2.5話 琉生side①
エレベーターの扉が閉まる直前まで、俺はその前に立っていた。
俺の手から葉の切れ端を取って、紙に包んでしまう。
昔からそうだった。
小さい傷や、服についた汚れ。
俺が気にしていないようなものまで、みあは見つけて綺麗にしてくれる。
閉じた扉に映る自分の顔を見ながら、口元が緩む。
「……みあ。」
誰にも聞こえないように呟いた。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
この呼び名を知っている人は、もうほとんどいない。
俺がまだ小さかった頃、みあの両親がそう呼んでいた。
俺もそれを真似して、何度も呼んだ。
みあ。
本当は、もっと別の呼び方をしてもよかったのかもしれない。
けれど、一度そう呼び始めてから、変える理由なんてなかった。
俺にとって、みあはずっと、みあだった。
◇
店に戻ると、出勤してきたホストたちが慌ただしく準備をしていた。
「キョウヤさん、お疲れさまです。」
「お疲れ。」
声を掛けられ、いつものように返す。
さっきまで、みあの隣にいた俺と、ここにいる俺は、同じ人間だ。
けれど、どこか違う。
ここでは、俺はキョウヤだった。
客の目を見て、欲しい言葉を選ぶ。
近づきすぎず、離れすぎず。
簡単には手に入らない男を演じて、相手が俺を追いかけてくるのを待つ。
それが、俺の仕事だった。
鏡の前に座り、髪を整える。
ミルクティー色の髪を指先で撫でつけながら、さっき見た花を思い出した。
淡い花の間に添えられた、深い紫。
昼の花屋では控えめだった色が、黒い店内では妙に鮮やかに浮かんでいた。
あの花を選んだのは、みあだ。
届け先の照明や、座る人の目線まで考えて、花を組み合わせる。
客の曖昧な希望を聞いて、その人が本当に欲しいものを形にする。
みあは、昔からそういうことが得意だった。
俺が何も言わなくても、困っていることに気づく。
腹が減っていることも、眠れていないことも、黙っていても見抜く。
今日だって、会ってすぐに聞かれた。
「今日はよく眠れた?」
「ご飯食べた?」
何度も聞かれている、いつもの言葉。
子供じゃない。
もう二十四歳だ。
自分のことくらい、自分でできる。
そう思うのに、みあに聞かれると、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ嬉しい。
俺がちゃんと眠れているか。
ちゃんと食べているか。
そんなことを気にしてくれる人がいる。
それが、たまらなく嬉しかった。
◇
俺がみあの店へ通うようになったのは、もっと小さい頃だった。
何か特別なきっかけがあったわけじゃない。
気づけば、学校が終わると花屋へ向かっていた。
店の奥には、いつもみあがいた。
水の入ったバケツを運んだり、花の茎を切ったり、両親の手伝いをしていた。
俺が勝手に店の隅へ座っていても、何も言わなかった。
「琉生、お腹空いてない?」
そう聞いてくると、母親のように何かを食べさせてくれた。
「眠かったら、二階で寝ていいよ。」
そう言われて、何度もソファで眠った。
目を覚ますと、毛布が掛けられている。
隣には、みあが座っている。
花の香りと、葉や土の青い匂い。
その中にいると、不思議と息がしやすかった。
あの頃のことを、みあはどこまで覚えているのだろう。
俺が九歳で、みあが十四歳だった頃。
花屋の奥で、みあが花の茎を切っていた。
窓の外は夕暮れの色に染まり、店内には、切ったばかりの茎と土の匂いが残っていた。
「私、三十歳までには結婚したいな。」
みあは、手元の花を見ながら言った。
その言葉の意味を、当時の俺はよく分かっていなかった。
ただ、三十歳という数字が、ずっと先のものに思えた。
「じゃあ、三十歳までに結婚しなかったら、俺と結婚しようよ。」
思いついたまま、そう言った。
みあは驚いたように顔を上げ、それから小さく笑った。
「琉生が大人になったらね。」
「うん。俺、大人になる。」
「約束できる?」
「約束する。」
みあが差し出した小指に、自分の小指を絡めた。
あのときの約束について、俺はみあと一度も話したことがない。
みあにとっては、子供の頃の冗談なのだろう。
けれど、俺は違った。
あの日からずっと、三十歳という数字を覚えている。
みあが誰かと結婚する前に。
俺が、みあの隣に立てるようになるまでに。
今も、俺はその約束を守るつもりでいる。
俺は、みあと過去のことをあまり話したことがない。
話したくないわけではなかった。
ただ、みあの前では、面倒なことを考えたくなかった。
あの店にいる間だけは、何も気にしなくてよかった。
誰かに怒られることもない。
帰る時間を気にする必要もない。
みあはいつも、俺を追い出さなかった。
「今日はもう帰る?」
そう聞かれても、俺が首を横に振れば、困ったように笑って隣にいてくれた。
だから、俺にとって花屋は、昔から帰る場所だった。
みあの両親が亡くなり、みあが一人で店を守るようになってからも、それは変わらなかった。
俺は、あの勝手口を叩いた。
トントン、と二回。
少し間を置いて、もう一度。
みあは必ず、俺だと分かってくれる。
扉の向こうから、迷いなく返事が来る。
「開いてるよ。」
その声を聞くだけで、胸の奥に張りつめていたものがほどけていく。
ここには、帰ってきてもいい。
そう思える。
◇
「キョウヤさん、今日の卓、確認お願いします。」
声を掛けられ、鏡から視線を外す。
スマートフォンを手に取り、今夜の予定を確認した。
いつもの仕事。
いつもの夜。
けれど、頭の片隅には、みあの言葉が残っていた。
――ほかの人には、みあって呼ばせないでね。
あんなことを言ったのは、急だった。
みあは、きっと深く考えていない。
昔からそう呼んでいたから、俺にとって自然な呼び方だと思っているだけだ。
でも、俺にとっては違う。
みあ。
その名前は、俺だけのものだった。
正確には、俺だけが今も呼べる名前。
みあの両親が呼んでいたその名を、俺はずっと手放さなかった。
誰かが同じように呼ぶのは嫌だった。
みあは誰にでも優しい。
相手の迷いに気づき、その人に合う花を選ぶ。
だから、誰かに好かれることもあるだろう。
そう思うだけで、胸の奥がざらついた。
俺の知らないところで、みあの笑顔を見ている人がいる。
みあに名前を呼ばれて、みあから花を受け取る人がいる。
そんなことを考えると、落ち着かなくなる。
俺はもう、みあに世話を焼かれるだけの子供じゃない。
みあの隣に立って、みあを守れるくらいにはなった。
そう思っているのに、みあはいつまでも俺を昔のまま見ている。
世話を焼かれるのが嬉しくて。
子供扱いされるのが、少しだけ悔しい。
嬉しくて、もどかしくて。
どうしようもなく、好きだった。
◇
店内の照明が落ち、音楽の音量が上がる。
夜が、ゆっくりと店を満たしていく。
俺は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。
藤田琉生ではなく、キョウヤの顔。
余裕のある笑みを浮かべ、誰にも隙を見せない。
今夜も、俺はキョウヤになる。
けれど、仕事が終われば、みあの花屋へ帰る。
「……みあ。」
誰にも聞こえないように、名前を呼ぶ。
俺がどんな夜に染まっても。
どんな顔で誰かを惹きつけても。
みあの前では、藤田琉生でいられる。
そして、みあだけが俺を、琉生と呼ぶ。
その声を、誰にも渡したくなかった。




