮やかに見えた。
「今日は、これからお二人でお祝いですか?」
「はい。ご飯、食べる約束してて。」
「それは楽しみですね。」
「彼女のほうがどうだったか、早く聞きたいです。」
話しながら、彼はまた笑った。
自分の一日を話すことより、相手の一日を聞くことを楽しみにしている。その様子が微笑ましくて、私も口元を緩めた。
リボンを結び、花を手渡す。
「お待たせしました。喜んでいただけるといいですね。」
「ありがとうございます。きっと喜びます。」
会計を済ませた彼は、花を大切そうに持ち直した。
「また来ます。」
「はい。ありがとうございました。」
扉が開き、夕方の冷たい風が店内へ入ってくる。
赤い花を持った背中が、通りの向こうへ遠ざかっていった。
◇
「ああいうの、タイプなの?」
ベルの余韻が消えた頃、隣から声がした。
「え?」
「さっきの男。」
琉生はカウンターに片手をつき、閉じた扉へ目を向けていた。
「背が高くて、爽やかで。みあ、楽しそうだったから。」
「あの子は、うちにたまに来てくれるの。彼女のために、いつもお花を買ってるんだよ。」
使い終えたリボンを巻き直しながら答える。
「ふぅん。」
「今日も入社祝いだって。素敵だよね。」
琉生は答えなかった。
不思議に思って顔を上げると、今度は私を見ていた。
「でも、みあがかわいいから買いに来てるのかもよ。」
「また、そんなこと言って。」
思わず笑って、リボンを棚へ戻す。
「あの子、彼女の話をするとき、すごく嬉しそうなんだもの。お花を選ぶときだって、いつも一生懸命だよ。」
「……よく見てるんだね。」
「どんなお花がいいか、一緒に考えるからね。」
紙の切れ端を集めていると、琉生が一枚だけ拾い上げた。
細く残った端を、指先でゆっくり折っている。
「さっきも、近かったし。」
「花を見てもらってたんだから、あれくらい近くなるよ。」
「そう。」
返事のわりに、納得した様子はなかった。
小さい頃も、私がお客様と長く話していると、琉生はよく隣へ来ていた。
用事があるのかと尋ねても、首を横に振るだけ。それでも、エプロンの裾をつまんだ手は、なかなか離してくれなかった。
今はもう、裾を引いたりはしない。
けれど、こうして隣で口数が少なくなると、あの頃を思い出す。
「退屈だった?ごめんね。」
琉生の指が止まった。
「……退屈だったわけじゃないよ。」
「そう?もう少しいられるなら、ミルクティーでも飲んでいく?」
壁の時計を見てから尋ねる。
琉生も同じように時計を見上げ、少し間を置いて頷いた。
「飲む。」
「じゃあ、奥に座ってて。すぐ淹れるね。」
琉生は折っていた紙を屑入れへ落とした。
そのまま奥へ行くかと思ったら、私がカウンターを出るまで待っていた。
「どうしたの?」
「別に。」
そう言って、隣に並ぶ。
私は電気ケトルに水を入れ、棚からカップを二つ取り出した。
沸いたお湯で紅茶を少し濃いめに淹れ、ミルクを加える。
白い筋がゆっくり広がり、紅茶が柔らかな色に変わっていった。
仕事の合間に飲む、温かいミルクティーが好きだった。
慣れた香りが立ち上るだけで、ひと息つける気がする。
◇
店の奥の小さなテーブルに、ミルクティーを置く。
琉生はいつもの椅子に座り、立ち上る湯気を眺めていた。
入口のベルが鳴れば、ここからでもすぐに聞こえる。
「今日は、何時に行けばいいの?」
「あと十分くらいは平気。」
「そう。じゃあ、少し休めるね。片づけも手伝ってくれてありがとう。」
向かいに座ると、琉生が顔を上げた。
「俺が来たときは、さっきみたいに笑わないよね。」
「さっきみたいに?」
「いらっしゃいませ、って。」
少し考えてから、私は笑った。
「琉生は、勝手口から来るでしょ。それに、お客様じゃないもの。」
「……うん。」
「今さら、いらっしゃいませって言ったら変じゃない?」
「そうだね。」
琉生はカップに手を添えた。
細い指の間で、白い陶器が包み込まれる。
「俺は、あっちからでいい。」
視線の先には、勝手口があった。
「もちろん。表から入ったら駄目ってことでもないけど。」
「分かってる。」
ようやく、いつものように口元が緩む。
私はミルクティーを一口飲んで、ほっと息をついた。
片づけの手を止めて座ったら、少し足が疲れていることに気づいた。
向かいで琉生もカップを持ち上げ、すぐに口元から離した。
「熱かった?」
「……少し。」
「淹れたばかりだもの。慌てて飲まなくても大丈夫だよ。」
そう言うと、琉生は湯気の向こうで小さく笑った。
◇
「じゃあ、行ってくる。」
空になったカップを流しへ運んでから、琉生が上着を手に取った。
「うん。お仕事頑張ってね。」
「みあも、無理しないで。」
「ありがとう。今日は手伝ってもらったから、助かったよ。」
勝手口を開けた琉生が、外へ出る前に振り返る。
「また来るから。」
「うん。今度もミルクティーでよければ。」
「それがいい。」
そう言って笑う顔は、さっきよりも機嫌がよさそうだった。
扉が閉まってから、二つのカップを洗う。
水を切って並べると、私はエプロンで手を拭き、店へ戻った。
花瓶の中には、まだ赤いスイートピーが残っている。
一本抜いたところを整えながら、さっきの青年は、もう彼女に会えただろうかと思った。
門出の花。
新しい場所へ向かう人に、持っていってもらえたらいい。
奥では、洗ったばかりのカップが二つ、伏せてある。
琉生が次に来たときも、きっとまた、同じ椅子に座るのだろう。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
花から手を離して、私は顔を上げた。




